聖書を「言い訳」に使っていませんか?

2018年7月22日日曜日

教会生活あれこれ

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 聖書を適切に「引用」するのでなく、「言い訳」に使ってしまうことがあると思います。
 いかにも信仰深そうに見せて、実は自分の我を通したいがために聖書を利用しているだけ、というようなことですね。
 やったことがある人、怒らないから手を挙げて下さい(笑)。

 あるキリスト教関連団体が、存続の危機に陥りました。
 詳しく書きませんが、非常に難しい状況でした。このまま廃止すべきか、それとも頑張って再建を目指すか、意見は真っ二つに分かれました。議論は紛糾し、幾晩も続き、それでも結論に達しません。みんな疲れて、険悪なムードになりました。

 ある人は言いました。
「聖書は見切り発車するなと言っているでしょう?」
 またある人はこう言いました。
「信仰によって一歩踏み出さねばならない時もあります」

 聖書はいろいろなことを言っています。時に相反することも言っています。
 また文脈から切り取りさえすれば、可能性はほとんど無限大に広がります(笑)。

 だからある主張が、聖書から支持されているように見えても、別の箇所を開くと、必ずしもそうでない、なんてこともあります。

 結局上記の団体は、内部分裂しました。
 意見が完全に分かれてしまいましたから、それも仕方なかったと思います。

 しかしこれと同じようなことが、キリスト教会ではわりと普通に起こっていると思います。

 聖書はこう言っているでしょう? なぜあなたはそんなことをするの?
 聖書ははっきり◯◯だと言っています。だから私たちはこうすべきです。

 自分がこうしたい、という願望を、聖書の言葉にうまく乗せて、なんとか通そうとするわけです。
 そこまでして我を張りたいのでしょうか。それはそれで(私個人は)全然構わないのですが、幼いなあと思わずにいられません。

 言うまでもないことですが、聖書は「引用」すべきであって、「言い訳」に使うものではありません。
 教会でバイブルスタディとか聖書の学び会とかするのであれば、まずはそういうこと教えるべきではないかな、と私は思います。

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