ギデオン協会が成人式などで無料配布している新約聖書の最後のページに、「○○な時に読む箇所」という読み方ガイドが載っている(今ふうに言えばFAQか)。初心の頃は重宝した。聖書のメッセージの輪郭を、そこで何となく掴むことができるから。
しかしあれは教会生活の中で仕入れる知識と同じで、「○○な時はこう考える」「××な時はこうする」といった、金太郎アメ的クリスチャン思考を強化する側面があると思う(ありがちな質問に対して多くのクリスチャンが同じような回答をする現象を、私は「金太郎アメ的クリスチャン思考」と勝手に呼んでいる)。それは文字通り聖書をFAQ化して読む行為ではないだろうか。それも伝統的解釈に縛られた、神学的探求を一切放棄したFAQ化。
教会生活がある程度長い人は分かると思うけれど、「教会のあの人にこれを相談したら、この聖書箇所を引用されて、こういうふうに言われるだろうな」と簡単に予測が付くことがある。「この相談にはこう答える」みたいな、まさにFAQが各教会に備え付けられているかのように。友人はその現象を指して「量産型クリスチャン」と言ったが、まさに言い得て妙だと思う。
「聖書は神の生きた言葉だ」とか「神は日々新しく語られる」とか主張する教会の人々も、何も新しいことは語らない。その背後にあるFAQから一歩も離れない。少なくともこの30年はそうだ。たまには想像を裏切るようなことを言ってくれないかな、とさえ思う。
Twitterやブログを見ても、ある教派のクリスチャンの発信は似たようなものが多い。もちろんそこには個々の人生があり、個々の葛藤があり、極めて実存的だけれど、俯瞰して見るとみんな同じような論理展開で、祈り方や信仰について語っている。アカウント名を隠したら誰が誰だか分からなくなりそうなくらい。その背後に、やはりFAQ化された聖書の存在を感じる。
教会でしばしば語られる「皆で一致してキリストのからだを建てあげよう」的なスローガンも、同じように聖書を読み、同じように祈り、同じように考えるのを良しとする傾向を後押しする。それ自体は悪いことではない。組織の統率には役立つだろう。けれど異質なものを排除する、全体主義的な危うさがある。
FAQ化はプロテスタントの自由祈祷にも見られる。「自由」と言いながら、信仰歴の長いベテランたちほど同じような視点、同じような考え方、同じような言葉で、何となく決められた輪郭に沿って祈るからだ。まるで見えないルールに縛られているかのように。その枠からはみ出ないことを良しとする風潮さえ感じる。それは本当に「自由」なのだろうか。
先日友人の牧師の説教を聞いて、ハッと目が開かれた経験をした。エマオ途上の弟子たちもこんな感じだったかもしれない、と思うほど。それは聖書を破壊することではなかった。むしろより深く理解することだった。聖書をFAQ化していたら、到底そこには到達できないだろう。