教会被害者の「心のリハビリ」について

2018年9月24日月曜日

クリスチャンのパーソナリティの問題

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リハビリ

 たとえば足を骨折したとしましょう。大腿骨(足の付けね)の骨折です。すぐ入院して、手術を受けることになります。
 そして手術が無事終わりました。さて術後、何日くらいでリハビリを始めるべきでしょうか。1週間安静にしてから? それとも2週間?

 答えは術後1日目からです。最近では手術の翌日から車椅子に乗せられたり、ベッド上でリハビリさせられたりします。1週間もノンビリさせてもらえません(笑)。骨折というとベッド上でガチガチに固定されているイメージがあるかもしれませんが、実際はちょっと違うわけです(ケースバイケースで、一概に言えない状況もありますよ)。

 なぜそんなに早くリハビリを始めるかというと、待てば待つほど回復が遅くなるからです。あるいは回復しなくなるからです。
 よく高齢の方で、骨折を契機に寝たきりになってしまった、車椅子生活になってしまった、というケースがあります。そういうのを防ぐために、できるだけ早くリハビリを始めよう、と考えるわけです。若い人でも骨折後のリハビリを怠けると、関節の動きが悪くなって、骨折前の状態まで戻らなくなってしまうことがあります。リハビリは大切なのですね。

  身体のリハビリはそんな感じなのですが、では心のリハビリはどうでしょうか。

心のリハビリ

 たとえばカルト化教会で苦しんだ方が、脱会して、一般的な社会生活に戻ったとします。この場合は「心のリハビリ」みたいなものが必要になると私は思います。では上記の骨折みたいに「すぐ」始めるべきでしょうか?
 私の答えは「ノー」です。

 もちろん「心のリハビリとは何か」という定義で話が変わってくるかもしれませんが、私はしばらく「何もしない」時期があった方がいいのではないかな、と思っています。しばらく放心するというか、ボーッとするというか。そうやって、教会で忙しくしていた心を休ませてあげるのです。音楽でいう「休符」ですね。何の演奏もしない、という演奏です。人生の中の小休符と言うか。

 しかしながら生活がありますから、その「休符」の期間も仕事をしたり、家事をしたりする必要がありますよね。でもそれはそれで良いと思います。教会のことを考えなくていい時間になるでしょうから。身体が忙しくなることで、逆に心を休ませることができるかもしれません。もちろん神経をすり減らすような仕事ではダメなんですけれど。

 そうやって心を少し休ませたら、次は「自分自身を取り戻す」過程に入っていくと思います。教会で縛られ、見失われていた自分自身を再発見する過程です。
 教会では、救われてクリスチャンになることを「見失われていた魂が返ってきた」なんて言いますね。でもカルト化教会では逆に「魂が見失われてしまう」のですから、皮肉な話です。

自分自身を再発見

「自分自身を再発見する」のは、案外時間のかかるものです。私も教会が解散して、このブログを始めて5年半くらいになりますが、自分自身の信仰については折り合いが付けられたとは言えません。まだちょっと混乱したところがあります。

 実は先日の自助グループでもお話しましたが、私はまだ神に「祈る」という行為がうまくできません。聖書も読むし賛美も歌うけれど、祈れない。そういう半端なクリスチャン(?)のままです。クリスチャンと言えるのかどうかもよくわかりません。
 まあ神様を信じていますし、礼拝(ミサ)にも行きますから、傍目にはクリスチャンなのでしょうけれど。

 そんな私が「心のリハビリ」について書くのも変な話なのですが(笑)、要はそれくらい(あるいはそれ以上に)時間が掛かるものですよ、という話です。

 さて「自分自身を再発見する」には、どうしたらいいでしょうか?
 これは私からの提案ですが、然るべき期間しっかり休んだら、あとはいろいろ「試してみる」ことです。
 とりあえず、好きなことや興味のあることは、何でもやってみることです。それまで教会で忙しくしていて、自分の時間がなかったですよね。だからこれからは全部(あるいはほとんど全部)の時間を、自分のために使ってみるのです。

 あちこち出掛けたり、いろいろな人に会ったり、趣味に没頭したりするのもいいでしょう。運動を始めるのもいいですね。私みたいにブログを書くのもいいですし、歌ったり踊ったり、絵を描いたり、何かを作ったりするのもいいと思います。とにかくありとあらゆることを「やってみる」のです。その中で、今まで知らなかった自分自身を発見できるかもしれません。気分も変わってくるでしょう。

 そのあたりは「身体のリハビリ」に近いものがあります。関節を広げ、筋肉をつけ、自分の可能性を少しずつ広げていくのです。年齢は関係ありません。エレミヤ書は「まだ若いと言うな」と言いますが、私はこう言いたいです。「もう年だと言うな」(笑)

信仰の修正

 また教会で牧師に言われたあれこれを見直し、あるいは否定する作業も必要になるかもしれません。
「牧師は神の代弁者であり、霊的権威者なのだ」という言葉にまだ縛られていませんか。
「教会を離れたら地獄に堕ちる。そこで永遠に苦しむのだ」という言葉をいまだ恐れていませんか。
「あなたは未熟なのだ。牧師の指示に従って霊的訓練を通らなければならない」と言われて自分自身を否定していませんか。

 牧師は神の代弁者ではありませんし、教会に行かないからといって地獄に堕ちるわけではありません。あなたには未熟な部分があるかもしれませんが(大概みんなそうでしょう)、牧師の指示に何でもかんでも従わなければならない奴隷ではありません。

 そのほかにも様々なことを牧師から言われて、それをキリスト教信仰だと思い込んでいる部分があるかもしれません。たとえば「霊の戦い」とかですね(ほかにも沢山あります)。
 そういう一つ一つを時々見直して、あーこれは違ったな、あれは間違いだったな、と検証していく時間も、必要かもしれません。

 あるいは牧師に言われたことが深刻なトラウマになっていたり、傷になっていたりするかもしれません。そういう場合は専門的な治療やカウンセリングが必要ですから、ぜひ相談してみて下さい。

 そんなふうに時間をかけて、徐々に「心のリハビリ」」を進めていくことが、いわゆる「教会被害者」の歩みになるだろうと私は思います。というか、私自身がそういう歩みをしています。ですからこれを読んで下さっている被害者の皆さんは、決して一人ではありません。あまり慰めにならないかもしれませんけれど、それは事実です。

 もし個別に相談したいという方がいらっしゃったら、お気軽にメール下さい。

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