どういうキッカケだったか忘れましたが、当時十代の少年だったAくんが、教会に来るようになりました。あれこれ事情があって、私はAくんによく関わりました。だから結果的にAくんが求道者、私が導き手、みたいな立ち位置になりました。私自身はそこまで堅苦しく考えていませんでしたが(Aくんがどう考えていたかはわかりません)。
Aくんは最初のうちは教会を楽しんでいたようですが、次第に、礼拝に来なくなりました。そしてそのうち、礼拝後のランチ中とか、何の集会もない平日の夜とか、そういうタイミングで顔を出すようになりました。もちろん狙ってのことだと思いますが。
当時、私は今以上に頭の固い人間でしたから、「ちゃんと礼拝に来た方がいいよ」とあるときAくんに言いました。でも彼はとっても正直な子でしたから、悪びれることなく、こう返すのでした。
「だって礼拝つまんないんだもん」
ちょっと反論したい気にもなりましたが、一方で「そうかもしれない」と思う自分もいました。私自身は賛美が大好きでしたから礼拝を楽しんでいましたが、Aくんの立場に立ってみれば、楽しい要素などなかったでしょう。特にメッセージは難解で、長くて(1時間くらい!)、でもずっと座っていなければなりませんから、苦痛でしかなかったはずです。
だからAくんの「つまんないんだもん」を聞いて以来、私はあえて礼拝に誘うことはしませんでした。そんな苦痛を十代の少年に強いることはできなかったからです。また「そのうち楽しくなるから来て」などと言う自信も私にはありませんでした。
それからAくんは家庭やら学校やらの事情がいろいろ複雑になって、教会に来なくなりました。かろうじて私とは時々会ってくれましたが、それでも次第に疎遠になって行きました。そして会わなくなりました。
数年後、Aくんと偶然再会できましたが、彼はずいぶん変わっていました。当然ながら教会の話は出ませんでした。
結局のところ、「キリスト教」も「教会」も、彼の人生に何かを及ぼすことはできなかったのでした。
☆ ☆ ☆
それはAくんが悪いのでしょうか。
彼が教会に対して(あるいは神に対して)心を開かず、「つまんない」などと思ったのがいけなかったのでしょうか。
そんなことはないと私は思います。むしろ教会が(もっと言うと、神様が)Aくんにとって魅力的でなかったのです。あるいは私の力量不足だったのです。Aくんが「また来たい」と思える場所ではなかったのです。はっきり言いますが、それが事実です。
かと言って、私は教会を非難したいわけではありません。教会にも様々な事情がありますし、全てのタイプの人をフォローできるわけではありませんから。
ただそうは言っても、教会はどれだけ、新来者(いわゆる求道者や、それ未満の人たち)の「視線」を意識しているでしょうか。どれだけ自分たちが見られ、評価され、判定されているか、ご存知でしょうか。
教会の中の人たちからすれば教会は「神の宮」であり、「聖所」であるでしょう。そこに幾分かの自負もあるかもしれません。でも新来者からすれば教会は「目新しい見世物」に過ぎません。楽しそうか、面白そうか、興味を満たしてくれそうか、というような視点でしか見られません。そして短時間で、極めてシビアにジャッジされます。
でもそれは当然です。
たとえばあなたが旅行をしたとします。「あーいい所だな。また来たいな」と思うこともあれば、「もう十分だ。ここはもう来なくていいかな」と思うこともあるでしょう。あるいは「全然期待外れだった」と思うこともあるかもしれません。
基本的に、教会もそれと同じです。
それなのに、教会が内輪で盛り上がったり、部外者にわからない何かで喜んだりしていたら、新来者はしらけるだけです。当然「つまんない」でしょうし、「また来たい」とは思いません。
たとえばですが、伝道集会を開くとします。
冒頭、リーダーが「さあ主を賛美しましょう!」とか元気に言って、みんなワーッと盛り上がって、初っ端からテンションマックスで賛美したら、新来者は完全に「置いてけぼり」です。「主って何」「賛美って何」「なんでこんなテンション高いの」みたいな疑問が当然浮かんで、戸惑うと思うのですが。
教会の中の人たちにとってそういうものに価値があるのは、否定しません。でも新来者はそうは見ません。なのに「説明しなくても礼拝の素晴らしさは伝わるはずだ」なんて都合よく考えていませんか。1ミリも伝わっていないと思いますよ。
繰り返しますが、教会があれもこれもするのは不可能です。人手も足りないでしょう。でも人手はさておき、そういう「新来者の視線」をちゃんと意識しないことには、何をやっても何もならないと私は思います。
教会は第二、第三のAくんを生み出していないでしょうか。
昨日のミサの説教の間、私の隣にいつも座っておられる方二人が、ずーと世間話をされてました。神父さんは毎週交代でその日はA神父さんでした。A神父さんの説教は眠たくてだいたい寝ています。世間話の声が大きくて眠りにくかったのが残念です。
返信削除神父さんも話されていることが聞き手につまらなく感じられているとは思いますが、さすがに説教中に私語が堂々と交わされていると、どう感じられているでしょうか。
1,3週時のA神父のときは参加者が少なく、2,4週時のB神父の時には参加者が多く感じますね。
神父さんはだいたい3年から5年で交代しますので、いつまでも同じ神父さんが同じ教会にいないので良いと考えておりますが・・・
説教中に堂々としゃべられたら、神父さんとしては辛いものがあるでしょうね。ほかの神父と比較されるような感じもするかと思います。
削除その意味でも、神父さんが定期的(?)に移動するカトリックは過ごしやすいのかもしれません。