・メサイア・コンプレックス
原義は「救世主妄想」とでも言うべきもので、「自分を救世主だと妄想する」みたいな感じです。キリスト教的には「自分をキリストだと思い込む」みたいになるでしょう。
ただ本気で「自分はキリストだ」と妄想しているとしたら、それは精神疾患によるものでしょう。馬鹿にするとか倦厭するとかでなく、早く専門的な治療を受けてもらう必要があります。でもそこまで重症な人はなかなかいません。
たぶん多いのは、そういう精神疾患でなく、健常な人が潜在的に抱えている「メサイア・コンプレックス的な何か」ではないかと思います。これは本人も周囲もなかなか気づかないので、わりと問題だと私は考えています。
・潜在するメサイア・コンプレックス的な何か
これは「自分はキリストだ」と思っているわけではありません。キリストを自称するのはクリスチャン的にはアウトですから。そうでなく、「他者を助けてあげなくちゃ」という思いが(時として異常に)強い状態です。「私は他者を助けなければならない」「他者を助けるのが私の使命だ」くらいに思っていることもあります。
よく教会に「やたらお節介な人」がいますけれど、あれはこの予備軍かもしれません。
これは何かをキッカケにして、強く現れることもあります。
たとえばですが、被災地にボランティアに行った人が、そこで支援活動に「ハマってしまう」ということがあります。人を助けること、困っている人の役に立つことに、生き甲斐を見出してしまうのです。そして夢中になってしまいます。「支援活動をしている自分」「人助けしている自分」が今までになく輝いて見えて、「あーこれが本来の自分なんだな」と思う(思いたい)からです。
実際にこういう人を知っています。その人は阪神淡路大震災のボランティアに行きましたが、以来どこかで自然災害が起こると、必ずボランティアに出向くようになりました。東日本大震災も熊本地震も行きました。そこで身を粉にして働き、充足感を得るのでした。
誤解のないように書いておきますが、べつにこれは悪いことではありません。むしろ人助けは良いことです。だからボランティアに行くことについて、どうこう言っているのではありません。
そうでなく私が問題だと思うのは、「自分が助けなければダメだ」「自分が行かないと救われない」と信じ込んでしまうことです。「自分こそが正しい助け方を知っている」「自分こそが正しく導ける」というわけです。そしてそういう自分のことが好きなのです。
でもここまで行ってしまうと、ほとんど「自分はキリストだ」と言っているのと同義ではないでしょうか。本人にはそんな意識はないかもしれませんが。
というわけで同じボランティアをしていても、同じ支援活動をしていても、「わずかでも助けになれば」と謙虚に思っている人もいれば、「自分こそ必要な援助ができる人間だ」と思っている人もいるわけです。これは大きな違いです。特にキリスト教においては、「人はうわべを見るが主は心を見る」という言葉もあるように、後者の動機はあまり褒められたものではありません。
だから精神疾患でなくても、「自分はキリストだ」みたいに思い込んでしまう、「メサイア・コンプレックス的な何か」というのがあります。で、教会にはこういう人が案外多いように私は思います。
・牧師×メサイア・コンプレックス
教会のリーダーたる牧師がこの「メサイア・コンプレックス的な何か」を抱えていると、わりと大変なことになります。
どういうことかと言うと、「この信徒たちを正しく導けるのは自分だけだ」と強烈に思い込んでしまうからです(もちろん程度の差はあると思いますが)。そうすると信徒たちにズバズバ介入していき、頼んでもいないのに助言したり、お膳立てしたりします。
信徒の方は正直困ってしまうのですが、「先生も善意でやって下さっているから」と文句も言えません。
でもそれは厳密に言うと、「善意」ではありません。「人助けしている自分が好き」なだけです。だから相手の都合や心情を考えずに、自分の都合や願望だけで介入するのです。
依存的な信徒は、そういうのを嬉しく思うかもしれません。しかし牧師と信徒の関係としては病的なものがあると思います。
これが進行すると、牧師は信徒に対して支配的になります。「自分がこの信徒を守り、幸福に導くのだ」みたいに信じているので、最終的には信徒の自由意志・自由選択をも奪うようになります。ここまで来るともう末期的なメサイア・コンプレックスだと思いますが。
牧師×メサイア・コンプレックスという、最悪な掛け算ですね。
・行き過ぎに注意
ただ「人助けしたい」「人の役に立ちたい」という思いそのものは、おそらく多くのクリスチャンの方が持っていると思います。異常なことではありません。問題はその「度合い」です。行き過ぎてバランスを欠くと、ロクなことになりません。他の多くのことにも言えますが、なんでも行き過ぎには注意が必要です。
例外的に、「相手が望まなくても介入しなければならない事態」というのはあると思います。いろいろなケースがあるので一概に言えませんが、たぶん専門的な領域がほとんどでしょう。やはり一般的には、「行き過ぎには注意」と考えた方がいいような気がします。
>ただ本気で「自分はキリストだ」と妄想しているとしたら、それは精神疾患によるものでしょう。馬鹿にするとか倦厭するとかでなく、早く専門的な治療を受けてもらう必要があります。でもそこまで重症な人はなかなかいません。
返信削除新興宗教系プロテスタントが非常に盛んなお隣の国では、「我こそはキリストなり~」という電波系基地外だらけですが(笑)。しかも彼らは病院に入らず、白昼堂々と外を勝手にほっつき歩いています。解放医療の先進国だったんですね(苦笑)。
ボランティア中毒ですね。最近はやっとこの問題を扱った書籍も出版されるようになりましたね。キリスト教だけじゃなくて政治の世界でもあります。選挙が近いので気を付けましょう。「国は矛盾問題に満ちている」「立ち上がらないあなたは罪人だ」!
返信削除リンクのURLが長くてすいません。IT苦手なんです。管理人様の方で必要なら加工ださい。
http://7net.omni7.jp/detail/1106682273?gclid=CjwKCAjw0qLOBRBUEiwAMG5xMLbjoVWFsrqKF-2cT83bM0y4iosQLHhoDaJwQnIjyXr6TbsnjGA4_BoCDSMQAvD_BwE
インマヌエル様
削除コメントありがとうございます。
URLの表示に関しては私も不勉強でよくわかりません。ごめんなさい。でも書籍の紹介ありがとうございます。ボランティア中毒という言葉は初めて聞きましたが、わりと身近な問題だと思いますね。
・ちなみにリンク先は「ボランティアという病」という書籍の販売サイト(オムニ7)です。
ボランティア中毒の話は最近はよく聞きますね。そういえばイラクに行った三人が拘束されて、日本中が「自己責任だろ!」と腹を立てた事件があったのを思い出しましたよ。彼らは三バカ大将とののしられていましたが、あのとき確か唐沢俊一が「社会派くんが行く」という本で、「あのTとかいう女はアホか。ボランティアボランティアというけれど、ボランティアなら日本の国内でする場所がいくらでもあるのだから、わざわざイラクくんだりまで行くのはおかしい」
返信削除これに同意する人は多いと思いますね。ボランティアをしに行く人で時々いるんですよ。自分の家はほったらかしになっている人が・・・。困ったものです。家族にとってはボランティアだと外に出かける暇があるなら、「ボランティアはまず我が家から」といいたいのではないでしょうかね。
被災地に来た宗教系のボランティアが、それなりに人々の役に立つものならまだ我慢もできますが、たいていは「被災地を励ますコンサートでーす!」と、自己満足でしかない素人のへたくそな演奏をするだけなんて噴飯ものなものだったりするんですよ。
いや、へたくそな素人のコンサートならまだましなのかもしれません。私が聞いた話で一番ひどいと思ったのは、新興宗教系プロテスタントの教会の関係者ですが、「日本人はキリスト教じゃないから罰が当たった。これを機会に悔い改めてキリスト教に改宗しなさい!」とやっていたなんて話があったそうです。
松山千春が、飛行機が遅れたときにマイクを取って歌を披露したってニュースがありましたね。
返信削除プロとしてお金を貰っている人の歌声が無料なら立派なボランティアですが、素人のど自慢は迷惑ですね。
教会で、バイオリンコンサートを無料で聴いた事ありますよ。演者は音大の先生でプロの方でした。
インマヌエル様
削除コメントありがとうございます。
「素人ののど自慢」というのが的確なたとえですね。独りよがりの押し付けなのに、本人たちは気づいていない、という状況が本当に多いと思います。