【翻訳】心の病があっても教会に行って良いのですか?

2017年10月26日木曜日

教会の「健康」 翻訳

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・心の病と教会

 心の病があっても、教会に行って良いのでしょうか?

 答えは当然イエスだ、と言う人がどれくらいいるでしょう。そしてイエスと言う人たちはクリスチャンでしょうか。教会関係者でしょうか。あるいは未信者の方々が、「教会ってそういうところでしょ?」というイメージから、そう言うのでしょうか。
 あるいは逆に、ノーと言う人がいるかもしれません。そう言うのはどういう人でしょうか。

 今回はその問いに答えるべく、まずChristiany Today Pastors(CT Pastors)の以下の記事を紹介します。

Is your church healthy for people with Mental Illness?(CT Pastors)
(あなたの教会は心の病がある人々にとって健全ですか?)

 筆者はマイケル・R・ライルズ医学博士。博士のもとには、心の病を「教会に知られたくない」と葛藤する信徒がひっきりなしに来るそうです。彼らの多くは、心の病を教会に知られることで拒絶されたり断罪されたりするのではないか、と恐れているようです。
 では冒頭部分を翻訳して紹介します。

―――――以下翻訳―――――

 地域教会のメンバーである患者に、私がいつも尋ねることがあります。彼らの(心の病からくる)葛藤について、牧師やセルグループのリーダーやメンターに打ち明けたことがありますか、と。何人かは「そんなことしたくない」と答えました。双極性障害を持つある女性は、教会で精神的に傷つけられたと言います。「(教会での)霊的な欠落は、私の精神的な欠落に関係していると思います」彼女は続けます。
「私は教会で孤独でした。だから友達を作ろうと思って、信徒の人たちを夕食に招待しました。でも彼らは私の双極性障害を知ると、それは罪だと説教し、癒されるか無視するかだ、と言いました。私は病気をないもののようにするのは嫌でした。真の友情とコミュニティを求めていました。説教でなくて。私がほしかったのは、私を人間扱いしてくれる友人、ハグ・・・、そして多分、新しい治療法を試してくれる誰かだったのです」
 信仰を持つ人々は、彼らの心の病を打ち明けることに対して、必要以上に恥じ、また必要以上に罪責感を持っています。

―――――以上翻訳―――――

 さて、教会で心の病を「打ち明けたくない」と思う人が少なくないようです。何故でしょうか。拒絶され、断罪され、説教されるかもしれない、と思うからです。そして(ある教会では特に)その可能性が高いからです。
 アメリカの原理主義的教会には、「LGBTは地獄へ堕ちろ」みたいなことを平気で言うところがあるようです。そういう教会でLGBTの方々がカミングアウトすると思いますか。しないですよね。それと似ているかもしれません。ちょっと極端な例ですが。

 私が知っているいくつかの教会を思い浮かべてみましょう。心の病のある方々が来たとして、積極的に(そして継続的に)関わろうとする教会はほとんどないように思います。さすがに断罪まではしないでしょうが、距離を取り、腫れ物のように扱うのが想像できます。「どう扱ったら良いかわからない」という事情もあるでしょう。
 中には信徒が個人的に理解を示し、積極的に接してくれるケースがあるかもしれません。その人が橋渡し役になってくれて、心の病のある人も教会に順応していけるかもしれません。でもそれは教会の体制としてそうなのではありません。たまたまです。だから初めからそういうことを期待して行ったら、少なくとも私が知っている教会群では、失望することになると思います。

 皆さんの教会は、どうでしょうか。

 ただ心の病と言っても、傍目にそれとわかる場合もあれば、なかなかわからない場合もあります。周期的に良くなったり悪くなったりすることもあります。だから対応の難しさはそれぞれです。一括りにはできません。

 いずれにせよ、昨今のプロテスタント教会の多くは、心の病のある人々を受け入れる準備ができているとは言い難いと思います。そこまで手が回らない、というのが実情ではないでしょうか。
 また心の病だけでなく、身体障害やその他の様々な障害、様々な(通常とは異なる)状態の人々を受け入れる準備も不足しているように思います。たとえば車椅子の方や要介護状態の高齢者のために、バリアフリーが施されている教会がどれくらいあるでしょう。あるにはありますが、多くはありません。
 大きな教会は別かもしれませんが、おそらく多くの教会は、来会者として健常者だけを想定していると思います。ここで言う健常者とは、とりあえず自分の足で歩けて、常識的な行動ができる、という意味です。そういう人たちだけを歓迎する雰囲気がないでしょうか。「いろいろな人がいていい」と言いながら、あらかじめ「来ていい人」を決めていないでしょうか。

 さて、もう一度問いかけてみましょう。
 心の病があっても、教会に行って良いのですか?

・教会側の準備

 同記事の最後に、心の病のある人々を受け入れようとする教会が答えるべき、8つの質問があります。これは心の病のある人々が、教会に尋ねたい事柄でもあります。翻訳して以下に掲載します。

1.正直に話しても、私の安全は保障されますか?
2.私を拒絶したり、非難したりしませんか?
3.私の話を、ちゃんと最後まで聞いてくれますか?
4.私に説教するだけではありませんか?(説教なしに話し合うことができますか?)
5.私と一緒に、痛みを通ってくれる人がいますか?
6.私を見捨てないでくれますか?
7.私は希望を持てますか?
8.イエス様は私のこの状況と、どういう関係があるのですか?

 以上の質問に明確にイエスと答えられる教会が、どれくらいあるでしょう。日本ではマンパワーの不足が深刻になっている教会が多いので、なかなか難しいとは思いますが。

 もう一つの難しい点が、心の病の専門性です。「祈れば治る」みたいなことを簡単に言う牧師がいますけれど、精神疾患について理解しているとは言い難いです。あるいは善かれと思って余計な介入をしてしまい、症状を悪化させてしまう人もいます。心の病に介入するには専門的なアプローチが必要なのです。
 教会はそういう治療的介入をするのでなく、あくまで支持的態度で接するべきだと私は思います。つまりその人を無条件に受け入れること、非難したり断罪したり拒絶したりしないこと、誰か適当な人が継続的に関わること、難しそうだったら医療機関に繋げること、などで彼らを支えるのです。
 以下のリストも参考にしてみて下さい。心の病をキリスト教的にどう捉えるべきか、私なりに考えてみました。

・心の病は、罪ではありません(あるいは、罪の結果ではありません)。
・心の病は、「祈れば癒される」と断言できるものではありません。
・心の病のある人は、当然ながら人間であり、尊厳を持っています。
・心の病による症状は、多くの場合制御不能です。本人のせいではありません。
・心の病そのものは、キリストとの関係を妨げるものではありません。

・「クリスチャン消防団」

 最後に、同記事の結論部分を翻訳して紹介します。

―――――以下翻訳―――――

 教会は『クリスチャン消防団』になる必要があります。心の病のゆえ炎上し、誰も近づけなくなっている人々のもとへ、私たちが走っていくのです。そして彼らの必要を知り、安全な環境を整え、耳を傾けるのです。彼らは兄弟姉妹なのですから。そして真理の三角形(神の愛に基づく希望、適切な科学的アプローチ、聖書の言葉の真実さ)をもって、彼らに仕えるのです。

―――――以上翻訳―――――

 ライルズ博士は、教会は心の病のある人々に積極的に関わっていくべき存在だ、と言っています。アメリカと日本ではいろいろ事情が違うでしょうが、本来そうあるべきだと私も思います。
「どなたでも歓迎です」という看板を掲げる教会はたくさんありますが、それが実質の伴った、文字通り誰が来ても適切に受け入れられ、安心が提供されるようなものであることを、願ってやみません。

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