リハビリ
たとえば足を骨折したとしましょう。大腿骨(足の付けね)の骨折です。すぐ入院して、手術を受けることになります。
そして手術が無事終わりました。さて術後、何日くらいでリハビリを始めるべきでしょうか。1週間安静にしてから? それとも2週間?
答えは術後1日目からです。最近では手術の翌日から車椅子に乗せられたり、ベッド上でリハビリさせられたりします。1週間もノンビリさせてもらえません(笑)。骨折というとベッド上でガチガチに固定されているイメージがあるかもしれませんが、実際はちょっと違うわけです(ケースバイケースで、一概に言えない状況もありますよ)。
なぜそんなに早くリハビリを始めるかというと、待てば待つほど回復が遅くなるからです。あるいは回復しなくなるからです。
よく高齢の方で、骨折を契機に寝たきりになってしまった、車椅子生活になってしまった、というケースがあります。そういうのを防ぐために、できるだけ早くリハビリを始めよう、と考えるわけです。若い人でも骨折後のリハビリを怠けると、関節の動きが悪くなって、骨折前の状態まで戻らなくなってしまうことがあります。リハビリは大切なのですね。
身体のリハビリはそんな感じなのですが、では心のリハビリはどうでしょうか。
心のリハビリ
たとえばカルト化教会で苦しんだ方が、脱会して、一般的な社会生活に戻ったとします。この場合は「心のリハビリ」みたいなものが必要になると私は思います。では上記の骨折みたいに「すぐ」始めるべきでしょうか?
私の答えは「ノー」です。
もちろん「心のリハビリとは何か」という定義で話が変わってくるかもしれませんが、私はしばらく「何もしない」時期があった方がいいのではないかな、と思っています。しばらく放心するというか、ボーッとするというか。そうやって、教会で忙しくしていた心を休ませてあげるのです。音楽でいう「休符」ですね。何の演奏もしない、という演奏です。人生の中の小休符と言うか。
しかしながら生活がありますから、その「休符」の期間も仕事をしたり、家事をしたりする必要がありますよね。でもそれはそれで良いと思います。教会のことを考えなくていい時間になるでしょうから。身体が忙しくなることで、逆に心を休ませることができるかもしれません。もちろん神経をすり減らすような仕事ではダメなんですけれど。
そうやって心を少し休ませたら、次は「自分自身を取り戻す」過程に入っていくと思います。教会で縛られ、見失われていた自分自身を再発見する過程です。
教会では、救われてクリスチャンになることを「見失われていた魂が返ってきた」なんて言いますね。でもカルト化教会では逆に「魂が見失われてしまう」のですから、皮肉な話です。
自分自身を再発見
「自分自身を再発見する」のは、案外時間のかかるものです。私も教会が解散して、このブログを始めて5年半くらいになりますが、自分自身の信仰については折り合いが付けられたとは言えません。まだちょっと混乱したところがあります。
実は先日の自助グループでもお話しましたが、私はまだ神に「祈る」という行為がうまくできません。聖書も読むし賛美も歌うけれど、祈れない。そういう半端なクリスチャン(?)のままです。クリスチャンと言えるのかどうかもよくわかりません。
まあ神様を信じていますし、礼拝(ミサ)にも行きますから、傍目にはクリスチャンなのでしょうけれど。
そんな私が「心のリハビリ」について書くのも変な話なのですが(笑)、要はそれくらい(あるいはそれ以上に)時間が掛かるものですよ、という話です。
さて「自分自身を再発見する」には、どうしたらいいでしょうか?
これは私からの提案ですが、然るべき期間しっかり休んだら、あとはいろいろ「試してみる」ことです。
とりあえず、好きなことや興味のあることは、何でもやってみることです。それまで教会で忙しくしていて、自分の時間がなかったですよね。だからこれからは全部(あるいはほとんど全部)の時間を、自分のために使ってみるのです。
あちこち出掛けたり、いろいろな人に会ったり、趣味に没頭したりするのもいいでしょう。運動を始めるのもいいですね。私みたいにブログを書くのもいいですし、歌ったり踊ったり、絵を描いたり、何かを作ったりするのもいいと思います。とにかくありとあらゆることを「やってみる」のです。その中で、今まで知らなかった自分自身を発見できるかもしれません。気分も変わってくるでしょう。
そのあたりは「身体のリハビリ」に近いものがあります。関節を広げ、筋肉をつけ、自分の可能性を少しずつ広げていくのです。年齢は関係ありません。エレミヤ書は「まだ若いと言うな」と言いますが、私はこう言いたいです。「もう年だと言うな」(笑)
信仰の修正
また教会で牧師に言われたあれこれを見直し、あるいは否定する作業も必要になるかもしれません。
「牧師は神の代弁者であり、霊的権威者なのだ」という言葉にまだ縛られていませんか。
「教会を離れたら地獄に堕ちる。そこで永遠に苦しむのだ」という言葉をいまだ恐れていませんか。
「あなたは未熟なのだ。牧師の指示に従って霊的訓練を通らなければならない」と言われて自分自身を否定していませんか。
牧師は神の代弁者ではありませんし、教会に行かないからといって地獄に堕ちるわけではありません。あなたには未熟な部分があるかもしれませんが(大概みんなそうでしょう)、牧師の指示に何でもかんでも従わなければならない奴隷ではありません。
そのほかにも様々なことを牧師から言われて、それをキリスト教信仰だと思い込んでいる部分があるかもしれません。たとえば「霊の戦い」とかですね(ほかにも沢山あります)。
そういう一つ一つを時々見直して、あーこれは違ったな、あれは間違いだったな、と検証していく時間も、必要かもしれません。
あるいは牧師に言われたことが深刻なトラウマになっていたり、傷になっていたりするかもしれません。そういう場合は専門的な治療やカウンセリングが必要ですから、ぜひ相談してみて下さい。
そんなふうに時間をかけて、徐々に「心のリハビリ」」を進めていくことが、いわゆる「教会被害者」の歩みになるだろうと私は思います。というか、私自身がそういう歩みをしています。ですからこれを読んで下さっている被害者の皆さんは、決して一人ではありません。あまり慰めにならないかもしれませんけれど、それは事実です。
もし個別に相談したいという方がいらっしゃったら、お気軽にメール下さい。
牧師からのパワハラ(他人に気づかれないよう私のことを無視)で教会を離れた者です。信仰は捨てるつもりがないため別の教会に通い始めました。
返信削除「心のリハビリ」には時間がかかるということですね。
夜中にとめどなく涙があふれて止まらなくなったり、聖書を読むとすべての言葉が自分が責めているように感じて苦しくなったり。牧師だけでなく、今まで親しくしていた教会員たちとも全員切り離されてしまったので、どうしようもない孤独感にさいなまれたり・・・。
新しい教会の礼拝にはいくものの、その教会の牧師や他のクリスチャンとすぐに親しくはなれない心のバリアがあります。
時間はかかっても、「リハビリ」を続けていれば、以前のような健全なクリスチャンに戻れるでしょうか。
コメントありがとうございます。
削除一人教会を離れ、それまで仲間と信じてきた人たちと断絶され、さぞ苦しい時間をお過ごしかと思います。別の教会に行ってもバリアのようなものがあるという感覚、よくわかります。
私が勧める一つの方法は、「教会抜き」の期間を持つことです。これは一定期間、教会に行かない、聖書を開かない、祈らない、賛美しない、信仰に関することを一切しない、という方法です。1ヶ月でも2ヶ月でも「教会抜き」をすると、それだけで心境がだいぶ変化するかもしれません。
もちろん「そんなことできない」と思われるなら無理にとは言いませんが、私は実際にこれをやって、自分が強固に持っていた先入観や偏見、固定観念に気づくことができました。
「リハビリを続けていけば健全なクリスチャンに戻れるのか」というご質問ですが、これはあくまで私の意見ですが、健全な信仰とは常に探し続ける種類のものです。その意味で匿名さんがパワハラ牧師から離れ、教会を変える決断ができたことは、そのものが健全性に向かっている証拠ではないかと思います。過去の健全性に戻るのでなく、今通っておられるプロセスの先にも、健全性はあるのではないでしょうか。
>夜中にとめどなく涙があふれて止まらなくなったり、聖書を読むとすべての言葉が自分が責めているように感じて苦しくなったり。牧師だけでなく、今まで親しくしていた教会員たちとも全員切り離されてしまったので、どうしようもない孤独感にさいなまれたり・・・。
返信削除知人もやめてから同じ状態だったとか。新興宗教系プロテスタントで借金までこさえて、やめてからは働きづめに働いて返済したそうです。今は貯金もでき、カトリック教会の片隅にいます。
その人がいうには「自分の若いころにネットの掲示板があれば、プロテスタントに行くにしても、まともな教会を紹介してもらえただろうから、ひどい目にあわずにすんだ。最初からカトリックに行っていたらよかった。運の悪さを嘆く」と。
然るべき期間休んだらいろいろと試す。
返信削除このプロセスは本当に大事だな、と経験的に思います。
日常生活や人生のセンターに位置付けていたこと(信仰)を、一旦脇に置くのは、それ自体が難しいかもしれないです。特に初めは。
自分の思考や行動パターンの土台、基礎に信仰(として掴んできたもの)がガッチリ組み込んでいるのと、それから離れる=様々な呪いのフレーズや教えが思い浮かぶ状態なのではないかと思います。
DVで元配偶者に殺されかけた友人がいますが、上記のような心理状態だった、と言っていました。
離れたいけど、離れたらどうなるか不安。元配偶者から毎日罵倒され、殴られ蹴られ、自分は何も出来ない人間だと思い込んでいた。動くに動けなかったと。
私は、危険な環境を離れてから5年ほど混乱が続きました。
心療内科へ通い、抗うつ薬を飲み、臨床心理士と定期的に会って話をしました。
自責の念を持つ考え方のクセは、専門家の助けに加えて、自分の思いを書き出す中で気づきました。
「自分を責めんで良いねんで」と、友人達が口々に言ってくれたのは有りがたかったです。
安全な場所に身を置き、心が健全な人と関わり、日常の中に楽しめることを取り入れました。
図書館でいろんな映画を観たり、クリスチャン以外の信頼できる友人と持ち寄りパーティをしたり。
10キロマラソンに出場したり、日帰りバスツアーに行ったりしました。
「仕事や育児頑張ってんねんから、楽しむ時があっても良いやん」と思うようになりました。
ちなみに、去年のことですが、友人の紹介で知り合った牧師が、聖句を使って、頼みもしないアドバイスをしてきたことがあります。
「什一献金をしていないから経済的に困っているのです。私は主から什一のことをあなたに語りなさいと言われました。主を完全に信じ、全てを明け渡しなさい。什一をしていて祝福されていない人を知らない」
「携挙のときには教会ごと天に上げられる。教会にしっかりつながっていないと地上に残される」
そういう風に言われた時は、嫌な気持ちになりました。100歩譲って親切心からの発言だとしても。
元配偶者の暴力と使徒的教会から離れて10年近く経ち、いろいろと経験して、キリスト教業界の様々な側面を知るにつけ、牧師やリーダーが何を言おうと真に受けないようになっていました。
「私が(什一しないことで)神様から盗んでるって言うんですか!」と言い返しましたら、牧師は言葉を失っていました。神様から語りなさいと言われましたなんて、ふざけんなよと思いました。
携挙のことは、「心を見る神様の公平な裁きに任せるしかない。私がアウトと神様が判断されるならしゃあないわ。私がやきもきしても始まらん」と思っています。
今では、インターネットで礼拝メッセージをたまに聴くぐらいで、聖書を開いたり、祈りをすることは激減しました。
神様、イエス・キリストを信じる思いは持ち続けているのですが、強いられでも嫌々ながらでもなく自分たち「教会に行こう」と思うまでは、無理して行くことはない。そう思っています。
コメントありがとうございます。
削除Field of lilyさんも大変なところを通られ、長い時間をかけて、ここまで来られたのですよね。良い友人を得ることができたのは、本当に幸いだったと思います。おそらくまだいろいろ課題があるのではないかと思いますが、これまで通り一歩ずつ、良い方向に向けて歩んでいかれればと願っています。
それにしても、十分の一献金とか携挙とかいうワードを使って脅してくる牧師には呆れてしまいますね。牧師の資格などないですし、人にアドバイスする権利もありません。そういう牧師の教会の信徒さんたちのことが、心配になってしまいます。
伊集院裕です。
返信削除主旨が合わないかもしれませんが、私は「自分が間違っていた」と認めることが回復の一歩になると思います。
厳しい言い方になりますが、キリスト教について体系的に勉強しないで、牧師や教会の言うことをうのみにしてきた結果、カルト教会の被害者になったのであり、同時にカルトを広めて加害者になったのだと思います。
私は弟子訓練で有名だったところを知ってますが、そこでは「弟子訓練は間違ってる」と言ってカルト教会を脱退した牧師や教会スタッフの大多数が、弟子訓練をしている別の教会に拾われて「正しい弟子訓練を広めたい」と態度を変えたのを何人も見てきました。
それ以外のケースでも、結局教会の奉仕に明け暮れるようになって、どちらにしろ「教会という器は変わっても、本人(中身)は何も変わっていない」人たちばかりでしたね。
こういう人たちばかり見てきたので、自分が間違っていたことを認めて、キリスト教をやめた方が本人にも、周りの人にも良いと思いますね。