2017年4月9日日曜日

【書評】『教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら』・その3

 アラン・A・ブラッシュ著『教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら』の書評として、性的マイノリティとキリスト教信仰について書いています。3回目です。

 前回は「同性愛=罪」とする主張の、聖書的根拠について書きました。
 しかし根拠と言っても、実情は「選択的」な聖書の利用であって、「神の命令」を意図的に取捨選択している、というものでした。「選択的」と言うのは、たとえば命令が10あるとして、その中の1つにだけ執着し、あとの9は無視する、みたいな感じです。各命令の有効・無効を勝手に決めているのですね。
 それは残念ながら、「神の命令」を守っているとは言えません。むしろないがしろにしていると言うべきでしょう。

 なので「同性愛=罪」の根拠が、聖書に明記されている、とも言えません。明記されているかのように誤読・誤解釈されている、ということです。

 というあたりが、前回のまとめになります。

・聖書中に反映されていない、現代的な「性」の多様性

 現在、キリスト教界でなく一般社会でですが、性的マイノリティに関する知識が徐々に普及されつつある、と私は認識しています。同性パートナー(事実上の同性婚)を法的に認める動きが一部の地方行政に見られるのも、その一端でしょう。映画やドラマなどの創作物でも、性的マイノリティをテーマとしたものが増えています。LGBTであることをカミングアウトする著名人も少なくありません。

 またそれらの動きと関連しているのかどうかわかりませんが、いわゆる性的マイノリティで知られるLGBTとは別に、「性分化疾患」の存在にも光が当てられるようになりました。これは内外生殖器や性染色体の何らかの障害を指すものですが、やはり一部で、ジェンダーの混乱(あるいは不明瞭)が見られるようです。これはLGBTと混同されがちですが、根本的には違うものと考えなければなりません(この疾患については別の機会に書ければと思います)。いずれにせよ、様々な性の在り方(障害によるものも含む)が認知されていくのは、良いことではないでしょうか。

 このように性の在り方、あるいは性的指向は、実に多種多様になっているのが実態なわけです。単純に「男か女か」で済む話でなく、「異性愛か同性愛か」で済む話でもありません。
 それは最近になって増えてきた、というわけではないはずです。はるか昔から存在していたものが、ようやく(正しく)認識されてきた、と言うべきでしょう。だから私たちは、(前回も書いたように)柔軟性をもって、いろいろな知識を広く得ていくべきだと思います。

 聖書が書かれた時代には、当然ながら「性的マイノリティ」なんて概念はなく、LGBTも性分化疾患も知られていませんでした。だからそれらに対する言及も配慮も、聖書中にはないわけです。
 そうであるなら、聖書に書かれている内容、特に性に関する内容は、「それが実際に何を意味しているのか」「何を意図して書かれたのか」といった点で慎重に検討されるべきです。
 単純に考えて、聖書が執筆された時代に認知されていなかった事柄、たとえばLGBTが、聖書に書かれているはずがありません。だからある聖句を挙げて「これはLGBTを禁止している」と指摘するの、そもそもおかしな話ではないでしょうか。それは聖書記者の意図を勝手に憶測したり、意図を付け足したりするのと同じような気がします。

 現代を生きる私たちと、聖書記者たちとの間には、約二千年の文化的・歴史的・科学的なギャップがあります。その広大なギャップを無視してしまったら、いくら「字義通り」とか「聖書のみ」とか言っても、結局のところ、その意図を履き違えてしまうだけではないでしょうか。

・一部の教会で語られる「同性愛神話」

 本書の巻末に、付録として、性的マイノリティの方々の個人的な体験談が掲載されています。その中で目を引いたのが、ある同性カップルが体験した「最も深刻な嫌がらせ」についてでした。
 いったいどんな人が、同性カップルをそこまで憎むのでしょうか。実はそれは、同じ信仰を持つはずのクリスチャンたちでした。クリスチャンの同性カップルを最も迫害したのは、未信者や無神論者や他宗教の信者たちではなく、同じクリスチャンたちだったのです。

 それがどんな嫌がらせだったのかは書かれていませんが、性的マイノリティを迫害するクリスチャン(教会)は、残念ながら珍しくありません。前回書いたような「同性愛=罪」と断定している教会には、いわゆる「同性愛嫌悪」が根強く残っているからです。

 そのような教会では、いくつかの「同性愛神話」が、今もまことしやかに語られています。2つの神話を紹介してみましょう。

神話1「同性愛は霊的な病気なのだ」

 ある牧師らは、性的マイノリティを「霊的病気」だと言います。はじめは「正常」だったのに、幼少期に受けた心の傷や、あるいは何かの罪の結果、「同性を愛するという異常な状態になってしまった」と言うのです。だから「同性愛者は癒されなければならない」みたいなことを主張します。そして集中的な祈祷とか、矯正キャンプ(?)とか、インナーヒーリングとかを勧めるのです。
 しかしそのような「治療」で「治った」という性的マイノリティの方など、聞いたことがありません。もし「同性を愛していた人が異性を愛するようになった」としたら、それは(ブラッシュ氏の言葉を借りるなら)「はじめからバイセクシャルだった」というだけです。

 現代においては、同性愛指向は生まれつきのものであり、本人の選択ではない、というのことが判明しています。
 ではなぜ同性愛指向になったのか? と尋ねるのは、ナンセンスです。それは「あなたはなぜ異性愛者なのですか?」という質問と同じだからです。理由はわかりまんが、そのように造られたのであって、本人の意思や希望や、環境や生育歴は関与していないのです。

 またどんな「傷」を受けようが、あるいはどんな「罪」を犯そうが、人生の途中でその性的指向が変更されるということはありません。もし異性愛者が何らかの「傷」によって同性愛者に変わるとしたら、現在異性愛者であるあなたも、将来同性愛者になるかもしれません。あなたが「罪だ」と断定する同性愛者に、あなた自身がなるのです。
 でもそんなことが考えられるでしょうか。いったいどんな「傷」を負ったら、そんなことが起こるのでしょうか。

 さらに、もし「異性愛者が何らかの傷によって同性愛者になった」のだとしたら、それは本人の落ち度ではないのだから、罪ではないでしょう。憐れまれるべきであって、断罪されるべきではない、という話になるはずです。
 そのへんにも、「同性愛=罪」の矛盾があるように思います。

神話2「同性愛者は必ず性的逸脱行為に走る」

 これは、「同性愛者は小児性愛を好む」とか、「同性愛者は獣姦を好む」とか、その他のあらゆる性的逸脱行為を「同性愛者だから好むんだ」というような話です。
 しかし当然ながら、そんな根拠はどこにもありません。むしろ小児性愛に限って言うならば、それは異性愛者の方にこそ多いのです。

 一般的に逸脱行為を好まないのは、異性愛者も同性愛者も同じです。同性愛者だからといって何か特別な(否定的な)趣味や嗜好がある訳ではありません。

 にもかかわらず、このような神話がまことしやかに語られるのは、おそらく同性愛指向が、旧約聖書のソドムとゴモラの(悪い)イメージと結びついてしまっているからだと思います。
 前回少し触れたように、ソドムとゴモラは「同性愛者が沢山いたから」という理由で罰せられたのではありません。来訪者を集団レイプしようとした、その暴力性の方がよほど大きな問題だったわけです。また詳しい記述はありませんが、その他の様々な罪(悪行)の累積があったはずです。繰り返しますが、「同性愛者が沢山いたから罰せられた」というのは論理の飛躍でしかありません。

 しかしその手の教会では、こんなふうに考えられています。

「ソドムは同性愛が蔓延していたから罰せられたんだ」
「またソドムは様々な悪行に満ちていた」
「同性愛者どもは様々な悪行を好む奴らだ」

 というわけで、「同性愛=あらゆる性的逸脱行為の集合体」みたいなイメージが出来上がってしまうのだと思います。でもそれはまったく事実に反しています。

・今回のまとめと次回の予告

 今回は、「性的マイノリティという概念自体が聖書には記述されていない」という点と、「まったく根拠のない同性愛神話が一部に広がっている」という点について考えてみました。皆さんは、どんな感想を持たれたでしょうか。
 さて次回は、少し個人的な話から、このテーマについてさらに掘り下げていきたいと考えています。それではまた。

1 件のコメント:

  1. これを読んで思い出しました。
    確かあるんですよ。新興宗教系プロテスタントの教会で、「同性愛を治す教会」というのが。
    よけいなお世話ですよね。

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