【書評】『教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら』・その2

2017年4月6日木曜日

書評 性的マイノリティ

t f B! P L
 アラン・A・ブラッシュ著『教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら』の書評として、性的マイノリティとキリスト教信仰について書いています。2回目です。

性的マイノリティについて、多くの教会で話題にされない、関心を持たれない、だから存在しないもののように扱われている、ということを前回書きました。
 そのように扱われる理由の一つとして、「同性愛=罪」が(ある教会群では)既に決定事項となっていて、覆しようがなくなっているという点を挙げました。「同性愛は忌むべき罪であって、議論の余地などない」というわけです。
 今回はこの点について、考えてみたいと思います。

・「同性愛=罪」の聖書的根拠?

 なぜ多くの教会で「同性愛=罪」と断定されているかというと、彼らの言い方をそのまま使えば、「聖書に書いてあるから」です。
「聖書に同性愛は禁止だと書いてあるじゃないか。だから罪だと言っているのだ。これは私個人の意見でなく、聖書の権威ある言葉によるのだ
 そして以下のような聖書箇所が、その根拠として紹介されます。
 
創世記19章
 ソドムとゴモラの物語。

レビ記18章22節と20章23節
 性道徳に関する規定。

申命記23章18節
 「イスラエルの子」が神殿男娼、娼婦になることの禁止。

列王記上14章24節と15章12節(以下略)
 専制君主制の様々な時期における神殿売春の設定と廃止の諸報告。

ローマ1章18節〜32節
 人間の「不信心や邪悪」に対する神の怒りについての考察。

コリント第一 6章9〜11節
 「正しくない者が神の国を受け継ぐことはない」という警告。

エペソ5章33節
 理想的な結婚関係。

ユダの手紙7節
 ソドムとゴモラへの言及。

 でも本書の著者であるブラッシュ氏は、これらの聖句についてこう言います。
「このリストについて注意を払いたい第一の事柄(中略)は、そこには何も書かれていないということである。すなわち、イエスにしても、ヘブライ語聖書のどの預言者たちにしても、聖書には同性間の性関係に言及しているどんな記録も全くないのである。」

 つまり、現代社会における性的マイノリティという「性の在り方」について、聖書は何も言っていない、ということです。
 上記のいくつかの聖書箇所で言えば、たとえばロトがもてなした2人の男性をソドムの人々が集団レイプしようとしたことや、あるいは神殿で男娼として働くことは、同性どうしが長期的で親密な関係を持つこととは全く関係ない、ということです。異性愛者の話に変換するならば、女性(男性)をレイプすることや、女性(男性)が売春することは、1組の男女が長期的で親密な関係を結ぶこととは関係ない、ということです。レイプや売春は罪となりますが、ある2人が親密な関係を結ぶことは、罪でも何でもありません。そして長期的で親密な人間関係を結ぶという文脈において、その相手が異性か同性かについて、聖書は特に言及していない、ということです。
「男と女が結ばれて一心同体となるべきだ」みたいな反論があるかもしれませんが、であるなら、生涯独身を勧めたパウロの立場はどうなるのでしょうか。

「同性愛=罪」と断定している人には、ぜひこの点について考えてみていただきたいですね。

・「選択的」聖書利用

 もう一つ考えていただきたいのは、上記に挙げたレビ記18章22節についてです。こう書かれています。
「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない」
 そらみたことか! 同性愛をはっきり禁止しているじゃないか! と主張する人がいるかもしれません。
 では、これを「字義通り」受け取るとしたら、男が男と寝てはならないけれど、女は女と寝ていい、という話になりませんか。ゲイはダメだけどレズビアンはいい、ということになりますよね。「同性愛は罪だ」とは言えなくなります。そう「書いてある」のですから。

 レビ記を読む上で注意しなければならないのは、これは旧約時代のイスラエル民族に課せられた命令である、という点です。いわゆる律法です。キリストの到来とともに新約時代が始まり、すでに多くの律法が不要となっている、という事実を覚えるべきです。つまり聖書の記述と言っても、現代社会に当てはまることと、当てはまらないことがある、ということです。

 もしそれが不満であるならば、つまり今でも律法が有効だと主張するなら、この命令とともに、他の多くの律法をも守らなければなりません。たとえば朝晩の生贄のことや、血を含んだ肉の扱いや、2種類の糸で織った衣服を着ることや、他にも沢山ありますが、それらの規定を守らなければならなくなります(それはもはやキリスト教でなくユダヤ教な気がしますが)。ちなみに同じ律法によると、よじれた睫毛の人間は祭司職に付けません。だから睫毛がよじれている牧師がいたら、今すぐ罷免されなければならなくなります。
 また「男と寝る男」は処刑しなければならない、と同じ律法に書いてあります。だからこの箇所を根拠に同性愛を責める人は、彼らを処刑しなければならないでしょう。さて、どうするのでしょうか。

 このように、レビ記18章22節「だけ」を現代も守るべき神の命令とし、それ以外の多くを無視するというのは、いわゆる選択的聖書利用だと思います。神の命令を人為的に選択し、これは守れ、でもこれは守らなくていい、としているわけですから。それが聖書を読む態度としてどうかは、言うまでもないでしょう。

 ちなみに、この箇所についてもう一つ、ブラッシュ氏が補足しているのは、当時のイスラエル民族の事情ついてです。すなわち少数民族であったイスラエルは、大国に囲まれていたため、人口を増やすことが急務でした。だから(男性の)新しい命を宿す種を無駄にしてはならなかった、ということです。

・寛容、あるいは柔軟性の大切さ

 このように、聖書を読んで解釈するには、一つの文章や文節だけに注目するのでなく、その文脈や背景を、できるだけ正しく理解していなければならないと思います。でないと容易に読み誤ってしまうでしょう。またこれは大切だけれどあれは大切ではない、というような選択的な利用に陥ってしまいます。

 クリスチャンの方には「正しさ」を求める人が少なくないと思います。正しい信仰を持ちたい、正しく神様を知りたい、というようなことを願っているのでしょう。しかしそれが行き過ぎると、「正しいことはただ一つ」と考えがちになります。そしてだんだん多様性が排除され、不寛容に傾き、考え方が窮屈になってしまいます。
 そして最終的には自分の、あるいは自分の教会教派の聖書解釈・聖書理解が唯一正しいものであり、他の教会や教派はどれも間違っている、と考えるようになってしまいます。

 しかしいつも書いているように、聖書の多くの箇所は、何通りかに解釈できます。また何を強調するかによって、聖書の読み方そのものが変わってきます。また個人の経験や価値観、宗教観、あるいは「神」に対するイメージなども、そこに影響するでしょう。
 だから自分(あるいは教会)の考え方が唯一絶対正しい、とするのは、かえって危険なことだと私は思います。それより、ある程度の可能性を含んだ見方、多様性を認める寛容性、場合によって考えを改める柔軟性、みたいなものが、クリスチャンには大切ではないでしょうか。

 はじめから、あるいは教会で教えられたことを鵜呑みにして、あるいは先入観から、「同性愛は罪だ」と決めてかかってしまっては、何の対話も生まれません。
 昨今、性的マイノリティの方々の人権擁護の声がかつてないほどに高まり、注目を集めています。正しい知識を広めようという動きもあり、認識を改める人々も増えているようです(まだまだ偏見が払拭されたとは言えないと思いますが)。そうした状況はおそらく今後も進んでいくでしょう。
 それなのにキリスト教会だけが前時代的に、あるいは思考停止的に「同性愛は罪であって議論の余地などない」と言い続けていたら、ますます一般社会から乖離してしまいます。ただでさえ関心を持たれていないのに、ますます見向きされなくなるでしょう。

 それだけでなく、人々(それがどんな人であっても)を守るべき教会が、かえってある特定の人々を虐げている、なんてことになってしまいます。だとしたらキリスト教とは何なのでしょう。

 そういった点を提起したところで、今回のところは終わりとさせていただきます。次回に続く予定です。

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