自分のことを「クリスチャンです」と言わない理由

2017年12月11日月曜日

雑記

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「クリスチャンです」と言わなくなった理由

 今回は、おそらく皆さんにとってどうでもいい話です笑

 突然ですが私フミナルは、できるだけ自分のことを「クリスチャンです」と言わないようにしています。
 と言っても、信者であることを隠しているのではありません。言いづらいのでもありません。必要に応じて「教会に行ってます」とか、「キリスト教を信じています」とか、「イエス・キリストを信じています」とか言います。それで相手の方から「あークリスチャンの方なんですね」と言われたら、アハハと笑って、曖昧に流すことにしています。

 日本語には曖昧な表現があるからいいですね笑

 ではなぜ「クリスチャンです」と言いたくないのか、ちょっと説明させて下さい。
 キッカケは、いつどこで見たのか全然覚えていないのですが、こんな言葉でした。

「クリスチャンだ、なんて自分で言うもんじゃない」

 ちょっと端折り過ぎなので付け加えますと、クリスチャン(キリストに似たもの、という意味)だと自認するのはおこがましいことでしょ、他人からそう認めてもらって初めてそう言えるんでしょ、「キリストに似たもの」だなんて、なんで自分で言えるの? というような意味です。
 
 なるほどなあと思いました。たしかに使徒行伝11章26節には、「弟子たちは初めてクリスチャンと呼ばれるようになった」と書いてあります。 彼らは自称したのではありません。自分が「キリストに似たもの」だと意識していなかったけれど、周囲の人々がそう認めてくれた、ということです。

 つまり「クリスチャン」という名称は、自己評価でなく他己評価が始まりだったわけですね。

 そう考えると、なんだか自分のことを「クリスチャンです」と言いづらくなってしまいました。私はもともと単純な人間なのです笑。
 とにかくそれ以来、上記のような「教会に行っています」などの言葉で、自分がキリスト教徒であると説明するようになりました。SNSなどのプロフィール欄からもクリスチャンという言葉を消しました。それで何となくスッキリしました。

 もちろん例外もあります。「クリスチャンです」と言った方がわかりやすく、あれこれ説明しなくて済む場合は、ハッキリそう言います。まあ大抵は「教会に行っています」で済むんですけどね。

クリスチャンである前に

 第二の理由として、これはさほど大きくないのですが、初めからクリスチャンという色眼鏡で見てほしくない、というのがあります。

 日本だからかどうかわかりませんけれど、初めて会う人に「クリスチャンです」と自己紹介すると、「あー宗教やってる(ちょっと変な、ちょっと異質な)人なのね」という目で見られることが少なくありません。もちろんそういう人ばかりではないです。でも初めから見えないバリアを張られてしまい、それ以上どうにもならないことがあります。

 まあそれはそれで仕方のないことですし、そういう人と仲良くしたいわけでもありません。でも「私=クリスチャン」ではないし、「私=キリスト教」でもありません。そうでなく「私」という人間に、「クリスチャン」という一側面があるだけです。
 だからできれば、いろいろな先入観なしに「私」がどういう人間なのか見てほしい、という思いがあります。

 私も誰かと知り合った時、その人がクリスチャンか未信者か、無神論者か異教徒か、なんて気にしません。出身とか職業とか、学歴とか肩書とか、そういうのは全部その人の一側面であり、その人自身ではないので、ほとんど気にしません。そうでなくどんな人なのか、どんな価値観を持っているのか、どんな話をするのか、どういう距離を取るべきなのか、といったあたりを見るようにしています。
 私自身が、人からそういう風に見てほしいので。

 これは聖書で言うところの、マタイ7章12節「人にしてもらいたいことを、自分も人にしなさい」の実践でもあります(こじつけ)。

正しいクリスチャン?

 ちょっと脱線しますが、中には「私は〇〇派の正しいクリスチャンです」みたいなことを言う人がいます。
 はぁ? 正しいクリスチャンって何? と思いました。正直言うと。

「正しいクリスチャン」がいるなら、「正しくないクリスチャン」がいるということですね。でもその基準はいったいどこにあるのでしょう。なぜ自分は正しくて、他の人は正しくないと言えるのでしょう。わかる人がいたら教えて下さい。

 これも何度も書いていることですが、聖書にはいろんな風に解釈できる箇所が少なくありません。〇〇という解釈もできるし、××という解釈もできる、どちらも完全に正しいと言えない、完全に間違っているとも言えない、みたいな感じです。

 であるなら、「自分の解釈が正しい。他のは間違ってる」なんて言えないはずです。そう言えるのはよほど自信満々なのか、無知なのか、あるいは愚かなのかのいずれかです(他にあったら教えて下さい)。

「水戸黄門」みたいな勧善懲悪モノは、話が簡単です。善か悪かの二元論で済んでしまいますから。でも現実世界は、二元論で語れることなんてほとんどありません。「完全に正しい」ということは少ないし、「完全に悪い」ということも少ないのです。

 ほとんどの人は、「悪いことをしてやろう」「人を困らせてやろう」なんて思っていません。つまり、「純粋な悪」を求めているわけではありません。そうでなく自分の信念や欲望に従って行動した結果、誰かの信念や欲望とぶつかってしまうのです。あるいは自分の信じる「正義」が、誰かの「正義」とぶつかってしまうのです。
 ほとんど人の数だけ「正義」があると言っていいでしょう。だからいくら自分の思う「正しさ」を主張したところで、他の人の「正しさ」を変えることも、否定することもできません。
「正しさ」を主張したところで、ほとんど何にもならないということです。あるいは争いを生むだけです。

 聖書はこんな風にも言っています。

「あなたは義(正しさ)に過ぎてはならない」(伝道の書7章16節)

「正しさ」を追い求め過ぎてはいけないよ、というわけですね。聖書はやっぱり「知恵の書」だと思います。はるか昔に書かれた書物ですが、現代にも余裕で通じる真実を、バシッと語っているのですから。

まとめると

 と、いうようなわけで、私は自分のことを「クリスチャンです」とも、「正しい」とも言わないようにしています。
 もちろん、皆さんが「クリスチャンです」と言うのは全然構わないですし、何とも思いません。その方がわかりやすいのは間違いないですから。

 ただ上記のような考え方もあるのだなあと覚えておいていただけたら、嬉しいなと思います。ちょっと幅が広がって、気持ちが豊かになるかもしれません。

 以上、本当にどうでもいいお話でした笑

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