普段は海まで続く川沿いを走ります。いわゆるランニングコースで、まわりはランナーだらけです。ランナーっぽい格好で、晴れた日はサングラスなんか掛けるのですが、みんな同じような格好で走ってます。
でも時々職場の近くの住宅街を走ってみますと、ほかに走ってる人なんていません。だからなのか、よくジロジロ見られます。珍しいからってそんなに見なくていいと思うんですけどね。
そういう細かいことに、日本社会の特徴(?)みたいなものを感じます。つまりランナーがランニングコースを走っていれば気にならないけれど、そうでない住宅街を走っていたらやたら気になる、という特徴です。異質なものを(時として失礼なくらい)好奇の目で見てしまうのですね。そういう傾向が日本人にはあると思います。もちろん皆が皆ではありませんが。
ランニング程度ならそれも大したことありませんが、外国人とか、障害のある方とか、ホームレスの人とか、そういう「異質さ」は注目を集めるだけでなく、時として排斥の対象にもなります。
私も吃音症のおかげで学生時代は奇異の目で見られたものです。「あいつはしゃべれない奴だから」みたいな見えない線引きがされて、「こちら側」と「あちら側」とで分けられてしまったような気がしました。そしてその見えない線はどうしても越えられないのです。まるでアブラハムの腕に抱かれた貧乏人ラザロの世界と、火で焼かれる金持ちの世界のように。
異質なものを持っていると、それだけで「普通の人々」の中に入っていけなくなるのです。あるいは、入っていくのに相当な努力を要するわけです。それが日本のムラ社会ではないでしょうか。強い同調圧力が標準装備された社会、と言うか(もちろん良い面、悪い面あると思います)。
☆ ☆ ☆
キリスト教会にも同じような同調圧力が働いていると私は思います。
クリスチャンかくあるべし、みたいないろいろです。祈りの文言はこうであるべし、賛美中は手を挙げるべし、伝統的な聖歌を歌うべし、聖書は◯◯訳であるべし、女性の服装は慎ましくあるべし、子供は騒がないように躾けておくべし、献金は小銭でなく札であるべし、などなど。
そういうピアプレッシャーが、暗黙の了解のように、教会に蔓延していないでしょうか。そし自分たちを窮屈なところに押し込め、不自由にしていないでしょうか。
若者が新しい企画を提案しても大概、役員会に阻まれます(という話をよく聞きます)。理由は「前例がないから」「やったことがないから」というくだらないものなのですが。
『祈りのちから』などのクリスチャン映画の監督で有名なアレックス・ケンドリックは、「映画を作りたい」と教会の牧師に持ちかけた時、どうせ断られるだろうと半ば諦めていたそうです。でもその牧師は若い頃、あれこれ提案してもことごとく却下された苦い経験があったため、こう決意していたそうです。
「教会の若者が何かやりたいと言ったら、絶対に断らないで、全面的に協力してあげよう」
その結果、ケンドリックは『フェイシング・ザ・ジャイアント』を撮り上げることができました。この映画はまずまず好評で、ケンドリックはその後も映画を作り続けることになります。
ちなみに同映画はシャーウッド・バプテスト教会の信徒たちがボランティアで出演から裏方まで務めた、いわゆる「教会映画」です。とっても感動できるのでお勧めです(私は、ですが 笑)。
教会はもうちょっと自由な場所のはずですが、閉塞して凝り固まった組織になっていないでしょうか。もちろん何でもかんでも受け入れるわけにはいかないでしょう。組織を守ることも必要です。でも保守に偏りすぎて、一切の変化を拒否してしまうようになってしまっては、逆効果です。組織の寿命を縮めることにもなってしまうでしょう。
『もっと教会を行きやすくする本 新来者から日本のキリスト教界へ』という書籍がありますが、こういう本の知識を積極的に取り入れて、自ら変革していこうと努力する教会も少なからずあるようです。そういう柔軟性や自由度が全ての教会にあったらいいのではないかな、と私は願っています。
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