■メンタリング
あまり馴染みのない言葉かもしれませんが、メンタリングというのがあります。キリスト教というよりビジネスの現場などでよく使われる言葉かもしれません。人材育成の方法論の1つです。
経験豊富な年長者が「メンター」となり、若年者や未熟練者などの対象者(こちらは「メンティ」と呼びます)と、継続的な交流を持ちます。そして対話や助言を通して、メンティが自発的に成長していけるよう支援します。そういう枠組みをメンタリングと言います。
メンタリングはキリスト教界にも徐々に取り入れられているようです。日本ではまだあまり聞きませんが、欧米のクリスチャンと話すと「私のメンターは・・・」みたいなセリフが出てきます。アメリカに留学した知り合いも、むこうでメンターを見つけてきたそうです。日本ではどうなんでしょう。今後普及していくかもしれません。
ただこれ、昨今の「弟子訓練」と混同されそうな気がしてなりません。「師が弟子を訓練する」ということで、似ている部分がありますから。でも混同されるべきでないので、今回はメンタリングと弟子訓練のちがいについて考えたいと思います。
■自立性と服従性
メンタリングは基本、対話や助言が中心になります。その意味でカウンセリングに似ているかもしれません。メンターはメンティの話を聞き、必要な質問をし、内省を促します。メンティが自らどう考えるのか、どう判断するのか、といった「自立性」を大切にします。
一方で弟子訓練は、おそらく教会ごとに違った様相を見せるでしょうが、基本はこれです。
「師に服従しなさい」
「師の言う通りにしなさい」
「いつも師の判断を仰ぎなさい」
そしてあれをせよ、これをせよ、という活動に繋がっていきます。良く言えば「実地指導」みたいなものです。やり方を教えられ、その通りにやってみる。でも何をやるかは師の命令次第。という感じで。
弟子訓練については今までも書いてきましたが、あちこちで問題になっています。近頃頂いた体験談も、どれも弟子訓練に由来するものでした。訓練と称して過酷な労働をさせる、パワハラをする、セクハラをする、暴力を振るう、といった問題が多く起きています。だから私は弟子訓練にははっきり反対です。根本的にやり方や考え方を変えない限り、賛成することはないでしょう。
一方でメンタリングには、私はまだ希望を持っています。
もちろん悪用の危険性はありますし、良いメンターもいれば悪いメンターもいるでしょう。でも対話と助言がベースなので、より知的な、理性的なものになり得るのではないか、と思っています。
ではメンタリングの現場をちょっと見てみましょう。CT Pastors の記事「効果的なメンターになるには(How to be an Effective Mentor)」から、「良い質問をすること(Asking Good Questions)」という項目を翻訳して引用します。ではどうぞ。
(以下翻訳)
■良い質問をすること(「効果的なメンターになるには」から抜粋)
良いメンターの重要な義務の1つは、正しい質問をすることです。メンターは「答える人」でなく、「内省を促す人」です。時に質問は、重要な位置を占めます。
ランディさんの話。
「私が関わったある学生は、(ミニストリーに行き詰まっていて)自分の課題をこれだと特定しました。でも私がいくつか尋ねていくと、それがまだ問題の表層でしかないことに気づきました。彼の本当の課題は時間管理だったのです。ミニストリーは難しい壁にぶち当たっていました。だから彼の本来的な役割と、ゴールと、より良い時間管理法について、私たちは議論しました。メンターが『鍵』となるポイントを指摘することができれば、本当の助けを提供することになります」
もう一方で質問は、直面すべき個人的課題を明るみにします。
ジャネットさんの話。
「救急救命室で働くメンティにこう言ってみましょう。ひどく虐待された女性が運ばれてきましたよ、と。そういう話はしたくありません、とメンティが答えるなら、それは普通の反応です。では次に、それは何故かと尋ねてみましょう。いろいろな理由が考えられます。メンティの内側で何が起こっているのか、何について考えたのか、質問してみましょう。こう答えるかもしれません。
『母が殴られるところを思い出してしまいました』
『人が人にそんなことをするなんて考えられません』
「彼をぶん殴ってやりたい』
それらの答えは、ヒントとなります。そのメンティをいかに導き、いかに教えるべきかのヒントです」
続いてペインさんの話。
「メンティの方がメンターに質問するのもまた有益です。自分の困り事についてどうすべきかアイディアを練ってきたり、考え抜いた質問をミーティングに持ってきたりすることを、私は彼らに推奨しています」
質問はまた、「もっと考えるように」という刺激になります。
テリーさんの話。
「昨日、ある学生と話しました。彼はパキスタンで教える仕事がしたいけれど、現地の言葉をわざわざ学ぶのは嫌だ、と言いました。パキスタン人は英語を話せるんだから、そこで神学校を開いて(英語で)聖書を教えたい、と彼は言うのです。私はこう尋ねました。それは面白い考えだね。でもパキスタン人が英語を話すからと言って、英語で考えているわけではないと知ってるかな? 彼らは異なる価値観、異なる視点で、パキスタン人として(パキスタン語で)考えているんだよ。君のその方法は、本当に現実的なのかな、と。彼は考え直してくれました」
(以上翻訳)
■メンタリングと弟子訓練のちがい
ここに、メンターが持つべき1つの明確な方向性が示されていると思います。それは「メンティが自分で考えて自分で進んで行けるように助ける」ということです。それは最終的に、メンティが自分のもとから羽ばたいていくことを意味します。でもメンターはそれを喜びます。メンティがいつまでも自立できず、メンターがいないとどこにも進めないのだとしたら、それはメンタリングの失敗だからです。
メンティが自由に羽ばたいて、(いろいろぶつかりながらも)自分なりに進んで行けるようになることが、メンタリングのひとまずのゴールと言えるかもしれません。
それに比べて昨今の弟子訓練は、師が弟子を支配します。弟子は何年たっても、師の許可や指示なしに動くことができません。ある程度の選択は任されるかもしれませんが、基本的には師の判断に従っているだけです。しかもそれだけでなく、時に不本意なことをさせられ、理不尽な扱いを受けます。その延長線上にパワハラやセクハラ、暴力などがあります。
メンタリングが「自立」を目指すものであるのに対して、弟子訓練は「服従」を目指すものです。大きな違いです。あなたはどちらを望むでしょうか。
またキリスト教的には、どちらがその教えにかなうのでしょうか。ぜひ皆さんも考えてみて下さい。
単純に考えて、子供がいつまでも親に頼りきりで、自分で何も判断できず、親に言われるがままだとしたら、それは健全な成長とは言い難いでしょう。もちろん病気や障害やその他の様々な事情で、そのような状態になることがあります。けれど特段の事情がないのに自立できないとしたら、どこかに何か問題があると考えるべきではないでしょうか。
また両者の行く末を考えてみて下さい。
健全なメンタリングであるなら、メンティはやがて誰かのメンターになるでしょう。そしてそのメンティもいつか自立して、誰かのメンターになるでしょう。健全なメンタリングは継承され、継続していきます。
一方で昨今の弟子訓練は、弟子が将来的に師になる可能性は低いです。師になるには他の弟子たちを蹴落とし、師に気に入ってもらえるようにアレコレ手を打たないといけないからです。でもそこまで判断力と行動力があるのなら、そもそも誰かの弟子にはなっていない気がします。弟子たちの多くはただ師に酷使され、疲弊して、やがて燃え尽きていきます。そうでなくても師が生きている限り、どこにも行けません。ずっと使われ続けるだけです。
さてもう一度お尋ねします。あなたはどちらを望むでしょうか。
■効果的なメンターがメンティにすべき質問
では最後に、同記事から「効果的なメンターがメンティにすべき質問」を翻訳して以下に掲載します。メンタリングに興味がある方、今まさにメンターをされている方、あるいはメンタリングを受けているメンティの方の参考になれば、幸いです。
(以下翻訳)
・あなたの教会での活動は、神様とあなたとの関係に、どんな影響を与えていますか?
・あなたの使命感(召命感)は明確になっていますか?
・あなたのスキルはどこで試されますか?
・あなたの人格はどこで試されますか?
・将来的にどんな活動がしたいですか?
・あなたを手伝うにはどうしたらいいですか?
・あなたの活動に神様が働かれているとする根拠は何ですか?
・あなたの人間関係や他者との接し方は、あなたの活動にどう影響していますか?
・あなたの成長において、どの分野が足りないと思いますか? どんな不足を感じていますか?
・どんな新しいことに挑戦できそうですか?
・あなたがさらに高潔な人となるために、私たちは何ができるでしょう?
・あなたの(過去の)痛みは何ですか。その痛みは今なおどれだけあなたを苦しめていますか?
・その痛みの結果、あなたはどんな人になったのでしょう?
・全能の神は、あなたの痛みの経験をどのような未来に繋げてくれるでしょうか?
・神があなたの人生に為したことの全部(意に沿わなかったことも含めて)について考えてみましょう。神は何を教えようとしていると思いますか?
(以上翻訳)
初めて投稿します。
返信削除私が通っていたある教会の牧師がメンター、メンタリングという言葉を持ち込んだ時期がありました。ちなみにその牧師は、超トップダウン式で教会を運営していました。
その牧師は、単立の教会(大きな会堂があり、信徒数が多い)の牧師たちと仲が良く、互いに出張し合って説教しては、やたらオーバーに相手牧師と教会を褒めちぎりました。そのうちその牧師が「〇〇先生は私のよきメンターです」と信徒に話すようになりました。メンターって言葉をやたら最先端に思わせる言い方で。
しかしそれは、私は教団の垣根を越えて仲良いんですよ〜すごいでしょ、と自己アピールをしているようでした。また、メンターを立てることで牧師として自分は適切に指導され、霊的に大丈夫ですよアピールとも思えました。私は主にあってへりくだってますよアピールも満載です。最後はテンション高めで、聖霊様が私たちの最高のメンターで〜す!ってまとめるのでした。かなりのどや顔で。信徒はアーメン!って必死。
その頃から教会のセルグループでもメンター的視点で人と関わりましょう、とリーダーたちに指導が入りました。が、定着はせず。それもそうです、教会自体がトップダウンのままでしたから。リーダーたちは霊的戦いと弟子訓練の繰り返し。エンドレス弟子訓練。
結局牧師にとって心地いいのがトップダウン式運営だったのでしょう。実態が合ってないのにメンタリングとはいきません。メンタリングのシステムは良いものなのかもしれませんが……私にとっては、トラウマ的な過去を思い出させる言葉になっています。
ちなみに、メンターって言うのがカッコイイと思っているのか…牧師が教会にドヤ顔で持ち込んでくる感じがイタかったです。
呂布さん
削除初めてのコメントありがとうございます。
メンタリングですでにトラウマ的な記憶があるとのこと、大変失礼しました。欧米の影響が強い教会や、実際にどこかと関係のある教会は、すでにメンターという考え方があるのでしょうね。当然ながら本来的な意味とはほど遠い使われ方をしているようですが。
実は私のかつての牧師も海外との繋がりが強く、「どこどこ(海外)の誰々先生は自分の霊的なメンターです」とか自慢げに言っていました。でもその牧師も超トップダウンな人でしたので、結局他人の話など聞かない、メンターなど必要ないタイプでした。「メンターがいる」ということを自慢したかっただけだと思いますね。今思うと痛々しいだけなのですが笑
弟子訓練にしろメンターにしろ、教会の中で聖職者から信者に対してなされるものではなく、聖職者を育成するための神学校で、教官から神学生に対してなされるものです。
返信削除正教会やカトリックでは、かなり厳しい修行が神学校で課されると思いますが、教会の中で神父が信者に対して、厳しい修行を課すことはありません。
結論としていえることは、弟子訓練やメンターは、僧侶になる過程では必要なものかもしれませんが、単なる平信徒には実は全く必要がないものなのです。
もしそんなものが平信徒にまで必要だというなら、正教会やカトリックで千年以上もの長きにわたって、弟子訓練やメンターをしているはずです。
二大先輩方がやっていないということは、こういうものが平信徒には百害になることはあっても一利にはならないと、彼らは長い歴史からくる経験でよくわかっているからではないでしょうか。
興味深い事実があります。なぜかはわかりませんが、たいして修行を積んでいない聖職者ほど、信者には厳しい修行をやたらと積ませまくるということです。
比叡山で千日回峰行を達成した阿闍梨が、平信徒に厳しい修行をしろというでしょうか?
記事にも書きましたが、健全な形でなされるなら、メンタリングは一般の信徒の方にも有効だと思いますね。実際に良い形でメンタリングを続けている知り合いもいます。時々会う相談相手、時々自分の方向性を確認してくれる相手、みたいな感覚です(訓練という感覚ではありません)。実は自分もそういう相手がほしいくらいです笑
削除ただそうは言っても、弟子訓練と同じで、歪められたメンタリングというのもあるでしょうね。だからなんにせよ注意は必要なのですが。
どんなもの、どんな良いものにも例外はある、ということだと思います。
健全な形ってどこからどこまでが基準?どうやってこの人は大丈夫だと判断するの?免許も勉強もしてない素人の人がひとのメンターって、コントールが少なからず入るじゃん、カウンセリングとも違ってメンターって響きちょっと怖い。
削除当然ながらメンタリングも悪用される可能性はありますね。というかどんな方法論、どんなテクニック、どんな理論も、そういう人たちにかかると簡単に悪いものになってしまいます。
削除だから何が健全なのか、何が健全でないのか、というのは判断が難しいです。メンタリングだけの問題ではありません。カウンセリングもやり方次第で悪いものになりますから。
ただその中で私がメンタリングに一定の期待を持っているのは、一方的で強制的で拒否できない(しづらい)弟子訓練に比べて、メンタリングは一対一で行われるものであり、あくまで対等の関係で、両者の同意のもとで行われるものだからです。もちろん両者がそのことをちゃんと理解していないと成り立たないのですが。
繰り返しますが、それでも悪用される可能性はあります。だから私が思うに、「健全性の基準」とは、まず自分自身の中でしっかり確立されていなければなりません。弟子訓練にしろメンタリングにしろカウンセリングにしろ、その他のどんなものにしろ、「こういう状態になったらダメ」みたいな、自分の中の明確な基準がなければ、どんなものも不健全になりえます。
と言いつつ私が「弟子訓練はダメ」と決め付けているのは、それがもうどの教会にであっても致命的に悪く、もはや改善の見込みがない、と考えているからです。これにはもちろん反論もあるでしょうが。
メンターですか。確かに理想は良いものだし、分かります。でも、日本でこれだけ浸透していない言葉だと考えると、実践出来ている教会、キリスト教系の団体がほぼいないと思っています。メンターで成功している教会があったら是非行ってみたいです。
返信削除>呂布さん
「エンドレス弟子訓練」って良いですね!X JapanのEndless Rainを思い出しました!(笑)原曲は確か失恋して、絶望の中にいる心情を歌った内容でしたが。まさに、キリスト教カルト系版のEndless Rainですね。絶望あって希望なし!Fuck!!!!
>Fuckさん
削除エンドレス弟子訓練は、わかる人はわかると思います。
他にもエンドレス霊的戦い、エンドレス過去の罪の断ち切りの祈り…などと色々考えてみました。全て皮肉ですが。
考えてみればおかしいことだらけなのですが…内部にいる者はその矛盾に気付けなかったり、見て見ぬふりだったりするのです。
今は、抜け出せてよかったと思っています。
>呂布さん
削除「エンドレス過去の罪の断ち切りの祈り」が、かなりツボです!(笑)分かります〜(笑)
結局彼らが言っているのは、イエス様の十字架を信じるだけでは、天国にいけないってことなんですよね。そして、おかしいことを見て見ぬふりしている信者は抜け出せない泥沼の束縛の中に居続けるんですよね。
Fuck
Endless Rain 私もわかります笑
削除ちなみに現在キマジメくんで進行中なのは「エンドレス霊の戦い」です笑
弟子訓練とは、信徒が伝道して、洗礼を受けさせて、さらにその信徒が別の人を伝道して•••という信徒による伝道のサイクルをつくるための教育システムです。
返信削除そこで教えることは神学など知識に関することが中心となります。
そのため、教会を大きくすることと、弟子訓練は直接的な関係はありません。
ですから、カルトと批判されている教会で行われている弟子訓練は、本当の弟子訓練ではありません。
牧師たちがいうように、それは本当の弟子訓練ではなく、悪い弟子訓練なのです。
しかし牧師たちの卑劣なところは、自分の教会で実施している弟子訓練がどんなものか、具体的に明らかにしないことです。
信徒教育なのですから、最低限カリキュラムは示すべきと思います。
私たちの教会では、弟子訓練としてこのようなトレーニングがあります。その内容を理解した上で参加たい人は参加してください、とすべきじゃないんでしょうか?
良い弟子訓練はある、と言っているのでしたら、良い弟子訓練を明らかに示してほしいですね。
仰る通りだと思います。弟子訓練のコンセプトは良かったのかもしれませんが、現在行われているものには、そんなコンセプトの影も形もありません。歪められた弟子訓練というか。
削除それで傷ついた方が大勢います。もう「弟子訓練」と聞くだけで拒絶反応を起こす人も少なくないでしょう。だから今後どう改善されるとしても、抜本的に変えられるとしても、もはや「弟子訓練」という言葉は使えないと私は思っています。
弟子訓練のカリキュラムは、マニュアルがあるところはありますが、おそらく提示しようと思ってもできないところが多い気がします。具体的な内容は決まっていませんから。全部その場限りで、良く言えば個別指導・個別対応、というのが現状ではないでしょうか。
>弟子訓練とは、信徒が伝道して、洗礼を受けさせて、さらにその信徒が別の人を伝道して•••という信徒による伝道のサイクルをつくるための教育システムです。
削除なあんだ。こういうのを弟子訓練っていうんだったら、創価学会の折伏大行進も弟子訓練になりますよね。
だって、折伏大行進とはまさしく「学会員が折伏して、ご本尊を受けさせて、さらにその学会員が別の人を折伏して•••という学会員による折伏のサイクル」だったんですから。
結局この折伏大行進は負の遺産となりました。年配の人に聞いてごらんなさい。彼らの若いときが折伏大行進の時代だったのでリアルで知っていますからね。学会員に折伏されそうになって嫌な思いをさんざんした人がごまんといますよ。
弟子訓練もそのうちきっと、新興宗教系プロテスタントの負の遺産になるでしょうね(笑)。
彼らは創価学会が過去にやった過ちを繰り返しているわけです。同じ失敗を二度やる者を、昔から「バカ」というわけですが、新興宗教系プロテスタントはまさしく「バカ」ですよ。
学会のことは全く不勉強なのですが、歴史は繰り返すという感じなのですね。人の発想はどの時代もさほど変わらないというか。
削除牧師たちの卑劣なところは、自分の教会で実施している弟子訓練がどんなものか、具体的に明らかにしないことです. とありますが、ホントにそうなんです。ツラノトレーニングスクールもその授業のDVDやテキスト他者に見せてはいけないんですって!!! いい事なら広めていいはずなのに、なぜかと詰め寄ったら、それを見た人が話しだけが独り歩きするからだって。。。福音だっていい話だって悪い話でなければ独り歩きしたって構わないはずだが。ちなみにそれを見たクリスチャンは異端呼ばわりしてたけど。たぶんきわどいぎりぎりのラインなのかしら。。。
削除>歴史は繰り返すという感じなのですね。人の発想はどの時代もさほど変わらないというか。
削除「歴史は繰り返す」というよりも、「新興宗教系プロテスタントは、反知性主義の伝統があるからか、歴史に学ばないし、過去の失敗からも学ばない」といったほうが正しいんじゃないですかね。
テキストを他者に見せてはいけないというのは、もしかしたら著作権の問題かもしれませんね。でも概要くらい開示してくれないと、なんとも判断できませんから、困ってしまいますよね。それだけ内容に自信がなかったのでしょうか・・・。
削除