それって「主が与えた」んですか?

2018年9月20日木曜日

教会生活あれこれ

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 教会にいると「信仰が大切です」とか言われませんか。
 パウロも最後まで残るのは「信仰と希望と愛」だと言っていますし。

 じゃあ信仰って何でしょう。「見えないものを確信させるもの」だと聖書は言っています。イエスの復活を信じられなかった弟子のトマスは「見ないで信じる者は幸いだ」と言われました。つまりそれが起こる前から、見える前から信じておくことが大切なんだよ、と聖書は言っているようです。

 ちなみに「信仰」って二種類あると私は思うんです。
 一つは「イエス・キリストを神と信じます」といういわゆる信仰告白的なものです。クリスチャンの前提みたいなもの、というか。クリスチャンはイエスを信じているから教会に通うし、礼拝を捧げるし、いろいろ奉仕するのですよね。そういう意味の「告白された信仰」です。

 もう一つは、たとえば「この水が葡萄酒に変わると信じます」みたいな、「今」の信仰です。こうなると信じます、ああなると信じますという、言うなれば「現場の信仰」ですね。

 私の教会ではこの「現場の信仰」が重視されていました。

 たとえば「新しい会堂を建てるように主が求めておられます」と牧師が言います。「信じますか?」と。
 そこで「信じません」なんて言える信徒がいるでしょうか。いないですね。新会堂を建てるということは、教会が発展するということですから、いかにも「信仰的」です。それを信じないと言ったら「この不信仰者め!」と叱られそうですし、なんで教会員やってるんだって話になりそうです。

 だから信徒も、「新会堂が与えらえると信じます」と言うことになります。
 すると牧師はこう言います。「信じた通りになるように、あなたにできることをしなさい

 さて新会堂のために私にできることって何でしょう。献金ですね。たぶん牧師が言っているのもそこです。「金を払え」は信仰的に言い換えると、「あなたにできることをしなさい」になるんです(笑)。

 で、信徒の皆さんが頑張って献金をはじめるわけです。
 するとどうなりますか。少しずつお金が貯まっていきます。そして時期はわかりませんが、そのうち本当に新会堂が建てられるくらいになります。

 さて、晴れて新会堂が設立されました。

 牧師は言います。「主が約束通り、私たちに新会堂を与えて下さった!」
 信徒一同は「アーメン」とか「ハレルヤ」とか言って、喜んだり泣いたりします。

 でもちょっと待って下さい。
 その新会堂を建てたのは、信徒一同の献金によるところが大きいのではありませんか。あるいは大部分がそうなのではありませんか。
 てことは、それって「主が与えた」んですか。それとも「信徒一同が与えた」んですか。

「お金を積めば新会堂を建てられる」というのは、「見えないものを確信すること」じゃありませんよね。単純な事実ですよね。それを「信仰」って言い張っちゃうんですか。言い張っちゃうんですよね(笑)。

 その新会堂が建てられる過程で、登記に1ヶ月かかるはずがなんと一週間で済んだ! とか、知り合いの建築事務所に頼んだら工期がなんと半分になった! とか、そういう「奇跡っぽいこと」を強調して、いかにも「主が導いておられる」ふうに牧師はアピールすると思うんですよね。
 でも、せこくないですか。神様の奇跡ってそういう感じなんですか?

 最近、新宿のとあるペンテコステ教会が、近くに新しい建物を建てたか借りたかしたみたいですね。よくわかりませんけど。でも内部では同じようなことが行われていると想像します。

 あ、よく知らないことをあれこれ言っちゃいけませんね。私に言わせれば、これも「見えないものを確信すること」なんですけど(笑)。

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