牧師の人格障害にご用心

2018年10月14日日曜日

教会生活あれこれ

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 残念ながら100%実話ですが、教会でこんなことがありました。

牧師「悩みがあるなら何でも話してほしい。僕たちは神の家族なのだから」
信徒「でも何でも話すわけには・・・」
牧師「何を言ってるんだ。家族は何でも腹を割って話すものだろう?」
信徒「でも言いづらいこともありますよね」
牧師「それを言うのが信頼関係だよ。言いづらいことも受け入れるから安心してほしい」
信徒「(思い切って)先生に理不尽に怒られるのが嫌です」
牧師「それは牧師批判だ。今すぐ役員会で君の処分を決める」

 気兼ねなく話してほしいと言われてそうしたら、めちゃくちゃ怒られた、という話です。「怒らないから話してみろ」と言われて話したらやっぱり怒られた、みたいなのに似ていますね。

 ちなみにその信徒はその場で「悔い改め」の祈りをさせられて、なんとか許してもらえたそうですが。酷い話です。

 その教会の姿を如実に表した話だなあ、と私は思いました。神の家族だ、愛の教会だ、神にあって私たちは一つだ、などと綺麗事で飾り立てていますが、ちょっと本音が出れば醜い争いに陥って、その薄っぺらさを露呈するのです。

 それにしてもこの牧師、人格障害の類ではないかと思います。普段は良い人に見えるのですが、上記のように突然怒り出すからです。しかもただ短気というには、怒り方が尋常でありませんでした。明らかに怒りをコントロールできていません。本人はそんなこと絶対認めないでしょうけれど。

 でもそういう指摘をすると、こんな擁護意見が出てきます。

「完全な人などいないのだから」
「牧師先生だって頑張ってるんだから」
「自分だって罪人なのだから、牧師先生を責める資格はないでしょう」

 それは基本的に間違っていないと思いますが、病的な状態をスルーしてしまうのは良くありません。でないと被害に遭う信徒が増えるばかりですから。それに放置すれば教会そのものの崩壊にも繋がるでしょう(そういう教会は早々に崩壊すべきだと、私個人は考えますが)。ただの人格的な短所と、病的な問題を混同してはいけません。

 ただ人格は外から見えませんので、なかなか難しいものがあります。
 たとえば牧師がどこかで事故に遭い、血だらけの状態で教会に来たとしたら、誰も講壇には立たせないでしょう。それよりすぐ病院に連れて行くはずです。でも同じ牧師が心に深刻な問題を抱えていて、一部の信徒が嫌な思いをしていたとしても、それだけで講壇に立たせないということはありません。

 見えづらいだけに、深刻な問題として捉えられにくいのです。

 神学校は神学生のカウンセリングなどすると思いますが、やはり専門機関ではありませんから、人格障害の類を見抜くのは難しいでしょうね。「ちょっと問題ありだけど、まだ若いからね」みたいに楽観視されてしまうのではないでしょうか。よくわかりませんが。

 いずれにせよ牧師の問題の一番の煽りを受けるのは、他でもない信徒たちです。もちろん信徒の問題の煽りを受けるのは牧師ですから、お互い様なところはあるでしょう。でもやはり病的なものは放置すべきでありません。

 皆さんどうぞ健全な教会生活を送って下さいね。あ、教会生活なんて送ってないよ、という方はそれはそれで全然構いません。大丈夫です(笑)。

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