復讐法は古くて野蛮?

2021年6月8日火曜日

雑記

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 「目には目を」の復讐法は残酷で野蛮なイメージがあるけれど、「やったら同じことをやり返される(だからやらない)」という一定の抑止力になっていたのは、警察組織等がなかった時代には効率的な治安維持方法だった。

 また「やられた分だけやり返す(それ以上やってはいけない)」という意味で、過度な復讐や暴力を抑止する装置でもあった。実は理にかなっている。野蛮なのは「目には目を」と仕返しする人でなく、最初に目を潰した人の方。


 そしてこの復讐法は、裏返すと「やられる覚悟があるならやっていい」ともなる。そこまでの理由と動機があり、同じことをされても受け入れるだけの覚悟があるのなら。その意味で、いろいろ覚悟が必要な時代だった。


 翻って現代を見ると、「やり返される恐れがないから虐める」とか「反撃されない立場だからハラスメントする」とか「みんな言ってるから自分も誹謗中傷する」とかの、覚悟のない暴力ばかりが目立つ。やり返されて同じダメージを負うと分かっていたら、やる人は減るだろう。今こそ復讐法が必要かもしれない。


 旭川の事件をきっかけに「自分の子もイジメられていたけれど、こういう方法で止めた」というツイートが増えた。いろいろな方法があったけれど、共通点は「相手がやり返されると知って(懲りて)イジメを止めた」というもの。つまり復讐法は今も有効なのだ。


 キリスト教会内でも福祉団体内でもどこででも、性犯罪は起こり続けている。それは(加害者となることが多い)男性の性欲や支配欲が「制御不能だから」でなく、単に「反撃されずにできるから」だ。「できる」からやるのであって、できなかったらやらない。もし女性に男性を圧倒するだけの力があれば、少なくとも男性から女性への性犯罪は激減するだろう。


 その意味で世界は今も、復讐法の原理で動いていると言える。


 キリストの教えでわたしが多分一番納得できないのは、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」だ。復讐法の逆を行くもので、「愛と許し」が前面に出ているように見える。が、現実にこれを実践すると「やられっぱなし」になる。ほとんどの場合「打つ側」が強く、「打たれる側」が弱いのだから、不均衡を助長することにしかならない。


 「このたとえの真意は、奴隷のように扱われることに対する反抗だ。やられっぱなしという意味ではない」と反論する人がいるだろう。けれどそれでも2回打たれることに変わりはない。それより大切なのは「そもそも打たれない」ことだ。相手がどちらの手でどういう方向で打とうが、「打っていい人間」だと思っていることが一番の問題なのだ。


 その不均衡をみんなで打ち破っていくことが求められている。そしてそれが実現した時こそ、復讐法の原理は要らなくなる。


 復讐法が野蛮なのでなく、復讐法の原理がなければ制御されない人間が野蛮なのだ。

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