ロスト・ジェネレーションが求めた You are special
98年に刊行され、キリスト教界(の一部)で話題となった絵本『たいせつなきみ』をご存知でしょうか。著者はクリスチャン作家のマックス・ルケードさんです。
児童向け絵本の体裁を取りながら、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という聖書のメッセージをダイレクトに伝える作品です。クリスチャン(あるいは聖書を読んでいる人)なら、いろいろピンとくる内容です。
おそらく多くの教会学校で、またクリスチャン家庭で、読まれたと思います。かれこれ20年くらい経っていますが、いまだ話題に上っています。
それと同じような時期(2000年前後)に、韓国発の賛美『君は愛されるため生まれた』が輸入されました。これも多くの教会で歌われました。教会ごとに歌詞や歌い方が微妙に違っていて、驚きながらも面白かったのを覚えています(当時はいろいろな教会に足を運ぶ機会がありました)。
またキリスト教とは関係ありませんが、2002年にSMAPが『世界に一つだけの花』をリリースしました。「No.1にならなくてもいい/もともと特別なOnly one」のフレーズは、誰もが聞いたことがあるのではないでしょうか。
こうして見ると、ちょうど2000年前後に『たいせつなきみ(原題:You are special)』、『君は愛されるため生まれた』、『世界に一つだけの花』という、似たようなメッセージが発信されたのがわかります。前の2つはキリスト教界での話ですが。
でもそれはキリスト教界だけの傾向ではなかったと思います。『世界に一つだけの花』の大ヒットには、時代の要請があった気がします。
当時はバブル崩壊後の就職氷河期でした。いわゆるロスト・ジェネレーションです。皆が同じリクルートスーツを着、黒髪に戻し、同じようなエントリーシートを書き、同じような面接対策をし、会場に入る前に一斉にコートを脱ぐ、という没個性を絵に描いたような就活シーンが始まった時代です。
個性が失われ、奪われた時代だからこそ、「あなたは特別なんだ(You are special)」というメッセージが、求められたのかもしれません。私はそんなふうに見ています。
「特別」と「特別扱い」のちがい
子供時代の大半を教会で過ごしたある子が、やはりこの世代でした。子供が少ない教会なので皆から愛され、大切にされて育ちました。そして大学進学を機に、いろいろあって教会を離れることになりました。
数年たって再会すると、立派な青年になっていました。すでに就職していました。でもこんなことを言うのです。
「社会に出て、特別扱いされないことが初めてわかりました」
私はこの言葉に、「あなたは特別なんだ」というメッセージの弊害を見た気がしました。
誤解のないように書きますが、自分自身を「特別」と思い、「大切」にするのは、重要なことです。健全なアイデンティティの確立に欠かせません。
特に自尊感情の低い人、セルフイメージの低い人には必要です。「こんな自分に価値はない」と信じて、時に自暴自棄なことをしてしまうからです。彼らは「あなたは特別なんだ」としつこく言ってもらう必要があります(もちろんケース・バイ・ケースですよ)。
でもそこまで自分を卑下していない人には、「特別だ」と強調する必要はありません。あんまり強調しすぎると、「自分は特別だから、大切にしてもらって当然だ」みたいに考えるようになるからです。
もちろん、すべての人が「特別」で、「大切」なのです。でも、だからと言って「特別扱い」されるのではありません。自分を「特別」と思うことと、「特別扱いされたい」と思うことは、全然ちがうということです。
上記の青年は、教会でずっと「特別扱い」されてきたのでした。それを当然と思っていました。でも社会に出たら全然そんなことなくて、自分が「大勢の中の1人」に過ぎないと気づいたのです。たぶん、もうちょっと早く気づきたかったのではないでしょうか。
一気にセルフイメージが落ちてしまう(自信をなくしてしまう)こともありますから、こういうケースは注意が必要ですね。
『たいせつなきみ』も害をなすことがある、ということです。
だから今、教会で同じような状況になっている子がいたら、ちょっと厳しくしてみて下さい。即、嫌われるでしょうけれど(笑)。
「特別」なのは自分だけではない
自分を「特別」と思うのと同じくらい重要なのが、他者を「特別」と思うことです。
でもこれが案外難しいです。
変に自信がある人ほど、「特別な自分」と「その他のどうでもいい人たち」というふうに世界を見てしまいやすくなります。でもそれだと鼻持ちならないイヤな奴ですね。結果的に大切にされません。
聖書には「自分にしてほしいことをまず他者にしなさい」みたいな意味のことが書いてあります(マタイの福音書7章12節)。つまり自分を「特別」と思ってほしかったら、まず他者を「特別」と思いなさい、ということです。「大切」にされたかったら、まず誰かを「大切」にしなさいと。
余談ですが、カルト牧師は信徒に「愛しています」「あなたの将来を大切に考えています」と言いますが、嘘ですから注意して下さい。本当はあなたを利用し、搾取したいだけです。出会った頃に比べて「雑」な扱いをされるようになったら、要注意です。
人の本心は、言葉でなく行動に出るのですから。
話を戻します。
自分が「特別」で「大切」なのと同じように、他者も「特別」で「大切」なのです。当たり前なんですけれど。
でもここで問題が生じます。私たちには嫌いな人もいれば、苦手な人もいるという問題です。すべての人を等しく「大切」と思うのは難しいです。「敵を愛する」というのは簡単なことではありません。そうではありませんか。
マックス・ルケードさんがどこまで考えたのか知りませんが、『たいせつなきみ』が最終的に提示しているのは、そういう問題です。「あなたが大切」なら、「あなたの敵も大切」なのです。
この絵本を読んで「私って特別なんだ」と単純に感動するだけではもったいないです。ぜひそういう難題についても、考えてみたらいかがでしょうか。
「君は愛されるために生まれた」は、教会の礼拝で歌っていい歌か、私は疑問に思いますね。
返信削除いちおう礼拝は神に向かってするものなんでしょうけど、あの歌は「君」ですからね。方向性が違います。
あの歌が賛美として認められるなら、「世界に一つだけの花」も認められるはずです。
そんな話を教会の人にしたら、あの歌は歌詞に「神」と出てくるからいいんだと返されましたけど。
あの歌は、聞いている人の承認欲求を満たす歌なので、一人で神に向き合って自分のことを見つめ直すこととは別の生き方、つまり、みんなに自分のことをほめてもらいながら生きていくようで良い気がしません。
なんだか、自分を特別扱いしてくれるであろう牧師や教会スタッフへの依存が深まっていくようで心配ですね。
私はあの歌を教会の礼拝で歌ってる教会はオススメしませんね。
ま
おっしゃる通り、礼拝の歌詞としてはふさわしくないと私も思います。
削除他にも「神の家族」とか、「私たちは一つ」とか、教会の連帯を歌う賛美も何だかなあと思いますね。神を礼拝しているのか、自分たちの教会の素晴らしさに酔っているのか、よくわからないので。
日本の多くの教会は総勢50人以下の小さなコミュニティですから、良く言えば家族的ですが、その分いろいろなことが無批判・無思考に延々と続いてしまう傾向があると思います。よく考えれば「おかしい」とわかることが、ちっとも改善されない、みたいな。
もちろん、大きい教会でもそういう傾向はありますけれど。
この絵本や歌は多分私も読んだり聞いたりした事がありますね。私は元々自己肯定感が逆に物凄く低い子供だったので、それもそれで大変だったのですが、身内のクリスチャンの子達はやっぱり子供が少ない中で育って来てるので良い意味では伸び伸びです。が、思春期に入って来ている子はちょっと不安定ですね…。同じく知り合いのクリスチャンの子も思春期なのですが不登校です。
返信削除教会にいると割りと周りの大人が「言うことを聞いてくれる」だったのが、学校の先生(大人)が「言うことを聞いてくれない」のが面白くないみたいな感じでした。その子の両親にしてみれば「問題」なのかもしれませんが、私にしてみたら理不尽な体罰や暴言が無い限り、先生の言う事を聞くのは「普通」だと思うんですが…。
でも、その子にしてみたら「ここが大事なぶつかり時」だと思うんですが親が出ていって代わりに何でもやってしまうのもどうなのかな?って。
確かに子供の事を思えば何でもしてあげたくなるのはわかりますけどね。
子供の教育に教会が絡むと、いろいろややこしくなるのも事実ですね。子供からすると、「親が沢山いる」みたいな状況になりますから。
削除牧師が教育熱心だと、信徒の子供にあれこれ介入して、結果的に親の教育権が奪われる、なんてことにもなります。「両親を敬え」が、いつの間にか「牧師を敬え」になっているのですね。
逆におっしゃる通り、子供自身が直面すべき問題なのに、親が余計な手出しをする、というのもどこででも見られる光景です。クリスチャン家庭に特に多い気がします。子供に対する理想が、高すぎるのかもしれません。
これは持論ですが、幼いうちは教会にドップリ浸からない方が、結果的に子供のためになると私は考えています。