きたる2020年の東京オリンピックに向けて、ボランティアの募集があちこちで行われているようです。ちらっと見ましたが、ボランティアになると1日8時間の無償労働が最低5日間続くみたいです。交通費や宿泊費は出ません。完全な手弁当ですね。それでボランティアは何を得るのでしょう。やり甲斐とか達成感とか、仲間作りとかコネ作りとかでしょうか。それはそれで良いかもしれません。そういうので満足できる人もいるでしょう。私は絶対やりませんが。
ボランティアの待遇が酷すぎるという批判もあるようです。無償でなく有償にすべきだ、と。もちろんそこまで予算がないから無償でやってくれ、というのが行政側の主張なんですけどね。
もっともオリンピックはたかだか数週間の話です。終わればそんなこと誰も気にしなくなるでしょう。
でもこれと同じようなことが、実はキリスト教会では延々と続いています。「奉仕」という名の無償ボランティアが。これは数週間どころか、何年でも何十年でも続いています。オリンピックのブラック・ボランティアを問題にするなら、教会のそれだって問題にしていいと思うんですけど、どうなんでしょう。
もっと言うと、教会の奉仕は無償なだけではありません。信徒は少なくない献金を毎週毎月教会に払っているはずですから、言うなれば「お金を払って奉仕している」みたいなものです。スーパー・ブラックなボランティアですね。あるいは信徒がMすぎるのか(笑)。
しかし熱心な方々は、こう言うでしょう。
「神への奉仕はお金に勝る価値があるのです」
「そうやって私たちは天国に宝を積んでいるのです」
そういう信仰をお持ちなら、何も言うことはありません。無償で頑張りたい、お金なんか要らない、むしろもっと捧げたい、と思っている人を、止める理由なんかありません。
でも一方で、明らかに問題ありなケースもあります。信徒に奉仕を強要する教会です。
ある牧師はこう言って憚りません。
「クリスチャンは奉仕して当然だ。奉仕しないなんてあり得ない」
これは信徒の積極的な奉仕を期待する姿勢ではありません。奉仕しない信徒は許さん、信徒でいたかったら奉仕しろ、という「脅迫」です。
こういう教会は献金の脅迫もありますから、なお酷いです。沢山献金を払わされて、かつ沢山奉仕をさせられる、という。それを全部「信仰」の二文字で片付けられてしまいます。これじゃまるで奴隷です。「信仰という名の奴隷」ですね(笑い事じゃありませんよ)。
親から相続した土地と家を持つ、裕福な知り合いがいました。彼はある牧師に心酔しすぎて、自分の土地に牧師館を建てさせてしまいました。すると彼は牧師館の管理人みたいなことをさせられ、彼の奥さんは牧師家庭の召使いみたいになってしまいました。まるで彼が、牧師の土地に居候しているみたいです。でも時すでに遅しでした。
数年後、再会した彼はやつれて疲れ切っていました。でも不自然な笑顔を顔に貼り付けて、「主に感謝です」とか言います。精神を病んでいるとしか思えませんでした。
それきり彼とは会っていません。今どうなっているのか、正直知るのが怖いです。
聖書は私たちクリスチャンを「義の奴隷」と言いますが、だからと言って文字通り奴隷なわけではありません。そのへんを勘違いして、あるいは意図的に、信徒を奉仕へと駆り立てる「奴隷使い」みたいな牧師がいますから、皆さんよくよく注意して下さい。
あなたが「信仰」と思っていることが本当に信仰なのか、本当に神への奉仕なのか、よく考えてみましょう。そして自信のないうちは、大きな決断はしないことです。でないと取り返しのつかないことになってしまいますから。
私が通う教会では、「献金や奉仕や礼拝出席が、自分の神の前にあっての義とか正しさとか愛とかと何か関係すると思ってやっているなら、そういう人は、献金や、奉仕や、礼拝出席を止めるべきだ」と、牧師が説教しています。
返信削除その観点から言うなら、ブログ主さんが書いていることは、信仰を使った虐待ですから、本当に由々しき事態です。
牧師さんがそういうことをおっしゃる教会なら、信徒が「信仰という名の奴隷」になる危険性は少ないと思いますね。もちろんそれが正常な姿のはずですが、そうでない教会ばかり私は知っているものですから、「まともな言い分」を新鮮に感じてしまいます。
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