心の病があっても、教会に行って良いのでしょうか?
答えは当然イエスだ、と言う人がどれくらいいるでしょう。そしてイエスと言う人たちはクリスチャンでしょうか。教会関係者でしょうか。あるいは未信者の方々が、「教会ってそういうところでしょ?」というイメージから、そう言うのでしょうか。
あるいは逆に、ノーと言う人がいるかもしれません。そう言うのはどういう人でしょうか。
今回はその問いに答えるべく、まずChristiany Today Pastors(CT Pastors)の以下の記事を紹介します。
Is your church healthy for people with Mental Illness?(CT Pastors)
(あなたの教会は心の病がある人々にとって健全ですか?)
筆者はマイケル・R・ライルズ医学博士。博士のもとには、心の病を「教会に知られたくない」と葛藤する信徒がひっきりなしに来るそうです。彼らの多くは、心の病を教会に知られることで拒絶されたり断罪されたりするのではないか、と恐れているようです。
今回はその問いに答えるべく、まずChristiany Today Pastors(CT Pastors)の以下の記事を紹介します。
Is your church healthy for people with Mental Illness?(CT Pastors)
(あなたの教会は心の病がある人々にとって健全ですか?)
筆者はマイケル・R・ライルズ医学博士。博士のもとには、心の病を「教会に知られたくない」と葛藤する信徒がひっきりなしに来るそうです。彼らの多くは、心の病を教会に知られることで拒絶されたり断罪されたりするのではないか、と恐れているようです。
では冒頭部分を翻訳して紹介します。
―――――以下翻訳―――――
地域教会のメンバーである患者に、私がいつも尋ねることがあります。彼らの(心の病からくる)葛藤について、牧師やセルグループのリーダーやメンターに打ち明けたことがありますか、と。何人かは「そんなことしたくない」と答えました。双極性障害を持つある女性は、教会で精神的に傷つけられたと言います。「(教会での)霊的な欠落は、私の精神的な欠落に関係していると思います」彼女は続けます。
「私は教会で孤独でした。だから友達を作ろうと思って、信徒の人たちを夕食に招待しました。でも彼らは私の双極性障害を知ると、それは罪だと説教し、癒されるか無視するかだ、と言いました。私は病気をないもののようにするのは嫌でした。真の友情とコミュニティを求めていました。説教でなくて。私がほしかったのは、私を人間扱いしてくれる友人、ハグ・・・、そして多分、新しい治療法を試してくれる誰かだったのです」
信仰を持つ人々は、彼らの心の病を打ち明けることに対して、必要以上に恥じ、また必要以上に罪責感を持っています。
―――――以上翻訳―――――
さて、教会で心の病を「打ち明けたくない」と思う人が少なくないようです。何故でしょうか。拒絶され、断罪され、説教されるかもしれない、と思うからです。そして(ある教会では特に)その可能性が高いからです。
アメリカの原理主義的教会には、「LGBTは地獄へ堕ちろ」みたいなことを平気で言うところがあるようです。そういう教会でLGBTの方々がカミングアウトすると思いますか。しないですよね。それと似ているかもしれません。ちょっと極端な例ですが。
私が知っているいくつかの教会を思い浮かべてみましょう。心の病のある方々が来たとして、積極的に(そして継続的に)関わろうとする教会はほとんどないように思います。さすがに断罪まではしないでしょうが、距離を取り、腫れ物のように扱うのが想像できます。「どう扱ったら良いかわからない」という事情もあるでしょう。
―――――以下翻訳―――――
地域教会のメンバーである患者に、私がいつも尋ねることがあります。彼らの(心の病からくる)葛藤について、牧師やセルグループのリーダーやメンターに打ち明けたことがありますか、と。何人かは「そんなことしたくない」と答えました。双極性障害を持つある女性は、教会で精神的に傷つけられたと言います。「(教会での)霊的な欠落は、私の精神的な欠落に関係していると思います」彼女は続けます。
「私は教会で孤独でした。だから友達を作ろうと思って、信徒の人たちを夕食に招待しました。でも彼らは私の双極性障害を知ると、それは罪だと説教し、癒されるか無視するかだ、と言いました。私は病気をないもののようにするのは嫌でした。真の友情とコミュニティを求めていました。説教でなくて。私がほしかったのは、私を人間扱いしてくれる友人、ハグ・・・、そして多分、新しい治療法を試してくれる誰かだったのです」
信仰を持つ人々は、彼らの心の病を打ち明けることに対して、必要以上に恥じ、また必要以上に罪責感を持っています。
―――――以上翻訳―――――
さて、教会で心の病を「打ち明けたくない」と思う人が少なくないようです。何故でしょうか。拒絶され、断罪され、説教されるかもしれない、と思うからです。そして(ある教会では特に)その可能性が高いからです。
アメリカの原理主義的教会には、「LGBTは地獄へ堕ちろ」みたいなことを平気で言うところがあるようです。そういう教会でLGBTの方々がカミングアウトすると思いますか。しないですよね。それと似ているかもしれません。ちょっと極端な例ですが。
私が知っているいくつかの教会を思い浮かべてみましょう。心の病のある方々が来たとして、積極的に(そして継続的に)関わろうとする教会はほとんどないように思います。さすがに断罪まではしないでしょうが、距離を取り、腫れ物のように扱うのが想像できます。「どう扱ったら良いかわからない」という事情もあるでしょう。
中には信徒が個人的に理解を示し、積極的に接してくれるケースがあるかもしれません。その人が橋渡し役になってくれて、心の病のある人も教会に順応していけるかもしれません。でもそれは教会の体制としてそうなのではありません。たまたまです。だから初めからそういうことを期待して行ったら、少なくとも私が知っている教会群では、失望することになると思います。
皆さんの教会は、どうでしょうか。
ただ心の病と言っても、傍目にそれとわかる場合もあれば、なかなかわからない場合もあります。周期的に良くなったり悪くなったりすることもあります。だから対応の難しさはそれぞれです。一括りにはできません。
いずれにせよ、昨今のプロテスタント教会の多くは、心の病のある人々を受け入れる準備ができているとは言い難いと思います。そこまで手が回らない、というのが実情ではないでしょうか。
いずれにせよ、昨今のプロテスタント教会の多くは、心の病のある人々を受け入れる準備ができているとは言い難いと思います。そこまで手が回らない、というのが実情ではないでしょうか。
また心の病だけでなく、身体障害やその他の様々な障害、様々な(通常とは異なる)状態の人々を受け入れる準備も不足しているように思います。たとえば車椅子の方や要介護状態の高齢者のために、バリアフリーが施されている教会がどれくらいあるでしょう。あるにはありますが、多くはありません。
大きな教会は別かもしれませんが、おそらく多くの教会は、来会者として健常者だけを想定していると思います。ここで言う健常者とは、とりあえず自分の足で歩けて、常識的な行動ができる、という意味です。そういう人たちだけを歓迎する雰囲気がないでしょうか。「いろいろな人がいていい」と言いながら、あらかじめ「来ていい人」を決めていないでしょうか。
さて、もう一度問いかけてみましょう。
―――――以下翻訳―――――
教会は『クリスチャン消防団』になる必要があります。心の病のゆえ炎上し、誰も近づけなくなっている人々のもとへ、私たちが走っていくのです。そして彼らの必要を知り、安全な環境を整え、耳を傾けるのです。彼らは兄弟姉妹なのですから。そして真理の三角形(神の愛に基づく希望、適切な科学的アプローチ、聖書の言葉の真実さ)をもって、彼らに仕えるのです。
さて、もう一度問いかけてみましょう。
心の病があっても、教会に行って良いのですか?
・教会側の準備
同記事の最後に、心の病のある人々を受け入れようとする教会が答えるべき、8つの質問があります。これは心の病のある人々が、教会に尋ねたい事柄でもあります。翻訳して以下に掲載します。
1.正直に話しても、私の安全は保障されますか?
2.私を拒絶したり、非難したりしませんか?
3.私の話を、ちゃんと最後まで聞いてくれますか?
4.私に説教するだけではありませんか?(説教なしに話し合うことができますか?)
5.私と一緒に、痛みを通ってくれる人がいますか?
6.私を見捨てないでくれますか?
7.私は希望を持てますか?
8.イエス様は私のこの状況と、どういう関係があるのですか?
以上の質問に明確にイエスと答えられる教会が、どれくらいあるでしょう。日本ではマンパワーの不足が深刻になっている教会が多いので、なかなか難しいとは思いますが。
もう一つの難しい点が、心の病の専門性です。「祈れば治る」みたいなことを簡単に言う牧師がいますけれど、精神疾患について理解しているとは言い難いです。あるいは善かれと思って余計な介入をしてしまい、症状を悪化させてしまう人もいます。心の病に介入するには専門的なアプローチが必要なのです。
教会はそういう治療的介入をするのでなく、あくまで支持的態度で接するべきだと私は思います。つまりその人を無条件に受け入れること、非難したり断罪したり拒絶したりしないこと、誰か適当な人が継続的に関わること、難しそうだったら医療機関に繋げること、などで彼らを支えるのです。
・教会側の準備
同記事の最後に、心の病のある人々を受け入れようとする教会が答えるべき、8つの質問があります。これは心の病のある人々が、教会に尋ねたい事柄でもあります。翻訳して以下に掲載します。
1.正直に話しても、私の安全は保障されますか?
2.私を拒絶したり、非難したりしませんか?
3.私の話を、ちゃんと最後まで聞いてくれますか?
4.私に説教するだけではありませんか?(説教なしに話し合うことができますか?)
5.私と一緒に、痛みを通ってくれる人がいますか?
6.私を見捨てないでくれますか?
7.私は希望を持てますか?
8.イエス様は私のこの状況と、どういう関係があるのですか?
以上の質問に明確にイエスと答えられる教会が、どれくらいあるでしょう。日本ではマンパワーの不足が深刻になっている教会が多いので、なかなか難しいとは思いますが。
もう一つの難しい点が、心の病の専門性です。「祈れば治る」みたいなことを簡単に言う牧師がいますけれど、精神疾患について理解しているとは言い難いです。あるいは善かれと思って余計な介入をしてしまい、症状を悪化させてしまう人もいます。心の病に介入するには専門的なアプローチが必要なのです。
教会はそういう治療的介入をするのでなく、あくまで支持的態度で接するべきだと私は思います。つまりその人を無条件に受け入れること、非難したり断罪したり拒絶したりしないこと、誰か適当な人が継続的に関わること、難しそうだったら医療機関に繋げること、などで彼らを支えるのです。
以下のリストも参考にしてみて下さい。心の病をキリスト教的にどう捉えるべきか、私なりに考えてみました。
・心の病は、罪ではありません(あるいは、罪の結果ではありません)。
・心の病は、「祈れば癒される」と断言できるものではありません。
・心の病のある人は、当然ながら人間であり、尊厳を持っています。
・心の病による症状は、多くの場合制御不能です。本人のせいではありません。
・心の病そのものは、キリストとの関係を妨げるものではありません。
・「クリスチャン消防団」
最後に、同記事の結論部分を翻訳して紹介します。
・心の病は、罪ではありません(あるいは、罪の結果ではありません)。
・心の病は、「祈れば癒される」と断言できるものではありません。
・心の病のある人は、当然ながら人間であり、尊厳を持っています。
・心の病による症状は、多くの場合制御不能です。本人のせいではありません。
・心の病そのものは、キリストとの関係を妨げるものではありません。
・「クリスチャン消防団」
最後に、同記事の結論部分を翻訳して紹介します。
―――――以下翻訳―――――
教会は『クリスチャン消防団』になる必要があります。心の病のゆえ炎上し、誰も近づけなくなっている人々のもとへ、私たちが走っていくのです。そして彼らの必要を知り、安全な環境を整え、耳を傾けるのです。彼らは兄弟姉妹なのですから。そして真理の三角形(神の愛に基づく希望、適切な科学的アプローチ、聖書の言葉の真実さ)をもって、彼らに仕えるのです。
―――――以上翻訳―――――
ライルズ博士は、教会は心の病のある人々に積極的に関わっていくべき存在だ、と言っています。アメリカと日本ではいろいろ事情が違うでしょうが、本来そうあるべきだと私も思います。
「どなたでも歓迎です」という看板を掲げる教会はたくさんありますが、それが実質の伴った、文字通り誰が来ても適切に受け入れられ、安心が提供されるようなものであることを、願ってやみません。
行ってもよいが、そこで牧師に期待するのはやめましょう。クリスチャン姉妹あるいは兄弟に期待するのもよしておきましょう。神様や聖書に触れてみるのはいいですが、人間に期待するとやがては失望するでしょう。あなたを理解してくれるのは何もクリスチャンばかりではないはず。もし、たまたまクリスチャンで素晴らしい人にめぐりあえたのなら、それでよしとして、クリスチャンだから皆 親切と思っては危険でしょう。教会の讃美歌に触れ、神様に委ねる平安があなたのプラスになれば程度に留めておくのもよいかと思います。
返信削除教会と言ってもピンキリなのですが、初めて行く人にはそういうことはわからないでしょうから、いろいろ期待してしまうのかもしれません。
削除オーソドックスな教会は、新来者が来てもわりと放置することが多いと思います。でもカルトっぽい教会は新来者を異様に歓迎してチヤホヤする(いわゆるラブシャワー)傾向があります。だから前者より後者の方が「良い」と思ってしまいやすく、結果騙される、という構図があると思いますね。
いずれにせよ「人間の組織」にさほど期待してはいけないと思うのですが、「神様がいるから」「互いに愛し合えるから」ということで特別視してしまう向きがあると思いますね。
心の病に限らず「病気」に対応するには、専門性が必要です。
削除キリスト教会が、心の病に対して専門性があるかと言われると、牧師になるのに精神保健福祉士などの専門資格が必須なわけではないですから、専門性はないと言わざるをえません。
むしろなんでキリスト教会が心の病に対応できると考えるのか、の方が不思議です。
私はそちら側の意見を聞きたいです。
>むしろなんでキリスト教会が心の病に対応できると考えるのか、の方が不思議です。
削除ここは「キリスト教」ではなく、「宗教全般」といった方がいいと思います。仏教でもイスラムでも神道でも、心の病に対して常に適切な対応ができるわけではないのですから。
ラブシャワーとかちやほやとか、心の病を持っている人には特に危険かもしれません。むしろ放置プレイのほうが「ここは私が来るべき場所ではない」と早い段階で病人のほうで判断するのでいいと思います。
本当にその宗教団体に誠実さがあるのであれば、「宗教は病院ではないので、心の病を持っている人には合わないことが多い」と正直にいい、「宗教は心の病気が治ってから来てください」といえるでしょう。
おっしゃる通り、教会で専門的な介入をするのは現実的ではありません。またその必要もないと思います。専門的な介入は医療機関等ですべきだからです。
削除そうでなく、教会はコミュニティとして、仲間として存在するべきではないかな、と私は思います。記事中の表現を使えば、「支持的態度で接する」ということです。心の病のある方々に「キリスト教の何たるかを教えてやろう」とか「クリスチャンらしく振る舞えるように矯正してやろう」とかするのでなく、単に友達になろうとするだけです。友達として付き合うのに、専門性は要りません(それでも最低限の知識は必要でしょうけれど)。
と、私は思うのですが、単純すぎるでしょうか。単純すぎたらごめんなさい。
私は福祉職の人間ですが、教会にはコミュニティとしての機能だったらアリかなと思います。
削除それでも、心の病を抱えた人を受け入れるのでしたら、「支持的態度で接する」などある程度の専門知識が必要になると思います。
ただし、「治療はしない」となると問題になるのが、そこの人たちが「キリスト教では心を病は治せない」ことを認められるか、ですね。
そこから、「キリスト教は万能ではない」ことも認め、最終的には「キリスト教の神は万能ではない」まで認めざるをえなくなります。
私からすると、そんなの当たり前のことなのですが、信者の方にそれができるのか?
聞いてみたいです。
「キリスト教は万能ではない」ということは、たぶん本人たちもわかっているのでしょうね。そしてオーソドックスな教会は、それを当然のこととすると思います。問題は聖霊派系のイケイケな教会で、たぶん絶対に認めないと思います(苦笑
削除>オーソドックスな教会
削除プロテスタントなら、聖公会・ルーテル・日本基督教といったWCC加盟教団で大学・病院経営をしている教会でいいでしょうか?JEAは、微妙な立ち位置におもえるのですが?
私の妹は、以前プロテスタントを一つの教団だと誤解してました。
世間の理解なんて、そんなものです。
入ってビックリの世界ですね。
Netの時代になって検索で「行ってはいけない教会」とか入力すると出てくる便利な時代になりましたが、誤解して入ってしまった人は多いでしょう。
>プロテスタントなら、聖公会・ルーテル・日本基督教といったWCC加盟教団で大学・病院経営をしている教会でいいでしょうか?
削除まあだいたいそういう分類になるでしょうか。
JEAは新興宗教系プロテスタントの団体ということで、オーソドックスとはいいません。現実に「あそこには絶対に近づくな」といわれているところに、JEA加盟の教会がわんさかあるのです。
WCCとは一切関係ない教会は、病院を19世紀に設立というより、現在進行形で精神病院の患者を製造しているといったほうが正しいと思います。
プロテスタントを一つの教団だと誤解する、というのはあると思いますね。最初はよくわかりませんから。でも実際は無数の教派があると言っていいくらい、多様化が進んでいるのが現状ですね。同じ聖霊派でも全然趣きの違う教会がありますから。
削除ルーテルでしたら何か所か行ったことがありますが、どこも似たような雰囲気でしたね。プロテスタントではありませんがカトリックも、どこも同じ式次第(?)を使って、同じような進行をしていますね。それだけ安定しているというか、安心して行ける教派なのだと思います。
あと、確かに新興系のプロテスタント教会では、精神疾患を悪化させてしまうケースが少なからずあります。あんまり体験主義的、行動主義的な教会で、忙しかったりストレスフルだったりするのは感心しません。
私はまさに断罪されたクチです・・・
返信削除教会には嫌悪感しかありませんがキリストは信じられます
冬に出版される新しい聖書はとりあえず買って通読するつもりです。
教会に行かないクリスチャンはサタンの手下だと奴らは言いますが
言わせておこうと思います
もう知りません
日本の教会は終了です
コメントありがとうございます。
削除教会に対する嫌悪感、お察しします。
「教会に行かないクリスチャンはサタンの手下だ」などと言う教会は、教会として失格だと私は思います。だから放っておきましょう。どちらかと言うと彼らの方が「サタンの手下」に近いです。彼らはそんなこと絶対認めないでしょうが。
心の病がある人にとって、宗教はしばしば病気を悪化させるので、行かない方がいいと思います。それがたとえ東大寺のような伝統的な宗教であったとしてもです。
返信削除化粧品は健康な皮膚につけるものであって、値段が高くて医薬部外品の化粧品であったとしても、皮膚のトラブルを解決するものではありません。宗教もそれと同じで、基本的には健康な心に使用するものであって、病気の心に宗教は病気にとって多大な負担になるので、宗教に行くなら、その前にまず心の病を治してから行くべきであるといいたいです。
心の病がある人が宗教に行くときは、まず医者が「宗教もまあいいでしょう」と許可を出したときだけです。医者と相談もせずに許可なくいくことは絶対にしてはいけません。
ちなみに心の病のある人が新興宗教系プロテスタントに行って、「薬に頼るのは不信心」とか「あなたは神によって癒された」といわれ、勝手に薬をやめてしまうことがあります。これが一番恐ろしい結果を生みます。新興宗教系プロテスタントと心の病がある人の組み合わせは、しばしば殺人や自殺といった死亡事件に発展することがあります。
宗教がかえって負担になる、というのはあると思いますね。ある程度元気でないと宗教って正直しんどいです。キリストは「あなたがたを休ませてあげます」と言っていますが、実際教会に行くと、忙しくなることが多いです。もちろんそうでない教会もあるかもしれませんが、あまり聞きませんね。
削除「ものすごく休ませてくれる教会」をご存知の方がいましたら、ぜひ教えて下さい(マジです)。
教会から、牧師の罵声が聞こえてきてビックリしたことがあります。
削除あとで訊くと。
教会に、心の病を持った人が来会して協会員に「俺はキリストの生まれ変わりだ」と噛みついて大騒ぎになったそうです。
牧師先生がアジア系外国人で、言うべきことはハッキリ言う性格の方だったので、諌める言動が罵声に聞こえたみたいです。
その日は遅れて教会に行ったので罵声だけが聞こえてきて状況が分からずに面喰いました。
教会は、「誰にでも開かれてる」というお題目は、良くないですね。
信仰の場、宗教施設ですからマナーを守れない人はハッキリ「排除」すべきです。
日本人は、その辺に甘いです。
先生は日本語ペラペラなんですが、メンタリティーはヤッパリ外国人だなぁと思いました。
もちろん、いい意味でです。
アジア系外国人ですか。。。。
削除そういえば某アジア系外国では多いですよね。「俺はキリストの生まれ変わりだ」と主張する電波系基地外の教祖様が。
文鮮明もそうですが、韓国には自分を「キリストの生まれ変わり」と主張する電波系基地外が、文鮮明に続けとばかり、自分を教祖とした新興宗教をじゃんじゃん創業し、皆さんご存知の赤い十字架だらけになっていますよ。
教会はできることとできないことをハッキリした方がいいでしょうね。でないと変に期待してしまうこともあると思います。たとえば病気の方が「癒されるのではないか」と思って来た場合、「きっと癒されます」とか断言してしまうと、あとから問題になるでしょうね。
削除教会が「誰が来ても適切に受け入れられ、安心が提供されるような場所」となるために、祈り、学び続けたいと思います。
返信削除教会の牧師や教会員の不適切な態度や言葉のせいで、悲しい思いをしてしまった方々の傷が癒されますように。教会に来なくても、もちろんクリスチャンとして生きていくことはできると私は思いますが、できれば同じ主につながる私たちが、ともに交わり、励まし合いながらこの地上での旅路を歩んでいくことが出来たらよいですものね。
示唆に富む記事を掲載してくださって感謝します。
コメントありがとうございます。
削除教会で頑張っておられる方とお見受けします。
教会が良いコミュニテイとなることを、私も心から願っています。具体的にどうしたら良いかはわかりませんけれど。
まずは、牧師も教会員も、誰よりも自分自身がbrokenな存在なのであり、神の恵みなしには一歩たりともみこころにかなった歩みなどできないのだという現実を徹底して認識すること。健全な教会として歩むためにはここからスタートしなければなりません。
削除あと、辛く苦しい状況に立たされやっとの思いで教会の門をくぐってくださった方がいたら、すぐに「教会につなげよう」とするのではなく、その人自身にとって今何が一番必要なのかを一緒になって考え、寄り添うことでしょうか。言うは易し行うは難しです。でも、祈りつつ、学びつつ、けっして諦めることなく、少しでもみこころにかなった教会の在り方を探っていきたいと思うのです。
そういうことを教会の一人一人が心がけていくならば、教会のは変わっていくでしょうね。
削除教会で、精神、身体であれ障がいがある人に受け入れられるキャパはないと感じている。以前行っていた教会では車いすを置いていたが、いつの間にか倉庫に投げ入れられていた。精神疾患の方にはカウンセリングといいつつ「何か、偶像崇拝や地域の祭儀に関わりはなかったかそういうのも病気のもとなどと牧師が聞いていた。」愛をもって対応することじゃなく責めて裁いて、断ち切りの祈りを迫れていた。
返信削除安心して障がいがある人も神を賛美できるところは少ないのではないか。
「断ち切りの祈り」を強制されたらたまりませんね。安心どころかストレスにしかならない気がします。なんでそういうことを平気で言えるのか、まったく理解できませんね。
削除経験から言うと、精神疾患がある方の教会通いは辞めた方が良いかなと思います。教会と言うより宗教ですかね…。病院に通いながら、自分の心の拠り所として宗教に頼るのは良いと思うのですが、重い精神疾患がある方は自分自身をコントロール出来ないですからね…。私は精神疾患を抱えていますが、病院に通い、年齢を重ね、今では大分落ち着きを取り戻しました。そして今の自分の視点から言いますと、出会ってきた教会関係者の方の視野の狭さ、経験の薄さから、精神疾患の方にあれこれと言える様な方は少ないと思います。信徒に隠して精神科に通ってる牧師さんも結構いますからね。自分の意思で教会に通いたいなら、まずは病院に通う事を本当に進めたいです。「貴方の為に祈ってます。」と言う言葉は、有り難いですがそれ以上は何もしてくれません。
返信削除「貴方のために祈っています」はクリスチャンの慣用句のようなものですね。挨拶代わりみたいな。全くの嘘ではないと思いますが。「祈っています」というセリフはどうも軽薄な感じがするので、私個人は使いません。
削除【お知らせ】
返信削除コメント欄の仕様についてお問い合わせいただきました。
お答えしますと、当コメント欄はgoogle bloggerのデフォルトのサービスを使用しています。当サービスですと、「匿名」によるコメントは、第三者からも管理者からも、判別できないようになっています。ですので匿名コメントのどれが同一人物によるもので、どれが別人によるものかは、現段階の仕様ではわかりかねます。申し訳ありません。
以上、お問い合わせに対する回答でした。
はじめまして、うつ病・ADHHD当事者で、カトリック教会の信徒です。
返信削除ずっとこのblogを読んでましたが、思うところありまして・・・
精神疾患には「完治」というものがないので、「治してから来る」は、厳密には不可能だったりします。
また、精神疾患による内面の変化はものすごく大きく、今まで信仰に興味や関心を持たなかった人が、神様を求める大きなきっかけになるのは事実です。
治療をきちんと行っている人はいいですが、明らかに治療が不十分でない人にどう接するのは、難しいところだと思います。
後者の人に「まず病院に行って治療を」というのは正しいですが、前者の人を排除するのは問題だと思いますし、神様を求める人すべてを受け入れる教会であってほしいです。
あと、これは他の病気にも言えますが、現代医学による標準的な医療を、否定的に捉える教会では、あって欲しくないです。
標準的な医療を受けつつ、精神的・霊的な支えとして教会に通い、その中で徐々に受け入れられてもらえればいいなと。
ちなみに、私の所属する教区には「精神障害を持つ信徒のための集い」があるような、比較的理解されやすい土壌でしたし、カトリック特有の(?)人間関係のあっさりさゆえか、特に問題になることはありませんでした。
ただ、中にはミサでの行動や、分かち合いの場での言動などによって、私に限らず冷たい視線を浴びることがあったのも事実です。
こればかりは、教会関係なく相性や考え方の問題なので、難しいですよね。
ミカエラさん、コメントありがとうございます。
削除全く仰る通りだと思います。精神疾患は多くの場合「完治」でなく、「寛解と悪化」を繰り返す性質のものですね。それが治療によって適切にコントロールされているか、されていないか、も重要な点になると思います。だから教会に通うのは結構リスキーなことではないかな、というのが私の正直なところです。
「精神障害を持つ信徒のための集い」があるのですね。それは画期的な活動だと思います。さすがカトリックと言ったところですね。教会内で精神疾患についての共通理解が広まることは、本当に大切なことだと思います。
カトリック教会の信者ですが、教会にも大小があり、地域性もあり、いろいろあるというのが実態ですね。人間関係も一般的にゆるいものがあり、ええかげんといいますか、密になろうとすれば密になれるし、望まなけば、ほっておいてくれますね。ミサに関しても、外国人が増えている実態や、高年齢者には痴呆状態がみられる方など、言動にもいろいろあるというのが実態ですね。講座や集まりなどを見ても、実に多様な方がおられ好きなことを言っていますね。神父さんも有能な方からそれほどでもない方までおられるのがよくわかりますし、いろいろあるのが良さだと思っていますね。精神疾患がある方、精神病者、刑務所から出所してきた方などもミサなどに来られているので、気にする方もおれば、気にしない方もいるのが実態ですね。いろいろあるのが良いのでないでしょうか。
返信削除現状では、プロテスタント教会よりカトリック教会の方が、「誰でも歓迎です」という文言にふさわしいかもしれませんね。私は時々四ツ谷のイグナチオ教会に行くのですが、確かにいろいろな方がいらっしゃいます。ゆるく受け入れてくれる感じがいいですね。個人的には完全に放置してくれるのも心地いいです。
削除その点プロテスタント教会は「誰でも歓迎でない」ようになってしまっている所があります。もちろん人手不足など、事情はそれぞれあるのでしょうが。