クリスチャンって、要はどんな人なんですか?

2018年9月13日木曜日

教会生活あれこれ

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クリスチャンって、要はどんな人なんですか?」と聞かれたら、クリスチャンの皆さんはどう答えるでしょうか。

 神を礼拝する者です。
 神の福音を述べ伝える者です。
 教会の「からだ」として人々に仕える者です。
 神の御心に仕える者です。

 などなど、いろいろ答えがありそうです。ちょっと通な人になると、

 神から世界宣教の命令を受けた者です。
 神から世界管理を任された者です。

 などと言うかもしれません。クリスチャンであるあなたは、どう言うでしょうか。

 私はシンプルに「キリストにならって生きる者」だと思うのですが、「キリストにならって生きる」というのもザックリした感じでわかりにくいですね。具体的なところは、どうなのでしょう。

 ただクリスチャンのアイデンティティについて考える時、「神に仕える」とか「人に仕える」とかの外向きのことより前に、自分自身はどうなんだという内向きのことを先に考えるべきではないかな、と私は思います。

 教会の中を見てみますと、自分自身を徹底的に犠牲にして、人々に仕える人がいます。そういう人、皆さんの教会にもいませんか。そういう人はまるで使命であるかのように、自分のことを二の次三の次にして、他人のニーズを満たそうとします。

 それはそれで素晴らしいことだと思うんですけど、その人自身のニーズはどうやって満たされるのか、と気になってしまいます。「他人のニーズを満たせば自分のニーズも満たされるんだ」みたいな答えが返ってくるかもしれませんけれど(それって本当なんですか?)。

 こういうことについてイエスが何と言っているかというと、「自分を愛するように人を愛せ」という言葉が近いかと思います。でもこの場合は「自分を愛していないけれど人を愛する」という逆説的な状況になっているようにも思います。まずは自分を愛することではないでしょうか。

 もちろん、他人に献身し尽くすことが喜びです、満たされるんです、幸せなんです、という人で、本当に健全な状態を保てているならば、それはそれでいいと思うんです。そういう超人的な人が実在するのかどうかは知りませんけれど。

 中には自分自身が酷い状態なのに、「聖書の教えだから」「教会でそう言われるから」ということで、他人を無理に愛そうとする人がいます。自分自身が深く傷つき、疲れているのに、それでも「良きサマリヤ人」になろうとするのですね。こういう人は見ていて本当に痛々しいです。そんな無理しなくていいんですよ、と言いたくなります。

 こういう人は、自分の痛みにどう対処したらいいのかわからないのです。あるいはどうやって解決したらいいかわからないのです。だから他人に向かうのですね。一生懸命に自分を見ないようにして、困っている人を助け、親切にします。彼らが救われるのを見ると、自分も救われたような気になるからです。

 でもそれは錯覚なのですね。自分の傷は依然そこにあって、痛みます。だからさらに自分の内面から目を背け、他人に向かうようになるのです。痛みと苦しみの無限ループです。

 そういう人たちに冒頭の質問をすると、「神様を愛し、人々に仕えるのがクリスチャンとしての喜びです」みたいな教科書的な(聖書的な?)模範解答が返ってきます。
 でも、それってすごく不健全ではないでしょうか。

 だから「世界管理」とか「世界宣教」とかの前に、まずは自分自身を管理することから始めるべきだと私は思います。自分自身がある程度健全で、ある程度幸せでないと、結局のところ、他人に良い影響を与えられないと思うからです。

 イエスは「医者を必要とするのは病人だ」と言いましたが、その通り、私たちは皆が皆、ある種の病人ではないでしょうか。私たちはそれぞれが、ある種のケアや治療を必要としていないでしょうか。
 もし「自分は違う。病人などではない」と言うのでしたら、それはそれで結構ですが、あなたは根本的に神を必要としていないのです。

 だから冒頭の質問に対しては、「イエスを必要とする病人です」と言うのがいいのかもしれません。
 あ、もちろん、答えは人それぞれでいいと思いますよ。

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