聖書を使ったイジメ

2017年5月18日木曜日

教会生活あれこれ 性的マイノリティ

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・「聖書を使って叩きのめす」の図

 
 上記はSNSで拾った画像ですが、すごく象徴的な一枚だと思います。
 見ての通りですが、LGBTQの人を「聖書を使って叩きのめしている」図です。
聖書に同性愛は罪だと書いてあるだろう! だからお前は罪人なんだ!」みたいなセリフが聞こえてきそうです。
 でもこれはproof texting と呼ばれる行為であって、要するに「聖書を都合よく使ったイジメ」みたいなものです。
 このように他者を平気で断罪するクリスチャンがいるようですが、おそらく自分自身も罪人であることを、スッカリ忘れてしまっているのでしょう。残念なことですが。

 ここでLGBTQの方のブログ記事を紹介したいと思います。


 LGBTQに関するキリスト教界の現状を、的確に捉えておられると思います。個人的には「荒唐無稽な愛のようなもの」という表現がすごく捉えているなあと思います。
 ちなみに当ブログでも最近LGBTQに関するシリーズ記事を書いていますので、ここに再掲しておきます。私の考え方については、詳しくはこちらをご参照下さい。

 性的マイノリティがキリスト教界でどのように扱われているか(あるいは扱われていないか)というお話。
 
 「同性愛=罪」とどうしても主張したい人たちの、聖書を利用した論理について。

  聖書は何と言っているか(あるいは言っていないか)。都市伝説的な「同性愛神話」について。

  個人的な物語をいくつか。

 理由はわかりませんが、この中だと「その4」がものすごい閲覧数を記録しています。

・「聖書の言葉なら傷つかない」のウソ

 時々、こんな発言を目にします。
正しいクリスチャンが御言葉(聖書の言葉)を正しく語れば、誰も傷つけません

 なんか自信満々な様子でそんなことを言うんですが、そもそも「正しいクリスチャン」って何だろうって疑問です。何をもって「正しい」とするのか、そしてなんで自分のことを臆面なく「正しい」と断言できるのか、不思議でなりません。
 また「聖書の言葉を正しく語れば誰も傷つけない」というのも「?」です。「正しく語る」って、何なのでしょう。

 聖書の言葉がどうであれ、問題は「人がそれをどう解釈するか」です。「聖書を語る」というのは、とりもなおさず、「自分の解釈で聖書を語る」ことに他なりません。だから「正しいか正しくないか」は、端的に言って「人それぞれ」なわけです。
 だから「正しく語れば誰も傷つけない」というのは一方的な話です。もし自分が聖書を語って相手が傷ついたら、「それは相手の解釈が悪いからだ」という話になってしまいますから。

 これも proof texting の一つだと思います。聖書を振り回して相手を叩きのめしてから、「こいつの解釈が悪いからだ」と満足して去っていくのです。でもそんなクリスチャンに、誰が憧れるでしょう?

 極論を承知であえて書かせてもらいますが、クリスチャンが信仰熱心になると、あんまりロクなことになりません。事前活動に熱心になるなら良いと思いますが、持論を補強するための聖書研究とか、持論に基づく「預言」とか「異言」とかに熱心になると、上記のような proof texting に陥りやすくなりますから。
 要は、「聖書を使ったイジメ」です。
 良識ある皆さんには、是非そのへん気をつけて頂きたいと思います。

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