「クリスマスらしさ」って?
12月も半ばになりました。皆さんの教会のクリスマス・イベントはいかがでしょうか。早いところはすでに終わっているかもしれません。これから本番というところもあるでしょう。いずれにせよ、素敵なクリスマスになればと思います。
ところでクリスマスを「クリスマスらしく」過ごすとは、どういうことでしょう。
七面鳥とケーキとプレゼントでパーティをすることでしょうか。キリストの降誕を教会でお祝いすることでしょうか。ゴスペルコンサートを開くことでしょうか。クリスマス風にアレンジした伝道集会を開くことでしょうか。クリスマスキャロルを歌ったり、聖劇を披露したりすることでしょうか。
たぶん教会によって、イロイロだと思います。どれが良いとか悪いとか、言うつもりはありません。「クリスマスらしさ」に唯一の正解などないと思いますから。中には「クリスマスの本当の意味は」とか「真のクリスマスとはこれだ」みたいなことを言う人もいますけれど。
余談ですが、Christmasという言葉はChirst(キリスト)+mas(礼拝)で構成されており、すなわち「キリストを礼拝すること」みたいですね。そうすると、多くの教会は毎週キリストを礼拝していますから、年中クリスマスをやってることになりますが(皮肉ではありません)。
ちなみに日光オリーブの里(旧関東祈祷院)に入って行く小道に「毎日がクリスマス」という看板が立っていましたが、まだあるのでしょうか。あ、ローカルネタですみません笑
クリスマスと聞いて嫌な気分になる現象
私が教会で頑張っていた頃は、12月が最も忙しい月でした。クリスマスのイベントが目白押しだったのに加えて、それに続く年末年始のイベント、そして新年のイベントの準備もあったからです。
イベントの内容は詳しく書きませんが、一つ終わるたびにホッとして、でもすぐ次の準備に取り掛かる、という繰り返しでした。ツリーとかリースとか蝋燭とか、キャロルとか馬小屋とか羊飼いたちとか、そういうクリスマス関連のものを扱うので、自然と「クリスマスらしさ」を感じます。でも気づくと、「イベントを無事に終わらせないと」「これをいついつまでに仕上げないと」などと考えています。「クリスマスらしい楽しさ」を演出しようとしている自分自身が、全然楽しくないわけです。クリスマスとはこういうものなのだろうか、という疑問が、なくはありませんでした。
カルトっぽい教会で大変な目に遭った人は、もしかしたら「クリスマス」と聞いて嫌な気分になるかもしれません。私も少しそうです。
でも「クリスマス」そのものが悪いのではありません。それはわかっています。そうでなく「クリスマスに嫌な思いをした」という記憶があり、それがクリスマスの度に思い出されて、嫌な気分になるのですね。
以前紹介した体験談に、クリスマス恒例のミュージカルの練習が大変だった、というお話がありました。何ヶ月も前から準備して、泊まり込みで練習して、全部手作りして、チケットも手売りして、という。そういうのを楽しめる人もいると思います。でもそうでない人には苦行でしかありません。そういう人は「クリスマス」や「ミュージカル」が嫌いになってしまうかもしれません。
だから教会のクリスマス・イベントに友達を誘おうと考えている人は、クリスマスに対して嫌な感情を持っている人もいる、ということは知っておいた方がいいと思います。そういうのを見極めるのは難しい場合がありますが、知っていると知っていないとでは、ずいぶん違ってきます。
何のため(誰のため)のイベント?
教会のクリスマス・イベントを考える上で大切なのは、何のためにするのか、誰のためにするのか、最初から明確にしておくことだと思います。できれば教会のみんな、少なくともイベントに関わるメンバーで、ちゃんと話し合っておいた方がいいでしょう。
よくある例として、毎年クリスマスに伝道集会を開き、未信者をたくさん集めよう、というのがあります。「クリスマスっぽさ」を最大限利用して、伝道しようというわけです。それが悪いとは言いません。
でも多くの教会は、何となく「クリスマスを伝道の機会にしよう」と言い、いつもと同じようなことを企画して、未信者が来ても来なくても「恵まれたね」と言って、終わっている気がします。そしてそれを毎年繰り返しています。目的がよくわからず、振り返ることもせず、傍から見たら内輪で盛り上がっているだけ、みたいな。
ぶっちゃけた話、それはそれで悪いとは思いません。ゆるいイベントをゆるくやって、みんなでゆるく過ごすなら、それはそれで良いと思います、私は。
でも信徒にあれこれ奉仕させ、忙しい思いをさせ、大変な思いをさせておいて、結果的に何の意味があったのかよくわからない、というイベントなら問題です。コストパフォーマンスも悪すぎます。未信者のためにと言いながら、その未信者が全然来なかったとしたら、何のための労力だかわかりません。メチャクチャ頑張ったのなら、なおのこと。
つまり、ゆるいイベントをゆるくやって内輪で楽しむならいいですが、大きな目標を掲げて信徒をコキ使うなら、その結果やコスパについてもちゃんと考えなければダメじゃないですか、ということです。
だから教会のクリスマス・イベント(伝道集会に限りません)は、その目的が何か、結果がどうだったのか、かけた労力は適正だったのか、といったことを皆でちゃんと共有すべきだと私は思います。信徒に奉仕を強いる教会なら特に、です。
クリスマスと平和
前述の通り、「クリスマスらしさ」は教会によってイロイロだと思います。これでなければいけない、というのはありません。でも私が皆さんにぜひお願いしたいのは、平和なクリスマスを過ごしてほしい、ということです。もし忙しすぎて嫌になっていたり、楽しくなかったり、モヤモヤしていたりするなら、何かがおかしいと考えるべきです。見直すべき何かがあると、考えるべきです。
もちろん、忙しい方が好きだ、大変な方が楽しい、という人はそれでいいです。それを嫌がる人を巻き込んでさえいなければ。
私が考える「クリスマスらしさ」の唯一の条件は、「平和に過ごせること」です。「平和」というのは「穏やか」と言ってもいいでしょうし、「楽しい」と言ってもいいでしょう。とにかく、そういうことです。
イザヤ書9章6節はこう言っています。
「ひとりのみどりごが我々のために生まれた」
みどりごは平和のシンボルです。それが「私たちのために生まれた」と言っているのですね。
ぜひこのクリスマス、皆さんの心に、平和がありますように。
>私が考える「クリスマスらしさ」の唯一の条件は、「平和に過ごせること」です。「平和」というのは「穏やか」と言ってもいいでしょうし、「楽しい」と言ってもいいでしょう。とにかく、そういうことです。
返信削除そうですね!心から、平和で楽しいと思えるのがクリスマスであってほしいです。楽しそうなフリで内心はビクビクしたり、疲れ切っているのは全て偽物のクリスマスだと思います。
私も、今年のクリスマスは、アドナイシャンパンを心から楽しみます(笑)
クリスマスの教会奉仕で、本当は辛いのに無理して笑っている人がいるでしょうね。そういう方にこそ読んでいただきたい記事なのですが、たぶんそういう教会では、このブログは「悪魔の使い」みたいに言われると思います。見ただけで霊が汚される、とか、悪霊の影響を受ける、とか。
削除それはともかく、アドナイシャンパンを楽しんで下さい笑
初めまして。教会に通いだして5〜6年になります。内部の人間関係や
返信削除奉仕しなければ、居心地の悪さを感じ、最近、すっかり、冷めてしまっています。ストレスを抱え、時間を犠牲にしてまで、通う意味が無い気がしています。
クリスマスは家でゆっくりと過ごそう、自分のしたい事をしようと思います。
その方が平和・穏やかな気持ちになれます。
コメントありがとうございます。
削除5、6年は長かったですね。教会で大変な思いをされ、今は疑問や怒りや失望感を感じてらっしゃるのではないでしょうか。詳しくはわかりませんが、ストレスフルな状況からは、少しの間だけでも距離を取った方が良いかと思います。おそらくそこに居続けても解決しないでしょうから。
おっしゃる通り、是非クリスマスはご自宅でゆっくりして下さい。そして心の向くままにされたらいいと思います。その方が気分転換になるのではないでしょうか。
どうか良いクリスマスをお過ごし下さい。
クリスマス礼拝の忙しさ。奉仕者あるあるです。蓄積される疲労感、お菓子やケーキばかり食べる不摂生な食事(やたらとコストコ)。何がどうであれ終わったら、大成功でしたー!ってまとめる不透明さ。あるある。
返信削除話は変わりますが、ある教会ではこの時期に、主任牧師先生たちに日々の感謝を表しませんか?と呼びかけがあり、牧師へのクリスマス献金袋(希望制)が配られます。ただ、ボーナス什一献金袋(ボーナス有無問わず強制率100%)もあります。教会にとっては献金納め時のハレルヤなのでしょう。
これが今回の記事から私がふと思い出したことです。
教職者たちへの年末の感謝、ありますね。日頃労しておられる先生方に、せめてもの気持ちを表しましょう、みたいな。
削除でも日々労しているのは信徒も同じだと思いますけどね。むしろ「この世」の会社で働いている信徒や、家事育児介護に専心している信徒の方がよっぽど大変ではないかと思います。それなのに何故追加の献金が必要なのでしょうね。
忙しいのが好きで、人に振る舞うのが好きならそれはそれで良い事だと思うんですが他人に強制してはダメですよね。
返信削除大勢の方と過ごすクリスマスがあっても良いけれど、心穏やかに過ごすクリスマスがあっても良いと思います。どちらにしろ「平和」って良いですよね。
私が昔クリスマスに行った小さな町の教会のクリスマス礼拝は、派手なものではなかったですが十分に心に残りましたよ。
昔ながらの讃美歌と、優しい口調の牧師さんと、最後に皆で食べた少しのお菓子と温かい紅茶。
それだけで十分心が暖まりました。逆にまた行きたいなと思いましたよ。
本当は教会に求めてるのって見た目の派手さとかわかりやすい伝道とかではなくて、人の温かさなんだろうなぁと思いました。特にクリスマスは。
ありがとうございます。
削除そういうささやかな、でも心温まるクリスマスはいいですね。大きなイベントとか伝道集会とかでなく、こういう時こそ信徒のために、あるいは集まった人たちのために、心のこもった催しができたらいいのではないかな、と私個人は思っています。
メビウスさんがおっしゃる通り、その方が心に残るし、また行きたいと思ってもらえると思います。信徒を大切にするのでなくコキ使うだけの教会は、長い目で見れば続かないのではないでしょうか。いや、続かないでほしいです。
記事にも書きましたが、読者の皆さんにも温かいクリスマスを過ごしていただきたいです。
クリスマスに伝道と云いますけど、「クリスマスだから教会に行ってみようかな」と思っている人が日本にどれだけいるでしょうか?
返信削除それは、正月だから初詣に神社に行こうとしている人と比べて格段に少ないと思いますけどね。
クリスチャンになって1年目くらいに、クリスマスが終わったあと、教会員の人たちが疲れた疲れたと言っていたので、だったら伝道集会とかイベントはやめて、普段通りに過ごせばいいんじゃないですか?と提案したことがありました。
別に新しく来た人とかいなかったので、だったらクリスチャンのための集会にすればと話したのですが、それは無理と却下されてしまいました。
理由をきくと、クリスマスこそ伝道のチャンスだからそうです。
でもそのために信徒が疲れ果ててしまうのであれば、伝道の機会を減らしても信徒を守るべきと思うのですが。
記事にも書きましたが、新しい人のいない伝道集会なら、やらない方がいいと思います。やるならやるで、人を呼べるような方策をしっかり考えてやらないと、結局自分たちが恥ずかしい思いをするだけだと思うんですけどね。
削除「クリスマスだからやる」「クリスマスだから伝道集会」というところで思考が停止してしまっているのかもしれません。その先を考えることが、本当は必要なのですが。
私は信徒だけのクリスマス集会とか、簡単なパーティとかの方が全然良いと思います。
クリスマスだけでなく、毎週日曜日夜の「伝道会」も、誰得なの?という会がほとんどのような気がします。
削除水曜日夜の祈祷会は、週半ばだから、まだ意味があるのかもしれないけど。
学生青年会のライブが主体なら、要は彼らの表現の場ということにはなりますが。
習慣的に行われている集会や会議で、やる意味がよくわからなくなっているものがあるかもしれませんね。そういうのを定期的に見直す仕組みがあればいいのですが、ないと延々と続いてしまい、非生産的なことになってしまうかもしれません。
削除ただ意味があるかないかは、立場によって変わってくるかもしれないので、一概には言えませんが。
私の所属するカトリック教会、騒がしいクリスマスですね。普段来ない?人も夜のミサはいっぱいになりますね。その後のアルコールはありませんが、にぎやかな会食、準備が大変なのですよ、かたづけも、嫁さんに手伝ってくれと言われる。庭の木に大きなクリスマスツリーを飾り付け12月早々にやるし、私に手伝ってくれと言われる。クリスマスツリーなんかいらない、夜のミサの後の会食もいらない、夕食を食べてくるだろう、静かなクリスマス集会をしたいものですね。25日のクリスマスミサはぐーと人数が減って、日曜日のミサより少ないくらい、静かなミサが行われるので、いい感じですね。フィリピン、南米、ベトナムから日本に来ている人はクリスマスイブは騒ぎたいみたいですが。私の性にはあいませんね。
返信削除カトリックはまた事情も雰囲気も違うでしょうね。よくわからないので何とも言えませんが。
削除おっしゃる通り、準備や片付けが大変でしょうね。それは信徒の方が率先してやられるのでしょうか。あるいは当番制とか、ある程度の強制とかあるのでしょうか。
25日になると逆に人が来ない、というのも興味深いですね。その日は家族で過ごすのでしょうか。フィリピン、南米、ベトナムそれぞれのお国柄や文化習慣も関係あるでしょうね。
いずれにせよ騒ぎたいのも、静かに過ごしたいのも、どちらもありだと思いますか。どうぞ良いクリスマスを。
去年のクリスマスは教会のキャンパスライブでかなり疲弊していました。リスクを背負いながらの伝道、上手くいかないと自分を責める日々でした。新来者やライブに来た学生にはあれこれもてなすのに私のことは一切顧みてもらえなかった。信徒が疲弊するくらいならライブや伝道なんてしなくてもいいと何度思ったことでしょう。完全に優先順位を間違えていると思います。
返信削除今年のクリスマスは自分の好きなように過ごします。
reiさん
削除体験談でも拝見しましたが、キャンパスライブは本当に大変だったと思います。ストレスフルでしたよね。もうご自分を責める必要はありませんので、今年はどうぞ、ゆっくり過ごして下さいね。
新しい人が優遇され、以前からいる自分は顧みられない、というのは私も経験があります。すごく理不尽に感じたり、寂しさや怒りを感じたりしますよね。でもそれは(わかっているとは思いますが)reiさんの落ち度でなく、完全に教職者側の落ち度です。彼らは狩りに夢中で、捕まえるまではアレコレ手を掛けますが、捕まえた獲物に餌はあげないのです。結局、その程度の人たちだったのだと、私は思います。
失った時間は戻りませんけれど、これからは、ご自分のために精一杯生きてほしいと思います。それは自分勝手なことではありません。当然のことです。
どうぞ心のままに、今年のクリスマスをお過ごし下さい。
こんばんは。
削除教会に所属していたときは、クリスマスは伝道集会で毎週土日の予定は埋まっていました。新来会者の人がたま~に来るときもありましたが、その人達に対しては、媚びるようなもてなしをしているのはもう何回も見ました。見ていて気味が悪かったです。
ニャンタマさん
削除やはりクリスマスは伝道集会だったのですね。でも新来会者はたまにしか来ないという、よくわからない感じですね。
体験談にありましたが、献金を集めたがる教会だったようですので、やはり人集めが肝心だったのでしょうね。それで必要以上に媚びたりもてなしたりと、露骨なところがいやらしいと思います。結局、人を金づるとしか見ていなかったのでしょうね。
ニャンタマさんも教会では嫌な思いを沢山されたと思います。どうぞ良いクリスマスを、お過ごし下さい。