2017年4月14日金曜日

【書評】『教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら』・その4

 アラン・A・ブラッシュ著『教会と同性愛 互いの違いと向き合いながら』の書評として、性的マイノリティとキリスト教信仰について書いています。4回目です。

・個人の物語

 前回も紹介しましたが、本書の巻末に付録という形で、性的マイノリティの当事者の方々の体験談が掲載されています。「三つの個人的な物語」というタイトルで、3人の方がそれぞれ語っています。
 前回までに書いた通り、本書は、性的マイノリティが「罪」でないことを(少なくとも聖書がそれについて何も言及していないことを)論理的に考察しています。この考察だけでも読むに値します。今なお「同性愛=罪」だと単純に考えるクリスチャンが多いからです。しかし私が本書でもっとも感銘を受けたのは、実は考察部分でなく、この「個人的な物語」の部分です。ある人たちの個人的な体験、生活、人生、苦悩、葛藤、そして希望が、短い文章ながら、ダイレクトに伝わってきたからです。論理的な考察と同じくらい、あるいはそれ以上の説得力をもって、私の胸に響きました。

 やはり人の心を打つのは、「人の物語」じゃないかなと思います。どれだけ理屈を積み上げても全く伝わらないことがありますが、それはやはり感情がついて行けないからではないでしょうか。人間は何だかんだ言って、論理より感情で動く生き物だと思います。感情が論理をすっ飛ばすこともありますから(それはそれで危険なことなのですが)。
 いずれにせよ、個人的なストーリーが語られることで、それまで考察されてきたことが、一般論としてでなく、グッと親近感をもって迫ってきます。
「同性愛=罪」と考えるクリスチャンの方々は、もしかしたら性的マイノリティの方々と触れ合ったことがないのかもしれません。もし個人的に知っていれば、つまり生身の人間として接したことがあれば、簡単に「罪だ」とか何だとか、言えなくなる気がします。

・私個人の物語

 私個人の話をします。

 私は高校生の頃から、「知らずにつるんでいた友人がゲイだった」ということを何度か経験してきました。本人が教えてくれたり、何かのキッカケで気づいたり、何となくわかったり、その経緯はそれぞれでしたけれど。一番初めの時は若干驚いた覚えがありますが、2回目以降は「うん、だから何」という感じでした。私にとってゲイの男性は、わりと身近な存在でした。

 彼らはみなごく平凡な男子でした。音楽やマンガやゲームが好きで、美味しい食べ物や面白い話が好きで、学校の授業や宿題はあまり好きでなく、放課後になれば遊びに出掛けました。クリスマスなどのイベント時は集まってケーキを食べました。彼らがゲイだろうが何だろうが私には関係ありませんでした。長所も短所も含めて私の友達だったからです。時々ケンカもしました

 性的マイノリティの方々が差別的な扱いを受けている、というのを知ったのは、実はもっと後のことです。でも差別される理由が全くわかりませんでした。むしろ私は、当時流行った栗本薫氏の『終わりのないラブソング』とか、魔夜峰央氏の『パタリロ』とかの影響もあってか、同性愛指向をどこか「きれいなもの」「特別なもの」と捉えていたのです。だから、私自身は異性愛指向なので異性しか恋愛対象になりませんでしたが、「世の中には同性愛というカタチの愛もある」ということを、誰に教わるでもなく理解していました。

 大人になると、今度はクリスチャンのゲイ男性と知り合いました。知り合って何年か経ってから、彼がゲイであると知りました。でも当然のごとく、私たちの関係は何一つ変わりませんでした(少なくとも私の方はそう考えています)。

 でも私たちのいた教会はペンテコステ系でした。ペンテコステ系と言っても様々なのですが、おそらく概ねの傾向として「同性愛=罪」と考える教派です。だから当然ながら、彼が教会内で自分の性的指向を公表することはありませんでした。そこの牧師は「同性愛者は癒されなければならない」と平気で主張するクチだったので、彼は牧師とも距離を置いていました。

 おそらく彼は教会に居づらかっただろうし、人知れず苦悩していたと思います。自分の「あるがまま」を頭から否定され、「癒されなければならない=異常な状態」とされたのですから。彼がどんな心境だったか、想像さえできません。決して公に責められたり、貶められたりしたわけではありませんでした。けれど一度カミングアウトしてしまったら、どんな扱いを受けるかわかりません。それは恐怖だったと思います。

 ところでこの「あるがまま」には、2種類あると思います。変更可能なことと、変更不可能なことの2つです。
 たとえばですが、朝が弱くて寝坊しがちだとか、ついつい食べ過ぎてしまうとか、学生なのに学習習慣が身につかないとか、そういうのは(基本的には個人の自由だと思いますが)ある程度努力したり、自制したりすることで、変えられます。
 でも、たとえば生えてくる髪の色を変えたいとか、瞳の色を根本的に変えたいとか、肺呼吸でなくエラ呼吸がしたいとか、そういうのはどう考えても不可能なわけです。
 後者の変更不可能なものを「変えろ」と言われたら、あなたならどう感じるでしょう。たとえば「たった今から水の中で呼吸して生きろ」とか命じられたら、理不尽を感じるのではないでしょうか。
 同性愛者指向の人に「おかしいから異性愛者になれ」と言うのも、それと同じです。それはその人の「あるがまま」であって、いくら努力したところで、変わるものではないからです。異性愛者であるあなたが、「異性愛なんて異常だ。気持ち悪い」とか言われるのを想像してみて下さい。少しは実感できると思います。

・さらに私個人の物語

 ところで私は「左利き」です。左手で字を書いていると、今は「サウスポー」と言われますが、昔は「ギッチョ」と言われました。ちなみに未だに「ギッチョ」という言葉の意味がわかりません(笑)。

 私が小学生の頃、まだ左利きは異常だとか、おかしいとか言われていました。そして「右利き」になるよう、矯正を強制されました(ジョークではありません)。今そんなことが行われたらSNSで大炎上しそうですが、当時は時代が違いました。左利きは明確に差別されていたのです。

 私は小5の時の担任教師から、そのような矯正を強いられました。そして「正義感に駆られた」何人かの同級生からも矯正の圧力を受けました。ある時、教師や同級生たちに囲まれて、「左手で書くな。右手で書け」と強い口調で言われたことがあります。辛かったですね。そんな風にある期間、私は自分の「あるがまま」を否定され続けました。

 でもその経験を通して、私は「あるがままの姿、変更できないありようを差別してはならない」ということを学びました。実はそれは当たり前のことなのですが。でもなかなか理解しづらいものなのかもしれません。

 左利きである私を責めた同級生たちは、みな「右利き」でした。彼らはバカではなく、どちらかと言うと成績の良い方でした。でも頭の良さは関係ないようです。マジョリティは、マイノリティの立場を理解しづらいようです。だから寄ってたかったマイノリティをいたぶることができるのです。

 これは左利きだけの話でなく、性的マイノリティにも、いろいろな疾患や障害にも、ある地域では人種にも、その他のあらゆる差別を引き起こす事柄にも、同様に言えることです。少数派は不利となりやすく、立場が弱くなりやすく、理解されにくく、何かあると攻撃されやすいのです。

 ちなみに後日談ですが、私は結局「左利き」を貫き通しました。訓練すれば右手でも書けるようになったとは思います。しかし私は、自分が左利きであることを、生まれつきのものであり、自然なありようであり、変える必要のないものだと、感覚的に理解していました。それに誰かに何かを強制されるのが大嫌いでした。だから担任が鬼の形相で声を張り上げても、右手で書こうなんてこれっぽっちも考えませんでした。
 だいいち、なんで左手で書いてはいけないの? その問いに、誰もまともに答えられませんでした。実は彼ら自身が一番わかっていなかったのです。

 というわけで、私は今でも左手で字を書き、ボールを投げ、箸やスプーンを持ちます。かと言って右利きの人を差別しません。それはそれで素晴らしい能力だと思いますから。

・「同性愛者=罪」と簡単に言ってのける人は

 話を戻します。
 性的マイノリティも、単に少数であるというだけで、「あるがまま」の、自然な、変更する必要のない、その人にとって「本来の」姿なのです。まだまだ奇異の目で見られたり、差別的に扱われたりするのが現実だと思いますが、そんなこと気にしないで生きられるのが本当なのです。誰にも否定したり矯正したりする権利はありません。

 冒頭にも書いたように、性的マイノリティについて論じるのと、性的マイノリティの方と個人的に接するのとは、大きく違います。
 教会の中で、自分たちの物差しだけで聖書を読み、単なるイメージだけで「同性愛者なんて嘆かわしい」と言っている人たちには、何も論じる資格はないと私は思います。当事者と個人的にかかわることで、初めて見えてくるものがあるからです。

 そういうクリスチャンが簡単に「罪だ」と断じる性的マイノリティの人にも、(当然ながら)それぞれ人生があり、日々の生活があり、家族があり、仕事や学業があり、希望や目標があります。誰かを愛したり苦しんだり、喜んだり悲しんだりします。そしてその中のある人たちは、神様を信じていて、教会で礼拝を捧げ、祈りを捧げ、たぶんいろいろ葛藤しながら、クリスチャンとして生きているのです。

 そういう人たちを簡単に「罪人だ」「嘆かわしい」と断じるあなたは、いったい何者なのでしょう。あなたは「罪人」ではないのでしょうか? あなたは嘆かわしい存在ではないのでしょうか?

「同性愛者=罪」と、いとも簡単に言ってのける人を見ると、私はいつもそんな感想を持ちます。私のことを「ギッチョ」と呼んだ人たちのことを、チラッと思い出しながら。

3 件のコメント:

  1. 最後の文章に書いてあるとおり、すべての人柄いろいろと葛藤しながら、生きているのだと思います。

    それを安易に断罪することはできないと思います。

    返信削除
  2. >教会に居づらかっただろうし、人知れず苦悩していた
    インターネットが普及していなかった時代は、同性愛者がキリスト教を勉強したいと思っても、同性愛に対して理解のある教会を探すことが非常に難しく、彼らは常に肩身の狭い思いをしていたことでしょう。
    今は某巨大匿名掲示板がありますので、同性愛の人が「実は私は同性愛者で・・・」と書いて、同性愛の人に理解がある教会を教えてくれと頼めば、いくらでも教えてもらえますので、本当にいい時代になったと思います。

    返信削除
  3. 私も左利きの事を『ギッチョ』と言っていました。私も左利きだったのですが、右利きに直させられました。

    返信削除