今回は、ちょっと以前からモヤモヤしていることを書きます。
怒られるかもしれませんけれど。
クリスチャンの方で、ご自分の「神様絡みの葛藤」をSNSに綴ってらっしゃる方がいますね。
「こんなことがあって、辛かったけれど、これも神様からの試練だから乗り越えます」
「これも私に対する神様の特別な導きですから、感謝します」
「罪人の私をも、神様は愛して導いておられます。◯◯を通して、それを実感しました」
いいんです。べつにいいんですよ。何を呟こうと自由ですから。
でも、こういうのを見るといつもモヤモヤします。何故なら、こういうのを何のためにSNSで呟くのか、よくわからないからです。
わざわざSNSに上げるということは、誰かに見てほしいということですよね。見られたくなかったら、上げないでしょうから。
そして見られたいということは、誰かにその「葛藤」を知ってもらって、同時に「自分の信仰の状態」をアピールしたい、ということですよね。認めてほしいと言うか。そして願わくば「いいね」を押してもらったり、「励まし」のコメントをもらったりしたいのではありませんか。
他にどういう意図があって、こういう投稿をすると言うのでしょう。
ただの呟きであって、他意はありません、と言うでしょうか。
それにしてはトピックとして「重たい」ですよね。知り合いが見たら心配するんじゃないでしょうか。人に無用な心配をさせるくらいなら、自分の日記帳とかディボーションノートとかに、ひっそりと書けばいいんじゃないんですか。
ちなみに日記帳とかスケジュール帳とかに、その時その時の「葛藤」を書き留めておくのは、お勧めです。後から見返して、「ああこんなことがあったな」と自分の歩みを確認できるからです。
自分のこれまでの歩み、つまり「過去」をしっかり持つことは、自分の「未来」を見ることです。なぜなら「過去」と「未来」は地続きになっているからです。未来はいきなりとんでもない方向にジャンプしたり、スキップしたりするのでなく、あくまで歩んできた道の先にあります。
それはいいとして、クリスチャンの「SNS信仰アピール」はいただけないな、と私は思っています。何故かと言うと、結局自分のことしか考えていないんだな、というのがわかるからです。
「この状況は神様から自分へのチャンレンジなんだ」
「神様はこれを通して、自分に何か語ろうとしておられるんだ」
「Aさんがこれをして、Bさんがあれをしたのは、自分が◯◯するためだ」
神様が中心だとか言いながら、あくまで自分が中心なのですね。
すべてが自分のために動いている、というのが前提になっているのです。世界をそういうふうに見ているのです。意識的にか無意識的にかわかりませんが。
だから神様が自分にこうしてくれた、ああしてくれた、きっと自分はこうなるに違いない、みたいな「自己実現」に終始してしまうのですね。
と言っても、べつに自己実現が悪いのではないですよ。ある意味で自己実現は大切なものです。そうでなく、神様がどうのこうのと敬虔っぽいことを言いながら、結局自己実現に終始しているのがモヤモヤする、という話です。
これが10代くらいの若者ならいいんです。若いうちは情緒不安定だったり、弱かったりしますし、「聞いてくれる人がいない」という状況も多いでしょうから。若者がSNSでそれを発散するのは(解決するかどうかは別として)、いいと思うんです。私は。
でもいい年した大人が、「信仰」というオブラートに包んで、いまだに「自己実現」とか「自分探し」とかに終始してどうするんですか。しかもなんでそこに神様を巻き込むんですか。
もうちょっと自立して、他者に目を向けてもいいのではないかな、と私は思うわけです。
もちろん誰だって、自分の視点から世界を見ています。他の視点からは見られません。その意味で、世界の中心が自分なのは間違いないでしょう。
でも神様も他者も、あなたを中心に回っているのではありません。あなたにタイミングよく何かを示そうと思って、皆が動いているのではありません。そういうのはゲームの中だけの話です。
それよりあなたが「自分探し」や「自己実現」から多少なりとも離れて、他者に関心を示すようになることが、いわゆる「神の導き」や「神の御心」なのではないかな、と私は思います。そして他者に関心を示し、他者と関わって行くとき、あなたは逆説的に「自分自身」を見出して行くのではないでしょうか。
以上、ちょっとモヤモヤを吐き出してみました(笑)。
とてもわかります(笑)
返信削除しかもこういう投稿してる方に
「頑張れ!」ってコメントして、物事失敗すると「プレッシャーかけられた!傷ついた!」って後から文句言われる可能性大です(経験あり)
わかって頂けてありがとうございます!
削除ずっとモヤモヤしていたので、ついに書いてしまいました(笑)
その人、せっかく励ましてもらったのに「傷ついた!」などと平気で言うんですね。まさに(自分中心という意味で)天動説な人かと。
天動説クリスチャンとでも呼びましょうか(笑)
その表現、なんかたくさん見かけたな~と思ったら、「証(あかし)」だ。
返信削除一時期前の牧師先生がハマって?信徒にも求めてたし自分もよくしてた。
私も受洗時と成人になったときみんなの前で話したなあ。一生懸命考えて、他の人を参考にエッセイみたいにして。なんか恥ずかしかったー。
確かに、個人的に日記にでも書いてる方がいいよね。なんで「証」なんてあったんだろう。。
たしかに「証」の時にもこんな表現をよく聞きますね。
削除事前に牧師に「証」の原稿をチェックされて、いろいろ添削されて、OKとなったものを読む、という教会もありますね。もはや個人の「証」というより、牧師が望む話の展開を「読まされる」感じなんですが。
受洗時と成人時に「証」をされたのですね。さぞ恥ずかしかったでしょうね・・・。教会の「感動ポルノ」に利用されたのではないか、と想像します。
こんばんは。
返信削除私のいた教会でも「証」はありました。
キリスト教に入信してこんなに人生が素晴らしいものとなった、という内容のサクセスストーリーみたいな話を何回も読まされました。
その「証」は事前に牧師の添削が入り、OKになったものが読まれるということになっていました。
だから、どの人の「証」を聞いてもほぼ同じような内容なのです。
感動ポルノというコメントを拝見しましたが、まさにその通りです。
たしかに「サクセスストーリー」を作らされますよね。
削除そういう教会では、クリスチャンになったらハッピーになった、みたいな「証」が前提になっていて、事実であろうがなかろうが「祝福されてます」と言わなければならないプレッシャーがあります。
個人的な「証」なのにいちいち牧師の添削が入るのが、その証拠ですね。牧師は「良いメッセージ」だけを会衆に聞かせたいと考えているのです。感動させてナンボ、な世界なのですね。
そういうのはキリスト教信仰とはちょっと違う、と私は常々考えています。
クリスチャンのSNS信仰アピールは、別にいいと思いますけどね。
返信削除私はフミナルさんがどうしてそういう文章読んでるのかの方が気になりました(笑)
クリスチャンだろうがなんだろうが、人間だれしも承認欲求はあると思います。
何のタメにもならないような文章でしょうけど、読んであげたら「いいね」を押してあげたらそれで満足するんじゃないでしょうか(笑)
証とはちがいますけど、私の例では、歴史問題や政治のことでSNSに持論を書いている牧師に質問をしてたことがあります。
単純にどうしてそんな内容になるのか知りたかったので、マジメに「あなたは○○と書いてるけど、△△という事実もあり、○○と結論づけるのは難しいのでは?」みたいな質問を送ってたんです。
でも、相手からの返事が明らかにけむたがってる感じでしたし、私のコメントが掲載されないこともあって気づきましたね。
この牧師は、事実を調べたり、議論したりしたいわけじゃないんですよ。
ただたんに、自分の持論を認めてほしかっただけなんです。きっと。
それから、コメントしなくなりましたし、そのうち読まなくなりましたね。
まあ、クリスチャンといえども、神様だけじゃやっていけないんですよね。
話がそれていたらすみません。
伊集院さんは寛容な方なんですね。
削除読んであげて「いいね」を押してあげれば満足する、というのはその通りかもしれません。結局は承認欲求なんでしょうね。
日常のことなら何とも思わないんですが、神様が聖霊様がイエス様がとやたら信仰っぽいことを書いて自分に酔っているのを見みると、ムズムズしてしまいます。これも私の不徳のいたすところなんでしょうね。
みなさん こんばんは。「自己実現」「自分探し」から承認欲求へ。
返信削除なんとなくわかります。逆に言えば「自己実現」「自分探し」から承認欲求というのは人間だからこそのものなんですね。
「証」について書いている方がいらっしゃいましたが,わたしが所属していた北海道札幌市にある教会も、わたしがいた当時そういうのがありました。しかし、いくらなんでも小説や新聞記事の校閲じゃあるまいし、牧師が手を入れたり都合よく書き換えたり(昨今の報道のように改ざんしたり?)はありませんでした。
今日は大腸内視鏡検査があり、月末には心臓の検査があります。そしてここでも書きましたがろう者です。
そういういくつもの出来事を試練と受け止めることはできますし、じっさいわたしは試練であり恵みであると理解しています。ですが、信仰っぽい、敬虔っぽい、というのはわたしもいただけないものだと思います。
若いころなら「聞いてほしい」というのがありましたけど、この年にもなったらもうそんなのは卒業していなくてはなりません。卒業という言い方がおかしければ、あえてきつい言い方をすると、承認欲求は未熟なものであって、本当にキリストを信じているならわざわざ承認欲求などしなくてもちゃんと神さまがみていてくださるはず。そういう神へのキリストへの信頼があれば、信仰っぽいことを書かなくてもしっかり立っていられるはず。
がんも心臓の病気もろうであることも、正直きついですよ。いやになることもあります。
でも、与えられた恵みなら、黙って受け止めて生きます。それで十分ではないでしょうか。
スマイルさん
削除闘病中とのこと、お見舞い申し上げます。快方に向かわれるよう願っています。まだ検査など先が長いと思いますけれど、どうぞご自愛下さい。
全てを恵みとして受け止める、そのお心は本当に尊いと思います。
フミナルさん コメントへのご返信を下さりありがとうございました。いただいたコメント、その内容だけでとても十分うれしく思っています。「神さまがみていてくださるはず」「しっかり立っていられるはず」と書きました。一部のクリスチャンからみれば「信仰が足りない」「あやふやな信仰だ」と批判されるでしょうが、揺るがない信仰にも「~はず」というのはあるでしょう。確信とゆだねるからこそ「~はず」と言いたいのです。
削除スマイル
こちらこそ、いつもコメントありがとうございます。
削除スマイルさんの信仰は、全然あやふやなどでないと思います。