「信仰という名の奴隷」になっていませんか?

2018年9月11日火曜日

「奉仕」の問題 教会生活あれこれ

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 きたる2020年の東京オリンピックに向けて、ボランティアの募集があちこちで行われているようです。ちらっと見ましたが、ボランティアになると1日8時間の無償労働が最低5日間続くみたいです。交通費や宿泊費は出ません。完全な手弁当ですね。それでボランティアは何を得るのでしょう。やり甲斐とか達成感とか、仲間作りとかコネ作りとかでしょうか。それはそれで良いかもしれません。そういうので満足できる人もいるでしょう。私は絶対やりませんが。

 ボランティアの待遇が酷すぎるという批判もあるようです。無償でなく有償にすべきだ、と。もちろんそこまで予算がないから無償でやってくれ、というのが行政側の主張なんですけどね。

 もっともオリンピックはたかだか数週間の話です。終わればそんなこと誰も気にしなくなるでしょう。
 でもこれと同じようなことが、実はキリスト教会では延々と続いています。「奉仕」という名の無償ボランティアが。これは数週間どころか、何年でも何十年でも続いています。オリンピックのブラック・ボランティアを問題にするなら、教会のそれだって問題にしていいと思うんですけど、どうなんでしょう。

 もっと言うと、教会の奉仕は無償なだけではありません。信徒は少なくない献金を毎週毎月教会に払っているはずですから、言うなれば「お金を払って奉仕している」みたいなものです。スーパー・ブラックなボランティアですね。あるいは信徒がMすぎるのか(笑)。

 しかし熱心な方々は、こう言うでしょう。
「神への奉仕はお金に勝る価値があるのです」
「そうやって私たちは天国に宝を積んでいるのです」
 そういう信仰をお持ちなら、何も言うことはありません。無償で頑張りたい、お金なんか要らない、むしろもっと捧げたい、と思っている人を、止める理由なんかありません。

 でも一方で、明らかに問題ありなケースもあります。信徒に奉仕を強要する教会です。
 ある牧師はこう言って憚りません。
クリスチャンは奉仕して当然だ。奉仕しないなんてあり得ない
 これは信徒の積極的な奉仕を期待する姿勢ではありません。奉仕しない信徒は許さん、信徒でいたかったら奉仕しろ、という「脅迫」です。

 こういう教会は献金の脅迫もありますから、なお酷いです。沢山献金を払わされて、かつ沢山奉仕をさせられる、という。それを全部「信仰」の二文字で片付けられてしまいます。これじゃまるで奴隷です。「信仰という名の奴隷」ですね(笑い事じゃありませんよ)。

 親から相続した土地と家を持つ、裕福な知り合いがいました。彼はある牧師に心酔しすぎて、自分の土地に牧師館を建てさせてしまいました。すると彼は牧師館の管理人みたいなことをさせられ、彼の奥さんは牧師家庭の召使いみたいになってしまいました。まるで彼が、牧師の土地に居候しているみたいです。でも時すでに遅しでした。

 数年後、再会した彼はやつれて疲れ切っていました。でも不自然な笑顔を顔に貼り付けて、「主に感謝です」とか言います。精神を病んでいるとしか思えませんでした。

 それきり彼とは会っていません。今どうなっているのか、正直知るのが怖いです。

 聖書は私たちクリスチャンを「義の奴隷」と言いますが、だからと言って文字通り奴隷なわけではありません。そのへんを勘違いして、あるいは意図的に、信徒を奉仕へと駆り立てる「奴隷使い」みたいな牧師がいますから、皆さんよくよく注意して下さい。

 あなたが「信仰」と思っていることが本当に信仰なのか、本当に神への奉仕なのか、よく考えてみましょう。そして自信のないうちは、大きな決断はしないことです。でないと取り返しのつかないことになってしまいますから。

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