・見えない被害者
さっそくですが、教会に通っている方に質問です(ブルゾンちえみではありません)。
何らかの虐待被害に遭われた方が教会に来られたら、どう対応するでしょうか。どのようなケアをするでしょうか。
祈りますか。話を聞きますか。治療的に関わりますか。あるいは特別なケアなど必要ない、聖霊様が働いて下さるから通常通りに接すればいいんだ、と思うでしょうか。
たぶん多くの人がパッと考えつくのは、書籍やネットで適切なケア方法を調べることだと思います。被害者に言ってはいけない言葉とか、やってはいけないこととか、逆に掛けるべき言葉とか、そういう「接する上での注意点」を知りたいのではないでしょうか。
あるいは、そういう理論的なことはむしろ邪魔で、神様が働かれるままにした方がいいんだ、教会という空間の中で人は癒されていくんだ、みたいに考えるでしょうか。心理療法的なスキルは「この世」のアイディアだから悪いもので、実は何の役にも立たないんだ、と考えるでしょうか。
それはそれでとっても信仰的に聞こえますが、そのやり方で問題が起きたらちゃんと責任を取ってくれるのかどうか、先に確かめておきたいですね。
でも実際、正直なところ、教会で虐待被害者の方と遭遇したことがある人は、どれくらいいるでしょうか。いるにはいると思いますが、そう多くないと思います。なぜでしょう。そういう人々は教会に来ないのでしょうか。
一口に虐待と言っても、その種類や段階は様々です。最近特に問題になっているのは性的虐待、暴行、各種イジメ、パワハラ、セクハラあたりでしょうか。
では、それぞれどれくらい被害者がいるでしょう。統計データを見ればわかるでしょうか。残念ながらわからないと思います。虐待は発覚しないもの、つまり被害者が泣き寝入りするものが圧倒的に多いからです。統計的に認知されているものは、氷山の一角と考えるべきでしょう。
私のまわりにも、どんな種類のものかあえて書きませんが、「結局声を上げられなかった」被害者の方が少なからずいます。本当は声を上げたくて上げたくて、仕方なかったんですが。
虐待の被害者は、見えないところにいます。
では話を戻しましょう。教会には虐待被害者はいないのでしょうか。
教会と言ってもイロイロなので一括りに言えませんが、たぶんいると思います。いないのでなく、見えないだけで。
ちょっと考えてみればわかりますが、被害者の方が自ら率先して「虐待に遭いました」と言うことはほとんどありません。特に教会の中では。中にはオープンに言える人もいるかもしれませんが、多くの人はそうではありません。恥とか、罪責感とか、そういう虐待の記憶からくる負の感情が、口を重くするのです。個人的に打ち明けることはあっても、公にすることはまずありません。
だから極端な話、あなたが普段何気なく接している誰かが、もしかしたら過去に酷い虐待に遭っていて、今も心に傷を抱えているかもしれません。それを閉じ込めて、笑っているだけかもしれません。
虐待被害者のケアにおいて難しいのは、まずこの点だと思います。
すなわち「被害が見えない」という難しさです。
・どう接するべきかの提案
冒頭の質問に戻りますが、教会で虐待被害者の方をケアしようと思ったら、あなたならどうするでしょうか。
参考になりそうな記事がありましたので、ちょっと長いですが、翻訳して紹介したいと思います。
クリスピン・メイフィールド氏の「教会の虐待被害者にどう接するべきか」という記事です。メイフィールド氏は公的資格を持つカウンセラーで、2007年からオレゴン州ポートランドで虐待被害者のために働いている方です。
ではどうぞ。
(以下翻訳)
「教会の虐待経験者にどう接するべきか」(How to Care for Abuse Survivors in Your Congregation)
アレックスは10年前、18歳で家を出てから、教会に一度も行っていません。会社の同僚から教会へ行くよう勧められますが、しつこく断罪されているようで苦痛です。誰か友人が一緒に行ってくれたらいいかも、とは感じましたが。
幼い頃、アレックスは叔父から性的虐待を受けました。そのことを両親に打ち明けても、「良いクリスチャンでありなさい」と叔父を許すよう言われてしまいました。でも叔父に会おうとすると虐待のことが恥ずかしく思い出されるのです。そして結局、関係は断絶したままでした。
いつかの礼拝での説教のことです。牧師がパワーポイントを使って、教会運営や安息日をどう過ごすかで妻とケンカしたことを、熱心に話していました。「でもそれが人生で一番悲惨なことだとしたら、」アレックスは考えます。「彼には僕の苦しみなんて絶対わからないだろう」
説教中、隣に友人がいてくれましたが、アレックスは気分が悪くなりました。誰もかれもが元気そうでした。「ここは自分には場違いだ」「自分はここにいてはいけない」そう思いました。
アレックスのように虐待の後遺症に苦しみ、礼拝参加が困難となっている人々は、大勢います。どんな統計もその実態を正確には捉えていません。国立PTSDセンターは、全人口の7~8%の人々がPTSDを抱えていると見積もっています。けれど、PTSDとはっきり診断されない、でも似たような経験があって「ほとんどトラウマに近い」状態の人々が、大勢います。また育児放棄など、違った形の虐待を受けている人々もいます。
国立犯罪被害者センターの報告によると、5人に1人の少女、20人に1人の少年たちが性的虐待に遭っています。またDVホットラインの調べによると、10人のうち3人の女性(29%)、10人のうち1人の男性(10%)が、パートナーからのレイプ、身体的暴力、ストーカー行為に遭っています。でもそれらの統計は霊的虐待、セクハラ、言葉の暴力など他の種類の虐待については触れていません。
さてこういった状況において、私たちは日々の教会生活の中で、虐待被害者の方々をどんなふうにケアできるでしょうか。彼らが日曜礼拝に来たら、どんなふうに迎えて接することができるでしょうか。その方法をいくつか紹介したいと思います。
まず信頼を得る
アシュレイの母親は自己愛性パーソナリティ障害のため、他者への共感性が欠如していました。だからアシュレイが何か自分のことを話すとき、そこにはいつも「母親によって歪められた自己像」がありました(彼女の場合は「忌々しい娘」という自己像でした)。だから彼女は近しい関係、特に権威的な存在に対して、思っていることを正直に話すことなく育ちました。
「スモールグループで弱さを晒すことが本当に難しかったです」アシュレイは言います。「自分の言葉が曲解されて、攻撃材料にされるのではないかと、いつもビクビクしていました。他のメンバーたちのように、信頼することができなかったのです。だからいつも黙っていました。みんなは私が退屈していると思ったかもしれません。でも確かに、家に閉じこもっている方がマシでした」
アシュレイのケースは、トラウマの強さをよく示しています。
虐待被害者にとって、信頼関係を築くのは時間のかかることです。能書きや立場など関係ありません。プレッシャーをかけたり変な期待をかけたりするのでなく、少しずつ、繊細に、関係を築いていく以外ありません。
これは過去の有害な人間関係を、より健全で安全な形で再体験してもらう、ということでもあります(精神分析医はそれを「修正的感情体験」と呼びます)。このように彼らが信頼感を取り戻していけるように、教会はゆっくり、時間をかけて支援していく必要があります。
スモールグループや祈りの場で、虐待被害者の脆さや弱さを認めましょう。何かを命令するのでなく、集まりに招待して、そこに希望がある(かもしれない)と思ってもらえるようにしましょう。(牧師であるなら)説教において、人間関係そのものが苦痛となってしまう人々がいることを、会衆に説明しましょう。
彼らの目線で世界を捉え、彼らの信頼を保ちましょう。ドアが開けっぱなしでも、あるいはドアのそばに誰かがいても、安全だと思えるように支援しましょう。彼らが帰りたくなったら快く見送ってあげて下さい。もし安全な環境を提供できていないと感じたなら、どうしたら良いか率直に尋ねてみて下さい。たとえば夕方のイベントが終わった後のことを考えてみましょう。女性たちはそれぞれ、車まで送ってくれたら安全だと感じるのではないでしょうか。
また彼らの心配事が、神様との関係性にまで及んでいるのを忘れてはなりません。虐待被害者の自助グループでは、次のような問いがよく聞かれます。
「私にあんなことが起こるのを、どうして神様は許したのですか?」
「私は将来、どうしたら神を信頼することができるのですか?」
彼らがそれらの問いに葛藤し、それでも神への信頼を取り戻していくまで、私たちはただ見守り続けるのです。
傷ついた人々について話す
教会のリーダーであるなら、虐待被害者をケアするため、聖書中の「傷ついた人々」について教会で話すという手があります。
たとえばヤコブは結婚式の翌朝、結婚した相手がラケルでなくレアだったと知って失望しますが、そのとき当のレアはどう感じたでしょうか。バテシェバはダビデ王の寝所に呼ばれた時、拒否することができたでしょうか。父イサクの愛情を受けられなかったエサウの心中は、どうだったでしょうか。
サムエル記下13章の、レイプされたタマルのような、あまり知られていない箇所から説教することも考えてみましょう。スティーブン・トレイシーは彼の著作『魂の回復』の中でこう言っています。
サムエル記下13章の、レイプされたタマルのような、あまり知られていない箇所から説教することも考えてみましょう。スティーブン・トレイシーは彼の著作『魂の回復』の中でこう言っています。
「ダビデ王の家系で起こる事件は、家族内で虐待が起こるプロセスをよく示しています。虐待そのもの、特にレイプのような直接的なものに、光を当てています」
多くの被害者、特に家庭内で虐待を受けた人々は、この古い物語に深く共感するでしょう。そしてそれは彼らを理解するヒントにもなります。
思慮をもって、家族に敬意を表す
なぜなら家族は、神が定めた制度だからです。教会は家族というコンセプトを尊重すべきです。しかし虐待的、機能不全的な家庭環境で育った人にとって、家族の話題は苦痛でしかありません。だから(その話題を避ける必要はありませんが)、家族のことで苦しんできた様々な人がいることを認め、支援できるよう努めなければなりません。
去年の母の日のことです。ユースの牧師が「母親」について短く語ってくれました。それは広く深い母親の愛に、敬意を表すものでした。
虐待被害者を支える最もパワフルなもの、それは(矛盾しているようですが)あなた自身の「弱さ」です。と言っても、あなたの人生についてアレコレ話すことではありません。あなた自身の困難と、それにも関わらず前進しようとするあなた自身の意思を、ありのまま話すことです。
皆が皆、機能不全的な家庭環境で育ったわけではありません。しかし少なからぬ人々が、そうなのです。
家庭内で虐待を経験してきた人は、しばしば泣きながら真実を話してくれます。キリストに従うとは、そのような人と家族との間に立ち、彼らの「道しるべ」となるようなものです。そのような(酷い)状況にあっても家族に敬意を表していけるよう、彼らを注意深く、支援していきましょう。
虐待被害者にとって、「神のご計画」とは困難な代物である
「エレミヤ29章11節が本当に大嫌いです」
苦々しい経験にずっと耐えてきたイサクは言います。「人生は酷いものだらけです。こう聞かずにいられません。『神様、これがあなたの計画ですか?』と」
歴史的にみると、教会は「神の主権」と「人間の自由意思」について様々な議論をしてきました(翻訳者注:全ては神の定めた運命なのか、あるいは人間の側の選択なのか、というような問題です)。今、悲劇的な虐待を前にして、それらはどのような意味を持つのでしょうか。
ある人々はこう考えます。
「神は困難を通して、私を整えようとしておられる」
そう考えることで、慰めを得ようとするのです。
一方でこう信じる人々もいます。
「虐待は完全に人間の意思によって行われる。神の計画などではない」
これは虐待被害者にとって深い、霊的な疑問です。大いに考える余地があります。聖書はこれに似た呟きや、議論や、神との葛藤に満ちています。詩篇や哀歌が特にそうです。
個人の葛藤を、これらの聖書箇所に照らし合わせてみましょう。そして「試練」について学術的な説明をするのでなく、このように話してみましょう。「あなたの人生に神がどのように関わっておられるのか見出そうと、(聖書の人物と同じように)あなたも葛藤しておられるのですね」
そしてその葛藤が(誰にとっても)重大かつ困難なものであることを、伝えて下さい。そうして彼らを支えていきましょう。
虐待(罪)は、本当に深い傷を残していった
現在、多くの社会福祉団体が、虐待被害者のケアに取り組んでいます。その一般的な方法は、(要約すると)被害者へ声を掛けること(どうしましたか?)から始まり、深い傾聴(何があったのですか?)へと至るものです。
神学者のパドレク・トゥアマは、著書『イン・ザ・シェルター』でこう書いています。
「罪について語るなら、私たちが犯す罪だけでなく、私たちは罪深い世界に生きている、ということも語らなければなりません」
つまり虐待被害者の方々は、「神が罪から救って下さる」ということだけでなく、「そもそもこの世界は苦しみに満ちた場所なのだ」ということも知る必要がある、ということです(翻訳者注:一見して危険のないところも実は危険が満ちていて、様々な被害に遭いやすい世界に私たちは生きている、というニュアンスです)。
出エジプト記2章25節は、それでも彼らにとって慰めとなるかもしれません。「神はイスラエルの人々を心に留められた」
神は私たちの罪だけでなく、私たちがどれだけ他者から傷つけられてきたかを見ておられます。そして泣く子を親が抱き寄せるように、私たちのことをケアしたいと願っておられるはずです。
私たちが最も傷つくのは、人間関係によってです。そして私たちが癒されるのもまた、人間関係によってです。教会もまた然りです。もし教会が虐待被害者をケアしていこうと思うなら、相当な時間や労力を傾ける覚悟が必要です。しかしその覚悟を持って行動していくならば、そこは誰もが歓迎される、安全と癒しのコミュニティになっていくことでしょう。
※本稿に掲載された個人的な物語は、プライバシー保護のため、被害者に共通する体験を集めて組み合わせたものです。
(翻訳終わり)
・愛する覚悟
さて翻訳記事によりますと、虐待被害者の方のケアのほとんどは、「時間をかけて信頼関係を築いていく」部分になりそうです。
一部の教会では、とかく「心の傷を癒す」ために集中的に祈ったり、インナーヒーリングを試したり、その他の方法論を試みたりします。でも実際的な効果は上がっていません。なぜでしょうか。心に受けた傷は、基本的に治らないからです。もし治す可能性があるとしたら、それはあった出来事を全部きれいに忘れることです。関連する記憶が完全になくなり、「何もなかった」のなら、傷も存在しないことになりますから。
でも実際には、それは不可能です。
私たちにできることは、翻訳記事にもある通り、時間をかけて信頼関係を築いていくことだと思います。長い時間をかけて、寄り添っていくことです。被害者の方は人間関係の中で傷つき、信頼感を失ってしまったので、やはり人間関係の中でそれが回復されていくのを、待つしかありません。
要は周囲の人間に、あるいは教会に、その覚悟があるかどうか、だと思います。
しかし現状を見てみますと、教会は、健康で大きな問題のない人、トラブルを起こさない人、奉仕ができる人、献金を安定的に払える人にとって居心地のいい場所なのではないでしょうか。逆に接しづらい人、扱いづらい人、トラブルを起こす人などを倦厭する傾向がないでしょうか。
虐待被害者の方がいつもしおらしく泣いてばかりいるなら、「支えてあげよう」と思いやすいでしょう。でも実際はもっと難しいです。心に傷がある人は、その傷が深ければ深いほど、人に対して攻撃的だったり、拒絶的だったり、冷笑的だったり、挑戦的だったりするからです。あえてトラブルを起こすこともあります。もちろん皆が皆ではありませんが。
だから被害者をケアする、というのは綺麗ごとではありません。それは多くの場合、助けを求めてくる人を援助することでなく、何も期待していない人のそばに近寄ろうと努力することです。自ら率先して、(言葉が悪いかもしれませんが)嫌な思いをしに行くことです。
それは、愛し難い人を愛する試み、と言っていいかもしれません。
愛しやすい人を愛するのは、簡単です。それこそ誰にでもできます。けれどその反対は、なかなかできません。だから「覚悟が必要」だと言うわけです。自分自身も傷つく覚悟、長い時間をかける覚悟、それでも結果的に報われないかもしれない覚悟、が必要なのですね。
誤解のないように書いておきますが、その覚悟を強要するつもりはありません。あくまで被害者の方をケアしたいと思うなら、という話です。
まとめると、虐待被害者の方のケアの難しさは、第一に被害が見えないこと、第二に接するのが(多くの場合)難しいこと、となります。もちろん、様々なケースがあるとは思いますが。
さて最後に、また冒頭の質問に戻りましょう。教会に虐待の被害者が来られたら、あなたならどう接するでしょうか。あなたの教会は、どう対応するでしょうか。時間をかけてケアしてくれるでしょうか。
クリスチャンの方には、ぜひ考えていただきたいと思います。
※ここで言う「虐待被害者」は、「過去に被害を受け、今もトラウマに苦しんでいる」状態を想定しています。虐待発生直後、あるいは急性期の場合は、優先的に専門機関の助けを求めるべきで、教会でケアすべきではないと私は思います。
考えさせられる投稿でした。
返信削除私も過去、虐待を受けて育ったので若い頃は精神状態がとても不安定でした。
安心出来る場所を探しているはずなのに、一旦そこに入ると壊してしまいたくなる。周りの人に優しくして貰っているのに、いつも孤独を感じる。大人になって行くのに、心は子供のままで止まったまま。
だからなのか、攻撃的になってしまう人の気持ちもわかります。ギリギリの所で他人に心を許す事が出来ないんですね。
そんな私でも歳を重ねて大分丸くなりましたけれど(笑)
教会で、虐待を受けた方を受け入れる事は、その教会にもよりますがやはり難しいかなと思います。虐待を受けた本人も、受け入れる側も。
それこそ根気が必要かなと。後は教会だけで解決する事はあまり賛成しないですね。
今の日本の教会の現状ですと、虐待に遭われた方のケアは難しいと私も思います。いくつかの教派の教会を見てきましたが、どこもそれだけの余裕がないというか、そもそもそういう発想がないというか・・・。
削除それにおっしゃる通り、被害に遭われた方としても、なかなか教会に行こうという発想にはならないと思います。教会だけで解決するというのも、現実的ではありませんね。
メビウスさんの体験をシェアして下さり、ありがとうございます。「安心できる場所を見つけても壊してしまいたくなる」というのはまさにその通りだと思います。私の知人にも、たぶん虐待経験があるだろうなと思わせる人がいるのですが、やはり付き合うのが難しかったです。記事にもある通り、時間と根気が必要ですね。
もっとも虐待経験の有無にかかわらず、人間関係は時間をかけるべきものだと思うのですが。
今の教会では、虐待被害者の方々のケアは難しいです。信徒はそこまでの覚悟はないですし、ノウハウもありません。私自身その立場になったらうまくいく気が全くありません。
返信削除しかし、ある牧師たちは自分たちのカウンセリングに自信を持ちすぎています。聖霊に聞きながら行うカウンセリングなら大丈夫!といった具合いで根拠のない自信です。こういったカウンセラー(自称)は平気な顔してとりなし手?たちに内容を言いふらしてしまいます。黙って祈っていられないのでしょうか。そして、自信?をつけた挙句その気になってケアセンターを開くとか言い出します。え?誰が担当する気?
ただ、虐待被害者の方々にとってのニーズは色々あるでしょうし、クリスチャンの中にもそのニーズに応えられる人たちはいるはずです。大切なのは、その人のニーズを知ることだと思います。そしてかどの自信を持たないことも。
確かに、妙に自信満々で「カウンセリング」しようとする牧師がいますね。
削除「この世のカウンセリングは霊的な視点が欠けているからダメだ」とか、「カウンセリングなんて話を聞いて祈ってやればいいんだ」とか、ずいぶん簡単そうに言うのを聞いたことがあります。その割に成果は上がっていないようでしたが。
虐待被害はもはや大きな社会問題となっていて、教会でどうこうというレベルでなく、社会全体で取り組まねばならない問題だと、私自身は考えています。ただその中にあって、(本来なら)教会こそがそこに積極的に関わっていくべき存在なんじゃないかな、とも思うわけです。
かつてヨーロッパにおいて、教会や修道院が独自に始めた社会福祉活動や救貧活動が、後の社会制度へと繋がっていった、という歴史があります。キリスト教会は本来、そのような分野で模範となるべきではないかなあと。
もちろん日本の現状だと、とてもそこまで期待できないのが現実だとは思います。
カウンセリングは、厄介な分野です。
削除ある人に対しては、励ましになる言葉が、別の人にっては、意気消沈させる言葉になります。最悪、死に追いやる危険すらあります。
素人が、我流でやってもたまたま上手く行くこともあります。
そこで、調子に乗って万人に適応できると勘違いすると危険です。
おっしゃる通りです。
削除対人援助は、もちろん援助者自身の人格や品性が大切ですが、それ以前にある程度の基本的な知識や技術がないと、むしろ危険なことになってしまいます。気持ちや情熱だけではどうにもならない分野ですね。
ただ一部のキリスト教会の場合、「今まで大勢の相談にのってこられた牧師先生だから」「神様の仕事をされている方だから」みたいな変な期待を持って、牧師にカウンセリング(みたいなもの)を依頼する人が少なくないようです。しかもそれほど深刻な悩みでないなら、プラセボ効果で、ある程度解決してしまうようです。
そういうのも、牧師に「カウンセリングなんて簡単だ」と思わせる一因かもしれません。
しかし現状を見てみますと、教会は、健康で大きな問題のない人、トラブルを起こさない人、奉仕ができる人、献金を安定的に払える人にとって居心地のいい場所なのではないでしょうか。逆に接しづらい人、扱いづらい人、トラブルを起こす人などを倦厭する傾向がないでしょうか。
返信削除私も同感です。自分に良くしてくださる人に、親切を返すのは異邦人でもしている、と聖書にありますよね。
自分にとって愛し難い人に、地道に、並走するのは、大変骨折りなことです。
大阪のある牧師さんが、ネグレクトや児童養護施設にいたけれど非行に走り、施設に戻れなくなった少年の自立支援をしておられます。
仕事に就いても長続きしなかったり、心の様々な葛藤を抱えている少年たちと接して、話を傾聴したり、
一緒にご飯を食べたりして、時間をかけて信頼関係を築いておられます。
教会としてではなく、制度の狭間にいる少年たちのために、活動しておられて、運営チームには、弁護士やいくつかの職種の方が携わっておられます。
こういう牧師さんは、例外的なのかな?と私は思います。
ありがとうございます。
削除愛し難い人に継続的に関わっていくのは、ある種の使命感みたいなものがなければ続かないかもしれませんね。また自分自身も傷ついたり、疲れたりしてしまいますので、適度な距離感を保つことや、相手と最低限の約束事を決めておくこと、自分自身のリフレッシュの時間を持つことなども必要になると思います。
その大阪の牧師さんの活動は大切だと思います。おっしゃる通り、制度の狭間にあって何の援助も受けられない人たちがいますので、どうしてもそういう草の根的な活動が必要になるでしょうね。もちろん時間のかかることですし、それでも大勢には手が届かないとは思いますが、そのような理解が広がっていけばと、私も願っています。