邦画に学ぶ「地方の生活」と「キリスト教の関わり方」

2017年5月14日日曜日

映画評 教会と地域社会

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・邦画に描かれる「地方の生活」

 今回も映画の話から入りますが、いつも洋画ばかりなので、ちょっと邦画の話もしたいと思います。

 邦画の最近の傾向、かどうか知りませんが、いわゆる「地方の生活」を描いたものが少なくないように思います。たとえば今回紹介したい、次の3作品は、都会人の目線から「地方の生活」を描写しています。 

『人生の約束』
「WOOD JOB ! 神去なあなあ日常」
『八日目の蝉』

『八日目の蝉』は例外として、あとの2作品は、進学や就職で悩む若い人たちには勉強になるかもしれません。大学進学に至上の価値があるのか、あるいは高卒の将来にどんな可能性があるのか、といったことを考えるキッカケに、なるかもしれませんから。

 私がそう思う理由の1つは、それぞれの映画の中で、いわゆる「地元の第一次産業に従事する、昔ヤンチャだったと思われる兄ちゃん」たちの存在が光っているからです。『人生の約束』で言えば江口洋介、『WOOD JOB !』で言えば伊藤英明がその役を担っています。


 『人生の約束』の江口洋介。
 『WOOD JOB ! 神去なあなあ日常』の伊藤英明。


 彼らの学歴や職歴については全く語られないので、詳しいことはわかりません。けれど現在、中年になった彼らは、地元の第一次産業(漁業や林業)に誇りをもって従事しており、毎日海や山に出て行き、ひたむきに働き、家族を養い、その産業を次代に引き継ごうとしているわけです。仕事が終わって仲間たちと飲んで騒いだり、年に一度の祭に情熱を燃やしたりと、きっと映画で描かれるのはその一部分だと思いますが、そういうのを楽しみにしています。その生活は地元に根付いているというより、もはや地元と一体となっていると言った方がいいかもしれません。

 その姿が一般にどう映るのかわかりませんが、私は素直に「かっこいいなあ」と思います。実際にはいろいろな苦労があるでしょうけれども。

 彼らがそうせざるを得なかったのか、あるいは自らそう望んだのかわかりませんが、自分の生きる道を「これ」と決めているその潔さが清々しいですね。それは都会人の、ともすれば学歴重視の、あるいは転職が前提となった、ステレオタイプなライフサイクルとは一線を画する生き方なのかもしれません。

 だから最初に言った通り、進学や就職に悩む若い人たちには、また違った価値観を提示してくれる映画なのではないかと思います。

・人は見かけによらない

 ちなみに『WOOD JOB !』の方に、1つ面白い人物描写がありました。
「林業体験」に集まった都会の若者たちが10人くらいいて、主人公の染谷将太はその中の1人なのですが、まあいい感じにチャラチャラしています。他に「意識高い系の大卒」と「ヤンキー系の茶髪の兄ちゃん」がいます。大卒の方はいちいち発言しまくってて、ウザいです。ヤンキー系はいつもダルそうにしてて、何を考えてるかわかりません。で、チャラチャラしてる染谷将太くんが誤って指を切ってしまい、出血して大パニックになります。そのとき大卒はどうしていいかわからずアタフタするだけなのですが、ヤンキー系がすかさず頭のバンダナを取って、止血してくれるのですね。このへんに「人は見かけによらない」ってことを考えさせられました。

・邦画に描かれる「地方の祭」

 さて本題はここからなのですが、3作品の全てに、「地方の祭」の様子が描かれています。それぞれ特色のある祭です。私自身は祭の類にはほとんど興味がなく、参加したことがないのですが、観ている分には(画的に)興味深いですね。

 『八日目の蝉』の永作博美。





 映画を観れば一目瞭然なのですが、これらの祭は、地元の人たちにとって最重要なイベントのようです。『人生の約束』でも『WOOD JOB !』でも、クライマックスの部分に祭が配置されています。祭に対する人々の熱の入れようが、もうハンパではありません。

 しかし一方で、それらは必ずしも宗教的なものではないようです。人々の「熱」というのも、いわゆる宗教熱心とは違います。その証拠に、拝む対象は「神様」でなく、地元の「自然」とか代々の「伝統」とか、そういったものが渾然一体となった感じで、判然としません。「拝む」という感覚ともちょっと違うように感じました。

 それでいてハッキリわかるのは、それらの祭は、その地域の人々と「一体」となっていて、もはや切り離すことができない、ということです。生活の一部、それもかなり重要な一部となっているのです。

・キリスト教はそこにどうアプローチできるのか

 さてそんな彼らに、我らがキリスト教会はどんなアプローチができるだろうか、と考えるのは興味深いですね。つまり、どうやって伝道したら効果的なのか、という話です。

 絶対にやめた方がいいと思うのは、「それは偶像崇拝だからダメです」と頭ごなしに彼らの祭を否定することです。が、そういうのを平気でやってしまう教派がありそうですね(苦笑)。

 繰り返しますが、それらの祭は地元の人々と「一体」となっているので、祭を否定することは、そのまま彼ら自身を否定することになります。ひいては彼らの仕事、彼らの生活、彼らの伝統を否定することになってしまいます。
 自分たちの存在を頭から否定してくる連中の話を、誰が聞こうと思うでしょう。おそらく誰もいないと思いますね。
 だからまずは全てを肯定することから始めないと、チャンスはないように思います。

 しかし果たして、「偶像崇拝は絶対に許されない」と考えて頭がガチガチになっている人たちに、そんな寛容さを期待できるでしょうか。かなり怪しいと思いますが。
 べつに、偶像崇拝を許せって話ではありません。そもそもの話、彼らの祭をイコール偶像崇拝と考えるのも短絡的だと思いますが。
 いずれにせよ、まず順番として、「いったん全てを受け入れないと、そもそも話ができないんじゃないですか」ということです。そのへんを理解できなくて、猪突猛進に「福音ガー」とか「偶像崇拝ガー」とかとなってしまって、全てを台無しにしてしまいそうな教派がいくつかあるのが、本当に残念なところだと思います。

 今回サラッと紹介したように、日本人と言っても、都市部に住んで働く人たちと、地方に住んで働く人たちとで、えらい違いがあるわけです。そのへんのことを意識しながらこれらの邦画を観ていただいて、「どういう伝道が効果的だろう」とちょっと考えてみることは、たぶん日本人を理解するのに役立つだろうと思います。

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