聖書を適切に「引用」するのでなく、「言い訳」に使ってしまうことがあると思います。
いかにも信仰深そうに見せて、実は自分の我を通したいがために聖書を利用しているだけ、というようなことですね。
やったことがある人、怒らないから手を挙げて下さい(笑)。
あるキリスト教関連団体が、存続の危機に陥りました。
詳しく書きませんが、非常に難しい状況でした。このまま廃止すべきか、それとも頑張って再建を目指すか、意見は真っ二つに分かれました。議論は紛糾し、幾晩も続き、それでも結論に達しません。みんな疲れて、険悪なムードになりました。
ある人は言いました。
「聖書は見切り発車するなと言っているでしょう?」
またある人はこう言いました。
「信仰によって一歩踏み出さねばならない時もあります」
聖書はいろいろなことを言っています。時に相反することも言っています。
また文脈から切り取りさえすれば、可能性はほとんど無限大に広がります(笑)。
だからある主張が、聖書から支持されているように見えても、別の箇所を開くと、必ずしもそうでない、なんてこともあります。
結局上記の団体は、内部分裂しました。
意見が完全に分かれてしまいましたから、それも仕方なかったと思います。
しかしこれと同じようなことが、キリスト教会ではわりと普通に起こっていると思います。
聖書はこう言っているでしょう? なぜあなたはそんなことをするの?
聖書ははっきり◯◯だと言っています。だから私たちはこうすべきです。
自分がこうしたい、という願望を、聖書の言葉にうまく乗せて、なんとか通そうとするわけです。
そこまでして我を張りたいのでしょうか。それはそれで(私個人は)全然構わないのですが、幼いなあと思わずにいられません。
言うまでもないことですが、聖書は「引用」すべきであって、「言い訳」に使うものではありません。
教会でバイブルスタディとか聖書の学び会とかするのであれば、まずはそういうこと教えるべきではないかな、と私は思います。
そうですね。よく聞く、主に示された、聖霊が語られた、 神の御心だと分かった、も根本は同じだと思います。自分はこうしたい、自分はこう考える、と正直に言えばいいだけなのに何故か神や聖書を持ち出してしまう。
返信削除もちろん折に触れて祈ることや聖書を調べるのは良いことですが、判断し決めるのは自分であって指図されているわけではありません。
その方が敬虔そうに見える、説得力があると思っているかもしれませんが、まわりの分かる人は本質を見ていますし、ましてや神は百も承知ではないでしょうか(笑)。
私が最も憤りを感じるのが、苦しみや悩みを抱えている人へのそういう対応です。そういう人たちは、トラウマを持っていたり、長い試行錯誤を経たりした上で、聖書を読み、祈り、そして考え抜いたうえで話をしてくれます。
それに対して、聖書が・・・、神が・・・とか上っ面のアドバイスをするのだけは止めて欲しいと思います。そんないい加減な対応をするくらいなら、何も言わずに話を聞いてあげるだけの方がずっとましではないでしょうか。
自分にもそうして欲しいし、親しい友にもそうしてあげたいです。
Teoさん
削除ありがとうございます。
仰る通りですね。自分の願望を「神の啓示」に置き換えて、何がなんでも通そうとするのは、単なるワガママです。わかる人にはわかりますよね。
また深刻に悩んでいる人に向かって神がどうとか聖書がどうとか言ってしまうのも、人の痛みがわかっていない証拠になっていると思います。そういう人には聖書を学ぶより先に、人としての礼儀や思慮を学んでほしいものです。