潜在的メサイア・コンプレックス

2017年9月24日日曜日

クリスチャンのパーソナリティの問題 雑記

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・メサイア・コンプレックス

「メサイア・コンプレックス」なる言葉をご存知でしょうか。「メサコン」とか略されて、主に悪い意味で使われているようですが。
 原義は「救世主妄想」とでも言うべきもので、「自分を救世主だと妄想する」みたいな感じです。キリスト教的には「自分をキリストだと思い込む」みたいになるでしょう。

 ただ本気で「自分はキリストだ」と妄想しているとしたら、それは精神疾患によるものでしょう。馬鹿にするとか倦厭するとかでなく、早く専門的な治療を受けてもらう必要があります。でもそこまで重症な人はなかなかいません。
 たぶん多いのは、そういう精神疾患でなく、健常な人が潜在的に抱えている「メサイア・コンプレックス的な何か」ではないかと思います。これは本人も周囲もなかなか気づかないので、わりと問題だと私は考えています。

・潜在するメサイア・コンプレックス的な何か

 これは「自分はキリストだ」と思っているわけではありません。キリストを自称するのはクリスチャン的にはアウトですから。そうでなく、「他者を助けてあげなくちゃ」という思いが(時として異常に)強い状態です。「私は他者を助けなければならない」「他者を助けるのが私の使命だ」くらいに思っていることもあります。

 よく教会に「やたらお節介な人」がいますけれど、あれはこの予備軍かもしれません。

 これは何かをキッカケにして、強く現れることもあります。
 たとえばですが、被災地にボランティアに行った人が、そこで支援活動に「ハマってしまう」ということがあります。人を助けること、困っている人の役に立つことに、生き甲斐を見出してしまうのです。そして夢中になってしまいます。「支援活動をしている自分」「人助けしている自分」が今までになく輝いて見えて、「あーこれが本来の自分なんだな」と思う(思いたい)からです。

 実際にこういう人を知っています。その人は阪神淡路大震災のボランティアに行きましたが、以来どこかで自然災害が起こると、必ずボランティアに出向くようになりました。東日本大震災も熊本地震も行きました。そこで身を粉にして働き、充足感を得るのでした。

 誤解のないように書いておきますが、べつにこれは悪いことではありません。むしろ人助けは良いことです。だからボランティアに行くことについて、どうこう言っているのではありません。
 そうでなく私が問題だと思うのは、「自分が助けなければダメだ」「自分が行かないと救われない」と信じ込んでしまうことです。「自分こそが正しい助け方を知っている」「自分こそが正しく導ける」というわけです。そしてそういう自分のことが好きなのです。
 でもここまで行ってしまうと、ほとんど「自分はキリストだ」と言っているのと同義ではないでしょうか。本人にはそんな意識はないかもしれませんが。

 というわけで同じボランティアをしていても、同じ支援活動をしていても、「わずかでも助けになれば」と謙虚に思っている人もいれば、「自分こそ必要な援助ができる人間だ」と思っている人もいるわけです。これは大きな違いです。特にキリスト教においては、「人はうわべを見るが主は心を見る」という言葉もあるように、後者の動機はあまり褒められたものではありません。

 だから精神疾患でなくても、「自分はキリストだ」みたいに思い込んでしまう、「メサイア・コンプレックス的な何か」というのがあります。で、教会にはこういう人が案外多いように私は思います。

・牧師×メサイア・コンプレックス

 教会のリーダーたる牧師がこの「メサイア・コンプレックス的な何か」を抱えていると、わりと大変なことになります。
 どういうことかと言うと、「この信徒たちを正しく導けるのは自分だけだ」と強烈に思い込んでしまうからです(もちろん程度の差はあると思いますが)。そうすると信徒たちにズバズバ介入していき、頼んでもいないのに助言したり、お膳立てしたりします。
 信徒の方は正直困ってしまうのですが、「先生も善意でやって下さっているから」と文句も言えません。

 でもそれは厳密に言うと、「善意」ではありません。「人助けしている自分が好き」なだけです。だから相手の都合や心情を考えずに、自分の都合や願望だけで介入するのです。
 依存的な信徒は、そういうのを嬉しく思うかもしれません。しかし牧師と信徒の関係としては病的なものがあると思います。

 これが進行すると、牧師は信徒に対して支配的になります。「自分がこの信徒を守り、幸福に導くのだ」みたいに信じているので、最終的には信徒の自由意志・自由選択をも奪うようになります。ここまで来るともう末期的なメサイア・コンプレックスだと思いますが。

 牧師×メサイア・コンプレックスという、最悪な掛け算ですね。

・行き過ぎに注意

 ただ「人助けしたい」「人の役に立ちたい」という思いそのものは、おそらく多くのクリスチャンの方が持っていると思います。異常なことではありません。問題はその「度合い」です。行き過ぎてバランスを欠くと、ロクなことになりません。他の多くのことにも言えますが、なんでも行き過ぎには注意が必要です。

 例外的に、「相手が望まなくても介入しなければならない事態」というのはあると思います。いろいろなケースがあるので一概に言えませんが、たぶん専門的な領域がほとんどでしょう。やはり一般的には、「行き過ぎには注意」と考えた方がいいような気がします。

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