「クリスチャンって、要はどんな人なんですか?」と聞かれたら、クリスチャンの皆さんはどう答えるでしょうか。
神を礼拝する者です。
神の福音を述べ伝える者です。
教会の「からだ」として人々に仕える者です。
神の御心に仕える者です。
などなど、いろいろ答えがありそうです。ちょっと通な人になると、
神から世界宣教の命令を受けた者です。
神から世界管理を任された者です。
などと言うかもしれません。クリスチャンであるあなたは、どう言うでしょうか。
私はシンプルに「キリストにならって生きる者」だと思うのですが、「キリストにならって生きる」というのもザックリした感じでわかりにくいですね。具体的なところは、どうなのでしょう。
ただクリスチャンのアイデンティティについて考える時、「神に仕える」とか「人に仕える」とかの外向きのことより前に、自分自身はどうなんだという内向きのことを先に考えるべきではないかな、と私は思います。
教会の中を見てみますと、自分自身を徹底的に犠牲にして、人々に仕える人がいます。そういう人、皆さんの教会にもいませんか。そういう人はまるで使命であるかのように、自分のことを二の次三の次にして、他人のニーズを満たそうとします。
それはそれで素晴らしいことだと思うんですけど、その人自身のニーズはどうやって満たされるのか、と気になってしまいます。「他人のニーズを満たせば自分のニーズも満たされるんだ」みたいな答えが返ってくるかもしれませんけれど(それって本当なんですか?)。
こういうことについてイエスが何と言っているかというと、「自分を愛するように人を愛せ」という言葉が近いかと思います。でもこの場合は「自分を愛していないけれど人を愛する」という逆説的な状況になっているようにも思います。まずは自分を愛することではないでしょうか。
もちろん、他人に献身し尽くすことが喜びです、満たされるんです、幸せなんです、という人で、本当に健全な状態を保てているならば、それはそれでいいと思うんです。そういう超人的な人が実在するのかどうかは知りませんけれど。
中には自分自身が酷い状態なのに、「聖書の教えだから」「教会でそう言われるから」ということで、他人を無理に愛そうとする人がいます。自分自身が深く傷つき、疲れているのに、それでも「良きサマリヤ人」になろうとするのですね。こういう人は見ていて本当に痛々しいです。そんな無理しなくていいんですよ、と言いたくなります。
こういう人は、自分の痛みにどう対処したらいいのかわからないのです。あるいはどうやって解決したらいいかわからないのです。だから他人に向かうのですね。一生懸命に自分を見ないようにして、困っている人を助け、親切にします。彼らが救われるのを見ると、自分も救われたような気になるからです。
でもそれは錯覚なのですね。自分の傷は依然そこにあって、痛みます。だからさらに自分の内面から目を背け、他人に向かうようになるのです。痛みと苦しみの無限ループです。
そういう人たちに冒頭の質問をすると、「神様を愛し、人々に仕えるのがクリスチャンとしての喜びです」みたいな教科書的な(聖書的な?)模範解答が返ってきます。
でも、それってすごく不健全ではないでしょうか。
だから「世界管理」とか「世界宣教」とかの前に、まずは自分自身を管理することから始めるべきだと私は思います。自分自身がある程度健全で、ある程度幸せでないと、結局のところ、他人に良い影響を与えられないと思うからです。
イエスは「医者を必要とするのは病人だ」と言いましたが、その通り、私たちは皆が皆、ある種の病人ではないでしょうか。私たちはそれぞれが、ある種のケアや治療を必要としていないでしょうか。
もし「自分は違う。病人などではない」と言うのでしたら、それはそれで結構ですが、あなたは根本的に神を必要としていないのです。
だから冒頭の質問に対しては、「イエスを必要とする病人です」と言うのがいいのかもしれません。
あ、もちろん、答えは人それぞれでいいと思いますよ。
「イエスを必要とする病人です」・・・これはいいですね!聖書の教えの大切な本質を表わしていると思います。
返信削除前に三浦綾子さんの本を読んだときある文章が印象に残りました。随分むかしで何の本かは思い出せないのですが要点は次のような内容でした。
「私(三浦綾子さん)は牧師や教会の人たちに何も期待しない。期待しないので失望することもない。教会も不完全な人間の集まりだから。皆クリスチャンだからと勝手に期待して勝手に失望している。」
溝田牧師のような人は論外で会員はその教会を早く離れた方が賢明ですが、私が見てきた教会を離れていった人たち(所謂教会につまずいた人)の中には勝手に期待して勝手に失望して出て行った人たちが見受けられました。自分も含めて皆神の前では病人だという意識は、信仰としては逆に健全ですね。
ありがとうございます。
削除「病人」という響きに抵抗のある方もいらっしゃるかもしれませんが、Teoさんのように受け取っていただける方がいるのは嬉しいですね。
自分は大丈夫だ、と思った時点からいろいろおかしなことになっていくのではないかな、と私は考えています。もちろん過剰に卑下したり、これ見よがしに謙遜ぶるのも良くないと思いますが。
いずれにせよ、「これでいいのだろうか」みたいな視点はいつも持っているべきだな、と思います。
主観的に考えると自分がキリスト教徒だと思っている人で、客観的に考えるといずれかのキリスト教会に所属している人ということになりますね。これはどの宗教の信者にも当てはまりますね。
返信削除イメージというのも歴史的なもので、酒タバコもやらず、真面目に人生を送るような人(プロテスタントのイメージ)作家で言えば三浦綾子のイメージですね。酒タバコが好きで、ええ加減に人生を送るような人(カトリックのイメージ)作家で言えば、遠藤周作、三浦朱門のイメージですね。
これはあくまでイメージで、真実かどうかは分かりませんが。
そのイメージで言いますと、私はカトリックの方が好きですね。私もいい加減な人間ですから(笑)。 もちろんプロテスタント的イメージを否定するつもりもありませんけれど。
削除人としてのクリスチャンとは、「死人」である。
返信削除対して、「いのち」とはキリストである。
これを信じている者を、キリスト者という。
キリストにならって(私が)生きるのではなく、
キリストにならってなど全く生きられない病を抱えた私にさえ、
キリストが寄り添って下さることを信じること。
それが、キリスト信仰
だと思います。
その意味では、
クリスチャンとはどんな人なのかという問いは、
すでに、私の中で意味を失っています。
「キリストにならって生きる」というようなことを、聖書は言っていると思うんですけどね。
削除実際にキリストにならって生きることが難しいとしても、そうであろうとする姿勢は必要だと思います。
匿名様の言わんとすることもわかる気がしますが、じゃあ具体的にどう生きるんですか? というあたりが曖昧ではないでしょうか。
枝主の匿名です。
削除そうですね。ご指摘の通り、
人間の側での行いの具体性については、
私はあえて曖昧に書いています。
キリストに倣って生きることが具体的に
「こういう事をすることです」と定義してしまうと、
結果として、自他を傷つけてしまう事になる
という気持ちがあります。
生きるって具体的なことだと思うんですけどね。
削除「私は所詮弱く不完全な人間です」みたいなことを言ったって、毎日仕事やら家事やら人付き合いやらあるんじゃありませんか? そういういろいろな場面で、匿名様はどういう行動をされるんですか? イエスをまったく意識しないで、「死人」みたいに生きる、ということですか? じゃあその「死人」みたいな行動って、具体的に何なのですか? というのが私のお尋ねしたいところですね。
色々な場面での色々な具体的な行動は、その時、その場で、臨機応変に、最善を行うように努めるだけです。それをここで云々しても仕方がありません。
削除ところで、私は以前ホームレスを助ける件で投稿させていただいたものです。何万円もかけ、何日間も彼と付き合ったけど、実は何も善い結果を生み出せなかった、というあの記事のことです。
自分が具体的に何か良かれと思ってやっていることが、実は、あまり良いことでは無かったというのはあり得る事ですし、むしろそういう事の方が圧倒的に多いとさえ思えます。それがキリストを意識して、キリストの言葉に従っていると自分では思っていたとしてもです。そういう、自分の具体的な行いに自分がクリスチャンであるという事の説明と根拠を置いてしまうのは、どうなのかな?と思ってる訳です。下手をすると、自分が溝田牧師のようになってしまうと思うからです。
因みに、「死人」と私が書いたことは、貴兄が「病人」とお書きになったことと、意味のベクトルは同じだと私は思っています。自分が病人であることを認めることで、癒し主であるキリストへと意識が向く訳ですが、同様に、自分はもう何をやっても結局はダメな「死人」であることを信じることで、キリストの復活の力への依存という一つの状態を求めるようになるという意味で、キリストへと鋭敏な意識が向くようになると信じるし、そうなって欲しいと自分自身に願っているのです。
そのようにキリストに意識を向けている者であるという事が、キリスト者であるという事だと思うのです。その意識の中に、色々な具体的な行動は伴ってくるでしょうが、その具体性は、前述したように、その時、その場での事柄ですので、それを一般的にあれこれ議論してもあまり意味が無いように、私は思います。
件のホームレスを助けられた方なのですね。であるなら、具体的な行動云々を尋ねるのも野暮というものでした。
削除ただ私が行動するうえで大切だと思うのは、結果より動機の方です。
私たちはもちろん良い結果を期待して行動を起こすわけですが、匿名様がおっしゃる通り、それが必ずしも良い結果になるとは限りません。でもその動機においては、たとえばホームレスを助けようとした匿名様のそれは、良いものだったはずです。その良い動機によってなされた行為は、結果がどうあれ、キリストにならうものだったのではないかな、と私は思うわけです。
考えてみればイエスが地上で行われた行為も、十字架までの過程でみれば、良い結果を残したとは言えないのではないでしょうか。かと言ってそれが無駄だったかといえば、そうではありません。
はじめのコメントで私が気になったのは、繰り返しになりますが、信仰とは曖昧なものではないはずだ、もっと具体的な行動に反映されるもののはずだ、という点です。
上の方とは別人ですが、私にはこの方の意見が一番しっくりします。キリストを必要とする病人という定義だと、クリスチャンの定義としては少し条件(?)が足りない気がします。病人である自覚を持ち自力ではどうにもならないが、キリストが癒してくださる(くださった)と信じる人とまで言った方がより明確な気がします。
返信削除でそこまで行くとキリストにならって生きる、なんて自分の力ではできないという悟り(?)のような感じになるので、外側からのクリスチャンの定義とかあまり関係なく感じるようになります。
匿名様が仰っている「クリスチャンの定義」は、要は「イエスを必要とする病人」ってことだと思いますよ。
削除あと「自分の力ではできないという悟り」というのは、具体的にはどんなことなんでしょう。具体的にどう生きることが、その「悟りのような感じ」なのでしょう。そのへんが曖昧だと思いますね。
どのような形であれ、生きるとなれば何らかの指針が必要ですし、その指針は「キリストの教え」なんだと思うんですが、何か他の指針でもあるのでしょうか。「悟りの指針」みたいな?
なるだけ、きっちり回答しようと頑張ります。
削除>要は「イエスを必要とする病人」ってことだと思いますよ。
同じかもしれません。一応、私の言いたかったポイントを
明確にするために補足します。
「自分がイエスを必要な病人である」と考えている。
これは前提条件として、以下の
AはクリスチャンでなくBはクリスチャンであるととらえています。
A)しかし、こんな自分ではまだ駄目だ。
もっとキリストにならったよい人間にならないと救われない。
B)キリストにならった行動はとれてない。
自分が努力するることでそうなることもできない。
私の中にはそのようなよいことをする力はいっさいない。
しかし、ただイエスにより頼むことで
キリストは救ってくださる(救ってくださった)。
要は信仰義認のことですね。
>あと「自分の力ではできないという悟り」というのは、具体的にはどんなことなんでしょう。
悟りという表現は適切ではなかったですね。すみません。
言いたかったのは、自分の努力によって、善人になるとか、罪から清くなるとか、
素晴らしい人間(それこそキリストの教えにならった人間)になることができる
という考えがついえて、自分の力では何もできない、ただ恵みによって信仰に
よってのみ救われるという認識に至る。
ということです。そこを悟りという表現しました。適切な表現ではなかったかもしれません。
>具体的にどう生きることが、その「悟りのような感じ」なのでしょう。そのへんが曖昧だと思いますね。
>どのような形であれ、生きるとなれば何らかの指針が必要ですし、
>その指針は「キリストの教え」なんだと思うんですが、何か他の指針でもあるのでしょうか。「悟りの指針」みたいな?
上記になります。が、私自身は、どういう生き方=行動を取っている?が、
クリスチャンであるかどうかの指針ではないと思っています。
「キリストの教えに従って良い行動をしていること」がクリスチャンであるかを
決めているとは考えていません。その辺がちょっと私とfuminaru kawashima様の考えの差かなと思いました。
自分自身の主観的な感覚では、そんな仰々しい感じではないのですが、
教科書的に回答すると「使徒信条」の内容を信じるかどうかになるのかもしれません。
あるいは、内村鑑三が「求安録」で書いているような内容です。
丁寧にありがとうございます。
削除結局は信仰義認に至る、というのはわかるのですが、じゃあ具体的にどういうふうに生きるんですか? というのが、私が繰り返し尋ねているところですね。
「キリストにならうことなんてできない」と敬虔っぽく振る舞うのはいいのですが、たとえば友人が入院したとして、休みの日に時間をとってお見舞い行ったとしたら、それは(小さなことですが)キリストにならうことにはなりませんか? そのような具体的な行為を、決して十分ではないと認識しながらも、意識的にすることが、クリスチャンの歩みじゃないかと私は思うわけです。繰り返しますが、不十分だとわかっていても、です。
もちろん重度の身体障害がある人は文字通り「何もできない」わけですが、じゃあそういう人はクリスチャンになれないのか、という話ではありませんよ。そういう極端な例でなく、実際にいろいろ行動できる(そしていろいろ行動しなければならない)私たちは、じゃあ具体的にどういう行動をするべきなんですか? というのが、私の問うているところなのです。
救いが自分の努力でないのは当然ですし、キリストに達することができないのも当然です。むしろ罪深い者であるのも当然です。それらの当然をわきまえた上で、じゃあ「具体的に」どうするんですか? というのが最も大切なことですし、それ抜きにいくら精神論を述べたって、敬虔そうなことを言ったって、何の意味もないと私は思います。
なかなか、有意義なお話ができてありがとうございます。
削除(皮肉ではないですよ)。
>結局は信仰義認に至る、というのはわかるのですが、じゃあ具体的にどういうふうに生きるんですか?
>というのが、私が繰り返し尋ねているところですね。
具体的にどう生きるか?はクリスチャンであってもなくてもその個人次第だと思っています。
私自身について言うと、「よくわからない」です。とりたてて、「こういう風に生きよう」とかは具体的にはないです。
もちろん意図的に犯罪を犯したり人をだましたりとかしようとは思いませんが、
なるだけ意識的によいことをしなければならない、ともさほど思ってはいません。
というのが本当のところです。
>たとえば友人が入院したとして、休みの日に時間をとってお見舞い行ったとしたら、
>それは(小さなことですが)キリストにならうことにはなりませんか?
なるかもしれませんね。というかおそらくそうでしょう。
ただ、外側の行動だけで判断できるものでもないとも思います。
もしその人が、例えば、所属している教会が律法的な信仰理解をしていて、そのような善行を強制的に
せざるを得ないようか状況に置かれていて、見舞いに行かないとそれは「罪二ナルカラ行カネバナラナイ」
と考えていて、「救われるという目的」のために有用だから、見舞いをしているとしたら、
それをキリストにならうことと言うのにはちょっと抵抗を感じてしまいます。
>そのような具体的な行為を、決して十分ではないと認識しながらも、意識的にすることが、
>クリスチャンの歩みじゃないかと私は思うわけです。繰り返しますが、不十分だとわかっていても、です。
>実際にいろいろ行動できる(そしていろいろ行動しなければならない)私たちは、
>じゃあ具体的にどういう行動をするべきなんですか? というのが、私の問うているところなのです。
私はそこまで具体的な行為を意識していないです。
クリスチャンだから、「不十分だとわかっていても、できる限りでいいから、正しく良いことを
意識的に行って生きてイカネバナラナイ」としたらとても不自由な気がします。
もちろん、そうしたくてそう出来る人は素晴らしいことだとは思います。
この先、自分がそう思うようになるかもしれないです。が、今現在取り立ててそういう
意識はないです。
つまり、クリスチャンだからといって、「特に、具体的にどう行動すべきというものはない」と
思っています。
じゃあ、クリスチャンとそうでない人は何が違うのか?という質問がでるかもしれないですが、
行動の面では特に違わない。が私なりの答えです。
まあ、「キリストにならって生きる」とか、「神にすべてお任せして…」「主の導きに従って、生きる」
というと、教科書的な回答にはなるのでしょう。ただこの言い方だと、具体的にどう行動すべきには言及
してない。
もちろん、信仰によって結果的に行動が変わってくることはあるのかもしれませんが、
でもそれは人それぞれで個人差があるでしょう。
>救いが自分の努力でないのは当然ですし、キリストに達することができないのも当然です。
>むしろ罪深い者であるのも当然です。それらの当然をわきまえた上で、じゃあ「具体的に」
>どうするんですか? というのが最も大切なことですし、それ抜きにいくら精神論を述べ
>たって、敬虔そうなことを言ったって、何の意味もないと私は思います。
"「具体的に」どうするか?"についてですが、
"具体的にどういう行動をするのか?"という意味であれば、とくにそういう行動はないです。私の場合。
自分の努力では救われない、キリストに達することができない、罪深い者
だ。しかし恩寵によって許されたことを認識する(そして感謝する)。
それだけです。
別に敬虔っぽくしたくて言っているのではなく。本当にそう思います。
失礼を承知で言いますと、私は有意義じゃありません。
削除他の匿名さんのコメントを擁護する割に、自分自身は「具体的なことはわからない」というスタンスなのは、正直言って拍子抜けです。有意義な回答を期待してコメントしたらスカスカだった、みたいな。
「行いのないあなたの信仰を見せてみなさい」というパウロの言葉を思い出しましたね。もちろん何かを強要するつもりはありませんが。
これ以上のお返事は不要です。
伊集院裕です。
返信削除「クリスチャンとはイエスを必要とする病人」に私はすごくスッキリしました。
フミナルさんがカルト教会で被害にあった後も、こうしてキリスト教信仰を持ち続けてる理由がわかった気がしましたね。
私の推測ですが、つまりはイエスは空気みたいなもので、空気なしに人が生きていけないように、フミナルさんもイエスなしには生きることができない、「生存欲求」を満たすためのものなのかなぁと思いました。
もしくは「安全欲求」か。
一方で、プロテスタント教会は、牧師たちの話を聞いてると「他宗教はご利益宗教だ」とか、周りを批判しすぎたり、自分たちをなんか特別な人間にしすぎたり、結果的にハードルを上げすぎて、「どう生きるのか」の問いかけに具体的な答えられなくなって自滅したいった感があります。
もしくは、自分たちの教会を盛り上げることしか考えていないか。
その結果、信徒もどう答えてよいかわからなくなってる被害者だと思いますね。
伊集院裕です。
返信削除書き忘れておりましたが、私のクリスチャン時代の指針は、「自分自身を守った上で、自分にできる隣人愛を実践する」です。
まあ、自分自身を大切にしてたので、キリスト教会にかかわっててもつぶされず済みました。
伊集院さん
削除ありがとうございます。
自分が今なお信仰を保っている理由が何なのか、実は自分でもよくわかりませんね。ただ「ある」から「ある」、みたいな感じです 笑
伊集院さんがお書きになった「自分自身を守った上で、自分にできる隣人愛を実践する」というのに私も同意します。結局のところ、私が言いたいのはそういうことです。頑張って聖人ぶるのでなく、身の丈にあったことをすればいいんだ、みたいな。