「エルサレム首都認定」ニュースの何に注目すべき?

2017年12月9日土曜日

キリスト教系時事

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エルサレムを首都と認定

去る6日、米大統領のトランプさんが、エルサレムをイスラエルの首都と認定する声明を出しました。それに伴って米大使館も、エルサレムに移転させる予定だそうです。そこにどういう思惑があるのかわかりませんが(単に選挙の公約を果たしただけという見方もありますが)、いずれにせよ大変な声明だと私は思いました。

 なぜ大変かと言うと、今さら書くことでもないですが、エルサレムを巡るイスラエルーパレスチナ間の争いが激化すると考えられるからです。ずっと争い続けてきた当該地域に、新たな火種を投げ込むようなものだからです。現地の人々の不安や恐怖は、いかほどでしょう。

 皆さんはこのニュースを聞いて、どう思われたでしょうか。

立場によって変わる見え方

 クリスチャンの方ならご存知と思いますが、エルサレムは聖書によると、神様がイスラエル民族に与えた「約束の地」と位置づけられています。歴史的にも、そこにイスラエル王国が(一時期)ありました。だから当のイスラエルや、世界中のクリスチャンの皆さんからしたら、この認定そのものは、さほど違和感ないものかもしれません。むしろ、当然と思う人さえいるでしょう。

 ではアラブ側から見たらどうでしょう。
 第二次大戦後、国を持たないユダヤ人(イスラエル人)たちが、「故郷」を求めてパレスチナ地域に流入しました。そしてそこに長年住んでいたアラブ人たちと争うようになりました。最終的に国連が調停に入り、同地域は、ユダヤ人側とアラブ人側とで分割統治されることになりました。でもアラブ人側からしたら、自分たちの土地が勝手に分割されてしまったわけです。彼らは当然反発しました。そして長きに渡る争いが始まりました。

 というのが、一般に認識されている経緯です。
 だから「エルサレムはユダヤ人のものだ」というのは(聖書の権威を否定するわけではなく客観的に見て)、ユダヤ人側の言い分に過ぎません。少なくともアラブ人の側からしたら、一方的すぎる話です。それにイスラム教にとってもエルサレムは聖地です。その意味でも、「ユダヤ人の好きにはさせられない」わけです。
 なのに今度は米国が、エルサレムはイスラエルの首都だと言い始めたのです。大変な反発が起こるのも当然ではないでしょうか。

 ユダヤ人とアラブ人とで問題の見え方が全然違う、ということです。

「主の御業」という言葉の影で見えなくなっているもの

 この「イスラエルが約束の地に攻め入り、そこに住む人々と戦った」というのは、旧約聖書のヨシュア記を連想させます。同じような構図だからです。だから上記のような動きを「聖書的だ」とか「神の約束の成就だ」とか思ってしまう人が、いるかもしれません。でも旧約の話をそのまま現代に適用していいわけがありません。

 日本に住む私たちには実感しづらいことかもしれませんが、エルサレムを巡る争いによって、沢山の血が流れてきました。何十年もの間、多くの人々が犠牲となってきました。そしてそれが今、ますます激化するかもしれないのです。
 聖書がどうのとか、神の計画がどうのとか言う前に、そういう悲惨な事態にこそ注目すべきだと私は思います。旧約聖書においてイスラエル民族が「約束の地」に侵攻したからと言って、現代のイスラエル国家がパレスチナに侵攻していいわけがありません。

 キリストもそういうことを教えていません。少なくとも新約聖書において、神がイスラエル人を愛し、アラブ人を憎んだ、なんてことは書いてありません。むしろ全ての人を愛したはずです。また他国を侵攻していいとか、人を殺していいとか、そういうことも書いていません。そうではありませんか。

 しかしながら、一部のクリスチャンは、「これでエルサレムに神殿が再建される」「主の再臨の備えが進んだ」みたいなことを言っているようです。だいぶ想像力が足りないと思います。そこで犠牲になる人々がいる、大変な思いをする人々がいる、という想像力が。

 たとえば身近ところで暴力事件があった、イジメによる自殺があった、殺人事件があった、と聞けば、「なんて酷いことが」と思うでしょう。その被害者が身内だったら「許せない」となるでしょう。では遠い地で大規模な戦闘が起こった、と聞いて「なんて酷いことが」と思わないのでしょうか。なぜそこで「主の御業だ、ハレルヤ」みたいなことが言えるのでしょうか。

 パレスチナが日本だった場合で考えてみましょう。
 外国人が、「ここはもともと我々の土地だった」と言って、日本に入ってきます。揉めに揉め、各地で争いが起こります。そして国連の介入があり、なぜか日本列島が東西で分割されることになってしまいました。愛知県とか静岡県のあたりでしょうか。以来、向こう側は敵国になります。さて、どう思われるでしょう。
 それだけではありません。度々戦争が起こります。境界付近はいつも緊張状態です。生活拠点を移されたり、住むところがなくなったりします。仕事のことや学校のこと、生活のこと、将来のことなど、悩みが尽きません。しかも家族や友人、あるいは自分自身がいつ犠牲になるかもわかりません。
 そういう悲惨な状況を、遠くで見ている人たちがいます。そして「あれは主の御業が進んでいる証拠だ。ハレルヤ」とか言っているとします。さて、どう思われるでしょう。

共感力と想像力

 いつも書いていますが、クリスチャンにとって必要なのは「他者を思いやる」ことだと私は思っています。他者への共感力です。あと想像力です。これがないのに「愛」とか「寛容」とか「柔和」とか「親切」とか、持てるはずがありません。「思いやりのない愛」とか、あるならむしろ見てみたいです。

 人間はみんな、自分の視点からしかものが見えません。それは仕方のないことです。でもだからこそ、他者の視点を意識する必要があると、私は思うわけです(実際にはこれが難しいのですが)。

安易すぎる「預言の成就」宣言

 今回の話題でもう1つ大切だと思うのは、世界情勢を安易に聖書の預言に当てはめてはいけない、ということです。世界で、とりわけ中東地域で何か起こる度に「これは○○の預言の成就だ」みたいなことを言い出す人がいますが、はっきり言って浅はかです。

 最近では2014年7月にイスラエル軍がガザ地区に侵攻しましたが、この時も「これはもう終わりの時が近づいている」と真面目に言う人がいました。結局8月に停戦となりましたが、その人は何の訂正も言及もしていません。ずいぶんといい加減ではないでしょうか。

「携挙が近い」と言ってしまった人も、私が知っているだけでも複数います。どれも何も起こらなくて、あとから見苦しい言い訳をするハメになりました。これはほとんど詐欺だと私は思うのですが。

 彼らが人を騙そうと思っていたのか、本気でそう信じてしまっていたのか、わかりません。そうであってほしい、という願望に突き動かされたのかもしれません。いずれにせよ、もうちょっと客観的に物事を見るべきでした。目の前の事柄がどう転がっていくのか、私たちにはわからないからです。感覚や願望で、言うべきではありません。

 今回の「エルサレム首都認定」 ニュースを聞いて、「神殿再建のしるしだ」とか「主の再臨の備えだ」とか言うのも同じです。1948年にイスラエルが再建国された時も、同様の声がありました。それから何十年たっているでしょう。そういう過去を振り返り、学び、考えてみることも必要ではないでしょうか。

 さて皆さんは、どう思われるでしょうか。

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