「これは私の働きです」と言って教会で頑張る人がいます。
基本的に立派なことだと思います。使命感と責任感を持ち、いつも変わらぬ真摯な姿勢で、長期間その「働き」を続けるならば、それは尊敬に値します。それだけでも、大変なことですから。
でもあんまり頑張りすぎない方がいいと私は思います。
熱心な人や原理主義的な人が聞いたら怒るかもしれませんが、頑張りすぎるとロクなことがありません。何でもそうですが、「ほどほど」が一番です。適度にやって、適度に休みましょう。一度にできること、一日にできること、一人でできることには、限りがありますから。
伝道熱心な人は、こう言うかもしれません。
「今日は10人に福音を伝えました。もう時間も遅くなりました。でもあともう一人にでも福音を伝えられれば、それだけ神の国が拡大します。ここで頑張らない理由があるでしょうか」
でもそんなこと言ったらキリがありません。11人目の次は12人目が気になるでしょう。その次は13人目が。そして14人目が。今日はもう十分ですから、休みましょうよ。それにクリスチャンはあなただけではありませんし、伝道の責任はあなただけに課せられているのでもありません。
「ほどほど」でいいんです。本当に。
頑張りすぎてはいけない理由の一つは、頑張りすぎると燃え尽きてしまうからです。
およそどんなに強靭な人でも、タフな精神の持ち主でも、しつこく食らいつく人でも、頑張りすぎると力尽きます。普通の人より「頑張れる幅」は大きいかもしれませんが、限度を越えて頑張ることはできません。そしていつか必ず限度に達します。
「限度を越えたら休めばいい」と安易に言うかもしれません。
でも限度を越えるとダメージが大きく、それだけ回復にも時間がかかります。
私は習慣的にランニングをしますが、毎日続けて走ることはあまりしません。前日の疲労を回復しないまま走っても、あまり有効でないからです。あるいは毎日走るなら、それなりのペースで走ります。毎日フルパワーで限度まで走っていたら、そのうちランニングが嫌いになるでしょう。そしたら本末転倒です。
つまり「ほどほど」でいいのでなく、「ほどほど」が大切なのです。
もう一つの理由は、頑張りすぎるとその「働き」に固執するようになるからです。
「この働きはこのやり方で進めなければならない」
「この働きはこうであってはならない」
「この部分は自分がやらなければならない(他人には任せられない)」
みたいな心境になるからですね。
ある活動のグループがあって、リーダーとサブリーダーがいました。練習メニューや活動内容はリーダーが決めるのですが、そのうちサブリーダーがあれこれ仕切るようになりました。「こうでなければならない」という思い込みが、強すぎたのです。結果、まわりの人たちが嫌気をさして、だんだん離れていってしまいました。
もちろん頑張ることだって大切です。人生には「頑張りどき」みたいなものもあるでしょう。でもそれがずっと続いたら大変ですね。ピンポイントだから頑張れるのです。
つまり、「ほどほど」がいいのです。
「真剣」であることと、「頑張る」ことは違います。
真剣だからって、いつも頑張る必要はありません。繰り返しますが、頑張りすぎると続かないし、続かなかったら意味がないからです。大事なのはそれを続けることです。そして続けるコツは、「ほどほど」にやることです。
私はこのブログに対して「真剣」ですが、意識して「ほどほど」にしています。理由はそういうことですね。
燃えるような熱さは長続きしません。続くのは、内に秘めたじんわりした熱さです(と私は思います)。
さてあなたの「熱さ」は、どちらでしょうか。
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何かを頑張って、自分にとっての極限まで行き着いて、自分や周囲を「これは~べき」と裁きまくり、座礁のようなものを体験して、私はようやく学びました。
返信削除凝り固まって良いことって、無いなあと。
かつて熱心だった頃に比べると、キリスト教信仰が、自分の生活の中で比重がかなり低くなりました。
熱心に燃えていたい人は、ある意味それが生き甲斐になっているのかもしれないから、
燃えたら良いと思うけれど、私に押しつけたり、他人には迷惑をかけないでね、と思います。
ありがとうございます。
削除凝り固まってしまうと、良いことがありませんよね。
信仰は悪いものではありませんが、自分にとってあまりに大きなものになってしまうと、かえって害悪になるのではないかと私は思います。