2017年9月29日金曜日

教会とボランティアのあやうい関係

 先日書いたメサイア・コンプレックスの記事に、ボランティア関連のコメントをいくつか頂きました。大変興味深く拝読しました。ありがとうございます。
 今回はそれを受けて、あるボランティア活動について書きたいと思います。2011年3月の東日本大震災にボランティアとして参加した時の話です。

・教会とボランティアとお金

 311発生後、被災地の一つである宮城県に、教会としてボランティアに行きました。炊き出しや物資提供や瓦礫撤去などしました。最初の2ヶ月くらい、本来の教会行事の大半をキャンセルして、被災地支援に当たったと記憶しています。
 牧師がその活動をやたらSNSでアピールしたので(SNS担当スタッフなるものもいました)、すぐに国内のいろいろな教会や団体から、物資や金銭が集まるようになりました。飲料水や食料品や生活消耗品が教会に山のように積み上げられ、整理するだけで1日掛かり、みたいな状況になりました(感謝だったことに変わりはありません)。
 そのうちに、海外の教会やキリスト教系団体からも、物資や金銭が届くようになりました。また実際に来日してボランティアに参加してくれる人々もいました。ほとんどがアジア系で、韓国や香港、シンガポールなどからでした。とてもありがたかったです。

 余談ですが震災当時、深刻な津波被害が報道されたためでしょうが、大きなゴムボートがいくつも送られてきました。念のため1つ持って行ったのですが、結果的に出番はありませんでした。ゴムボートを使って何かしなければならないような状況が、少なくとも私たちが行った地域には、なかったからです(津波被害が酷かったのは言うまでもありません)。考えてみれば、素人が被災地でゴムボートを使うのも危険だったでしょうけれど。

 ところで送られてきた金銭に関しては、「送られてきている」と聞いただけで、具体的な金額や使途は、全く知りませんでした。でも今思うとものすごく怪しいです。その時期を境に、教会の備品がアレコレ増えたからです。しかも高額なものの数々が。
 それらの金銭がどういう名目で送られてきたのか、今となってはわかりません。
 もし「義援金」であるなら、それは1円残らず被災地に届けなければなりません。ボランティアはあくまで自費でそこに行き、自費で過ごし、「義援金」を「届ける」のです。そのボランティアにギャラなど発生しません。24時間テレビとは違うので。
 しかしこれがもしボランティアに対する「支援金」であるなら、ボランティアの経費として使われて差し支えないでしょう。ボランティアで行く人の交通費や食費、宿泊費などに使われるのが「支援金」だからです(でもやっぱりギャラではありません)。
 だから届いた金銭が「義援金」なのか、それとも「支援金」なのか、明確にしなければならないでしょう。送って下さった方々がどこまでそれを意識していたか、という問題もありますけれど。
 その点うちの教会はかなりグレーだったんじゃないかと想像します。これも今となっては確認しようがないことなのですが。

 でもこれと同じ問題が、他のいくつかの教会にもあったようです。知り合いがいるいくつかの教会も被災地支援をしていて、時々合流しました。皆一生懸命でした。しかしその中には「お金を送ったのに未だに会計報告がこない」と言われている教会もあります。被災地支援をキッカケにお金に狂ってしまった教会もあります。うちもそうだったのかもしれません。

・品位が疑われる発言

 そんなあるとき、海外のある教会から大人数のボランティア参加がありました。たしか30〜40人くらいだったと思います。皆十代から二十代の若者たちで、中年の牧師(日本語を話せる)が1人同行していました。近所の教会からマイクロバスを借りての大移動となりました。
 さてその大人数で、宮城県の某所でボランティア活動をしました。その移動中のことです。私たちは津波被害の大きかった地域を川沿いに走っていました。名前はわかりませんが大きな川でした。その川の真ん中に、津波で流された家が一軒、ポツンと取り残されていました。二階建てだったと思いますが、既にボロボロで、傾いていて、屋根と二階部分が川面から出ていました。言葉にならない風景でした。
 その家を見た、先の中年牧師が笑いながらこう言いました。
「あの家にまだ人が住んでたりしてww」
 バスに乗っていた、少なくとも日本人が絶句したのは言うまでもありません。

・独りよがりなコンサート

 ボランディアをはじめて2ヶ月後くらい、つまり5月あたりですが、現地のインフラも物流も、だいぶ回復したように感じました。おそらく地域差もあったでしょうが、私たちが関わった避難所の多くがその役目を終えていました。市街地の多くの店が営業を再開し、物にも困らなくなりました。
 市街地の急速な回復と、沿岸部のそのままになった瓦礫の山、という対極的な構図が明確になった時期でもありました。

 するとボランティア活動も変化しました。物資の運搬も炊き出しも、ほとんど必要なくなったのです。代わりに教会は、地域の子供たちのためのイベントや、慰安目的のコンサートを開くようになりました。
 子供向けのイベントはある程度活況だったと思います。地域の子供たちが沢山集まってくれました。と言ってもほんの一地域での話ですが。
 コンサートの方は、教会で普段歌っている人たち(素人)が舞台に立ちました。ダンスやコントなど交えて、基本は素人の発表会みたいな形です。もちろん無料で、「復興支援」と銘打っていました。牧師はやる気マンマンでした。
 結果、コンサートにやって来たのは自教会のメンバーと、協力してくれた他教会の人たちと、被災地で知り合った人たち(数人)でした。飛び込みで入ってきた地元の人も何人かいたかもしれません。いずれにせよ会場はガラガラでした。今思うと「復興支援」というより、内輪で盛り上がっているだけでした。

 とは言え、舞台に立った人たちは皆一生懸命でした。裏方のスタッフたちもそうです。牧師に言われた通りにやっただけです。

 プロの歌手が被災地でボランティアとして歌った、という話なら聞きます。しばしば美談として。しかし素人集団が「被災者を慰めるため」にコンサートを開くというのは、正直なところどうなのでしょう。キリスト教だから、あるいはクリスチャンだから、というのは特別視される理由になるのでしょうか。
 詰まるところ、人々の関心を集め、心に響くようなクオリティの何かを提供できるなら、プロでも素人でもアリだと私は思います。逆に言うと、プロだろうがキリスト教会だろうが、そういうものを提供できないならば、コンサートであれイベントであれ「価値はない」と思います。
 歌にしろダンスにしろ、人様の前で披露する(見て頂く)事柄には、そういう厳しさがあります。そうではないでしょうか。

 しかしその手の教会が陥りやすい心理状態として、「教会だから」とか「神様が共におられるから」とかいう理由だけで、「何か特別な、すごいことができる」と思い込んでしまう、というのがあると思います。件のコンサートで言えば、「私たちが歌えば被災者たちも大いに慰められるはずだ」みたいな。でもそれは甘いし、思い上がりだと私は思います。そういう気持ちでボランティアをしても、「独りよがりな押し付け」にしかならないのではないでしょうか。

・メサイア・コンプレックス的なボランティア

 というわけで、東日本大震災の被災地でのボランティア活動を振り返りながら、クリスチャンのボランティア活動のダメだった(と私が思う)例をいくつか紹介しました。

 ボランティアというと、誰でもできる、気軽にできる、皆でワイワイ楽しくできる、みたいなイメージがあるかもしれません。たしかにそういう面もあり、そういう現場もあるでしょう。でも不特定多数の、様々な状況の人に関わる以上、最低限守らなければならないラインみたいなものもあります。
 また教会であれクリスチャンのグループであれ、何も特別な存在ではありません。たとえば被災地の方々からすれば、ボランティアに来てくれた相手が仏教徒だろうがモルモン教徒だろうがキリスト教徒だろうが、ほとんど関係ないです。要は「何をしてくれるのか」でしょう。そしてどれだけ自分たちの現状を理解してくれるかでしょう。教会が「自分たちは神を信じているのだから偉大なことができる」とどれだけ強く思っていても、全然関係ありません。

 だからボランティア活動に携わるクリスチャンの方々は、「メサイア・コンプレックス的なボランティア」になっていないかどうか、時々振り返ってみると良いのではないかなと私は思います。

2017年9月27日水曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第61話

 そんなこんなで「メボ・ルンド師の癒しとミラクルの大聖会・2014」は幕を閉じた。
 最後の賛美が終わり、溝田牧師が高らかに頌栄を唱えると、会場中からアーメンが起こった。そして緩やかなBGMが流れる中、信徒らは帰り支度をしたり、そのまま歓談をはじめたり、ルンド師のもとに駆け寄って黄色い声援を送ったりしだす。キマジメくんはパソコンを終了し、隣の音響係の青年に挨拶すると、ホッと一息ついた。
 例の4人組はやや急いだ様子で荷物をまとめると、あれこれ話しながら、そのまま会堂を出て行くのだった。「いやー今日もすごい癒しと奇跡が起こりましたな」「ハレルヤ」「恵まれましたなあ」「助祷した甲斐があったってもんです」
 どんな「癒し」や奇跡が起こったのか、正直キマジメくんにはわからなかった。あの老婦人は結局来たときと同じ様子で帰って行ったではないか。祈られた信徒たちは全員、見てわかるような病気やケガなどなかったのだから、そもそも「癒し」の効果などわからない。あの、突然腹痛を起こしたと思ったら急に回復したという男だけが、見てわかる「癒し」だった。
 しかし正直なところ、あの腹痛男はものすごく怪しいとキマジメくんは思っていた。いかにも茶番みたいだったからだ。でもクリスチャンともあろう人間が、そんな大それたことをするだろうか。神にあって良心があるのではないだろうか。偽りを憎む心があるのではないだろうか。こうやって教会に来て、神を礼拝し、祈りを捧げ、賛美を捧げる人間がそんなことをするとは、キマジメくんには考えられなかった。それにそうやって人を疑う自分自身が良くないように思えた。神様は真実な方のはずだ。
 とはいえ、やや品のない笑顔で会堂を出て行くその腹痛男を見ていると、やはり何とも言えないモヤモヤが、湧き上がってくるのだった。
「皆さん、最後にお知らせがあります」
 マイク越しに溝田牧師の声が響いた。会堂は騒がしいままだが、牧師はかまわず続ける。
「皆さん、ルンド先生のミニストリーによって癒されたという報告が沢山きています。ハレルヤ! ですのでここで、いくつか簡単に紹介させていただきたいと思います。皆さんそのままで聞いて下さい」
 会衆からにわかに拍手が起こった。まだ話している人もいるけれど、ほとんどがステージに目を向ける。ステージ上には、既に何人かの兄弟姉妹たちが並んで立っている。
 1人目がマイクを取った。
「ハレルヤ! 私は今日朝からずっと頭痛があったのですが、先生に触れられたとたん、すっかり治ってしまいました! 癒しを感謝します!」
 拍手。次の人。
「自分は腰痛持ちなんですが、ルンド先生に宣言してもらった時から少し楽になった気がします。感謝します」
 拍手。次の人。
「めまいがあって大変だったんですが、先生に手を置いてもらったら良くなりました」
 拍手。次の人。
「高血圧があって、高い時は脈が強く触れるのでわかるんですが、ルンド先生に祈っていただいてから、脈が弱くなったように思います。このまま続いてくれればいいんですが。とにかく感謝します」
 拍手。あと何人かいたけれど、どれも同じような話だった。
 溝田牧師がまとめる。「皆さん、我らの主は今日も生きておられますね! そして素晴らしい癒しの数々を現して下さいました! 私たちはその証人です。これからも主の癒しを、高らかに宣言していきましょう! アーメン!」
 アーメン、という応答が会堂中から起こる。
「では最後にもう一度、こうやって労して下さったメボ・ルンド先生に大きな拍手で感謝を表しましょう!」
 また拍手が起こった。口笛や歓声も上がる。ルンド師はゆっくり立ち上がり、会衆に向かって一礼した。そして笑顔で手を振る。
 拍手はしばらく鳴り止まなかった。
 キマジメくんは何とも言えない気分のまま、ブースから降りた。ルンド師がアメリカで行ったという数々の奇跡的な「癒し」を思い返していた。見えるようになった盲人。歩けるようになった車椅子の人。癌が完治した人。半身不随から完全に回復した人。どれも奇跡としか考えられない。ではなぜ今日、そういう奇跡が起こらなかったのだろうか。やはり日本は、まだまだ「霊的に」問題があるのだろうか。溝田牧師がいつも言うように、闇の勢力(悪霊のこと)が日本中を覆っていて、そのせいで「神の国」が阻まれているのだろうか。
 だとしたらもっと沢山祈らなければならないし、戦わなければならないだろう。そして日本を解放していかなければならない。キマジメくんは不意に暗澹なる思いになった。しかしちょうどその時、受付係の姉妹から声を掛けられた。
「キマジメくん、さっきはどうもありがとうね。助かったわー」
 酸素吸入の老婦人の件を言っているのだろう。キマジメは「いいえ」とだけ応えた。人に押し付けたくせに、と思ったけれど、それは言わないでおく。
「ところでさっきのおじさんたちのこと、聞いた?」と受付係。
「え、何ですか」
「あの4人組のこと。あの人たちね、あちこちでルンド先生の集会に参加しては、同じようなことしてるらしいわよ」
「同じようなこと?」
「そう。あの腹痛とか。急に具合が悪くなったとか言って、必ず祈ってもらうんですって」
「ええっ、やらせってことですか?」
「どうもそうらしいわよ」
 それを聞いたキマジメくんは、別の意味で暗澹なる思いになるのだった。(続く)


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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年9月24日日曜日

潜在的メサイア・コンプレックス

・メサイア・コンプレックス

「メサイア・コンプレックス」なる言葉をご存知でしょうか。「メサコン」とか略されて、主に悪い意味で使われているようですが。
 原義は「救世主妄想」とでも言うべきもので、「自分を救世主だと妄想する」みたいな感じです。キリスト教的には「自分をキリストだと思い込む」みたいになるでしょう。

 ただ本気で「自分はキリストだ」と妄想しているとしたら、それは精神疾患によるものでしょう。馬鹿にするとか倦厭するとかでなく、早く専門的な治療を受けてもらう必要があります。でもそこまで重症な人はなかなかいません。
 たぶん多いのは、そういう精神疾患でなく、健常な人が潜在的に抱えている「メサイア・コンプレックス的な何か」ではないかと思います。これは本人も周囲もなかなか気づかないので、わりと問題だと私は考えています。

・潜在するメサイア・コンプレックス的な何か

 これは「自分はキリストだ」と思っているわけではありません。キリストを自称するのはクリスチャン的にはアウトですから。そうでなく、「他者を助けてあげなくちゃ」という思いが(時として異常に)強い状態です。「私は他者を助けなければならない」「他者を助けるのが私の使命だ」くらいに思っていることもあります。

 よく教会に「やたらお節介な人」がいますけれど、あれはこの予備軍かもしれません。

 これは何かをキッカケにして、強く現れることもあります。
 たとえばですが、被災地にボランティアに行った人が、そこで支援活動に「ハマってしまう」ということがあります。人を助けること、困っている人の役に立つことに、生き甲斐を見出してしまうのです。そして夢中になってしまいます。「支援活動をしている自分」「人助けしている自分」が今までになく輝いて見えて、「あーこれが本来の自分なんだな」と思う(思いたい)からです。

 実際にこういう人を知っています。その人は阪神淡路大震災のボランティアに行きましたが、以来どこかで自然災害が起こると、必ずボランティアに出向くようになりました。東日本大震災も熊本地震も行きました。そこで身を粉にして働き、充足感を得るのでした。

 誤解のないように書いておきますが、べつにこれは悪いことではありません。むしろ人助けは良いことです。だからボランティアに行くことについて、どうこう言っているのではありません。
 そうでなく私が問題だと思うのは、「自分が助けなければダメだ」「自分が行かないと救われない」と信じ込んでしまうことです。「自分こそが正しい助け方を知っている」「自分こそが正しく導ける」というわけです。そしてそういう自分のことが好きなのです。
 でもここまで行ってしまうと、ほとんど「自分はキリストだ」と言っているのと同義ではないでしょうか。本人にはそんな意識はないかもしれませんが。

 というわけで同じボランティアをしていても、同じ支援活動をしていても、「わずかでも助けになれば」と謙虚に思っている人もいれば、「自分こそ必要な援助ができる人間だ」と思っている人もいるわけです。これは大きな違いです。特にキリスト教においては、「人はうわべを見るが主は心を見る」という言葉もあるように、後者の動機はあまり褒められたものではありません。

 だから精神疾患でなくても、「自分はキリストだ」みたいに思い込んでしまう、「メサイア・コンプレックス的な何か」というのがあります。で、教会にはこういう人が案外多いように私は思います。

・牧師×メサイア・コンプレックス

 教会のリーダーたる牧師がこの「メサイア・コンプレックス的な何か」を抱えていると、わりと大変なことになります。
 どういうことかと言うと、「この信徒たちを正しく導けるのは自分だけだ」と強烈に思い込んでしまうからです(もちろん程度の差はあると思いますが)。そうすると信徒たちにズバズバ介入していき、頼んでもいないのに助言したり、お膳立てしたりします。
 信徒の方は正直困ってしまうのですが、「先生も善意でやって下さっているから」と文句も言えません。

 でもそれは厳密に言うと、「善意」ではありません。「人助けしている自分が好き」なだけです。だから相手の都合や心情を考えずに、自分の都合や願望だけで介入するのです。
 依存的な信徒は、そういうのを嬉しく思うかもしれません。しかし牧師と信徒の関係としては病的なものがあると思います。

 これが進行すると、牧師は信徒に対して支配的になります。「自分がこの信徒を守り、幸福に導くのだ」みたいに信じているので、最終的には信徒の自由意志・自由選択をも奪うようになります。ここまで来るともう末期的なメサイア・コンプレックスだと思いますが。

 牧師×メサイア・コンプレックスという、最悪な掛け算ですね。

・行き過ぎに注意

 ただ「人助けしたい」「人の役に立ちたい」という思いそのものは、おそらく多くのクリスチャンの方が持っていると思います。異常なことではありません。問題はその「度合い」です。行き過ぎてバランスを欠くと、ロクなことになりません。他の多くのことにも言えますが、なんでも行き過ぎには注意が必要です。

 例外的に、「相手が望まなくても介入しなければならない事態」というのはあると思います。いろいろなケースがあるので一概に言えませんが、たぶん専門的な領域がほとんどでしょう。やはり一般的には、「行き過ぎには注意」と考えた方がいいような気がします。

2017年9月21日木曜日

インナーヒーリングの功罪

・キリスト教的?「インナーヒーリング」

キリスト教プロテスタント系教会の活動の一つに、「インナーヒーリング」というのがあります。
 プロテスタント系と言っても、聖霊派や福音派に限定されると思いますが。

「インナーヒーリング」は日本語で「内なる癒し」になると思いますが、「心」に焦点を当てた活動です。いわゆる「心」に関する「癒し」です。たとえば日本では「エリ◯ハ◯ス」というのがあって、知り合いが何人か体験し、私自身も誘われたことがあります(実際には受けませんでした。教会奉仕が忙しすぎたので)。
 体験した知り合いは皆「良かった」と言っていました。つまり何かしら「癒された」というわけです。でもそれから長い年月が経った今だから言えることは、「根本的には何も解決していなかった」ということです。まあいろいろ反論もあるでしょうが。

 つまり「インナーヒーリング」を受けた人は、受けた直後はイロイロ良いことを言いますが、結局のところ同じような問題で悩み続けている、ということです。

・その効果判定は

「インナーヒーリング」の効果判定が難しいのは、それが「心」に関するものだからです。
 身体の病気や怪我なら、治ったかどうかわかりやすいでしょう。擦り傷なら一目瞭然です。でも「心(精神)」はそうはいきません。何をもって「治った」とするか、微妙だからです。それでも目に見える症状(幻覚妄想や鬱など)の有無ならわかるでしょう。しかし見えない症状だとわかりづらいです。また「心」の問題は、仮に本人が「もう大丈夫」と言っても、まわりの人からしたら全然大丈夫じゃない、ということもあります。あるいは長い目で見たときに、何も変わっていなかった、ということもあります。

「心」とは難しいものです。

 たとえば何かのカウンセリングを受けた人が、一時的に状態が改善することがあります。それは「話を聞いてもらえてスッキリした」という心理もあるでしょうし、「時間と費用をかけてカウンセリングを受けたのだから効果があるはずだ」という心理もあると思います。あるいは「エリ◯ハ◯ス」みたいな海外から入ってきた目新しい(もう目新しくもないですが)方法論だからすごい効果があるはずだ、著名な牧師やクリスチャンが勧めるのだから効き目があるはずだ、みたいな期待感も関係していることでしょう。

 そのような心理的作用もあり、受けた人の多くは、「効果があった」と言うようになります。他者に熱心に勧めるインナーヒーリング・アンバサダーになる人もいます。
 でも実際にその人のことをよく知っている人からしたら、「実は変わってないんじゃないの」というのが本音だったりします。でもハッキリそう言って傷つけるのも嫌なので、温かく見守ることに甘んじている人もいます。現に私がそうなのですが。

・過去志向、あるいは過去捏造

「インナーヒーリング」は、英語で言うところの「記憶の癒し」がメインになります。
 その人の過去(多くは幼少期)に戻って、その人の心に決定的なダメージを与えた出来事や人間関係を探っていくからです。
 そして特定された原因を「イエス・キリストの御名」によって「断ち切る」とか「許す」とか「手放す」とかします。すると原因が根治されて、その結果として現れていた「生きづらさ」や「苦しさ」や「過大なストレス」から解放される、ハレルヤ、というわけです。

 でも単純に考えてみて、「記憶」を「癒す」ことはできません。事実は事実として変わらないからです。たとえばですが、犯罪の被害に遭われた方は、多少の差はあれ「心」にダメージを負っています。クリスチャンだからと言ってそれが全然平気になるなんてことはありません。
 実際、酷い犯罪被害に遭われた方で、精神的に深刻なダメージを負っている人たちがいます。彼(彼女)らの傷の深さは想像を絶していて、掛ける言葉がありません。今もフラッシュバックや、その他の様々な症状に苦しんでいます。「インナーヒーリングをすれば癒されますよ」なんて誰が言えるでしょう。私には言えませんが。

 また「インナーヒーリング」は、人を「過去」に執着させます。幼少期のあれが問題だった、これが問題だった、あんなことがあったから今こうなんだ、という過去志向の「治療法」です。だから過去さえ治せれば、現在と未来が変わる、という主張です。

 しかし実際にどうかと言うと、「インナーヒーリング」を受けてもなかなか変わらない、というのが現実としてあります。するとどうなるでしょう。その人はさらに過去へ、さらに過去へ、という「過去への旅」を繰り返すことになります。いつ終わるとも知れません。しまいには本人も覚えていないようなアレコレを提示されて、「きっとそういうことがあったんだろう」と納得しなければならなくなります(これは下手すると「過去の捏造」にも繋がります)。

 でも記憶にない出来事で、どうやって心が傷つくのでしょうか?

 たとえば百万円を盗まれたとしても、その被害を全く認識しておらず、自分が百万円を持っていたことさえ覚えていないとしたら、傷つきようがありません。それを後から教えられても、「え、本当に?」と言うしかないでしょう。
 あるいは「あまりにも酷い出来事だったので記憶がなくなっているのだ」と言うかもしれません。でもそこまで酷くて記憶がなくなっているなら、あえて思い出させる方がダメージになります。そもそも言及するべきではありません。

・現場で何が起こっているか

 実際に行われている「インナーヒーリング」の現場では、肉親が悪者扱いされることが多いです。特に「幼少期に父親から暴力を振るわれたのが◯◯の原因だ」みたいに、父親が元凶にされることが多いです。いくら本人が「そんな父親ではありません」と反論しても、「いや、あなたが覚えていないだけだ」と言われてしまいます。

 要は、「インナーヒーリング」の現場においては、「記憶にないけど酷かった体験」が必要なようです。そしてその体験のせいで深層心理のレベルに深い傷ができていて、それが現在のあなたに悪影響を及ぼしているんだ、という「筋書き」にしたいようです。そうすれば本人は「埋もれていた過去を探ってもらえて、癒しを受けることができた」と考えるようになるからです。

「エリ◯ハ◯ス」を受けた知り合いに、「父親を悪く言われて正直腹が立った」と言う人がいます。その人に関して言えば、教会のにわか「インナーヒーリング」なんて受けない方がまだ良かったでしょう。「苦い根」を取り除かれるはずが、余計に植え付けられてしまったのですから。

 また冒頭に書いた通り、受けて「良かった」と言う人はいますが、結局のところ根本的には何も変わっていない、というケースが多く見られます。もちろん全例を見たわけではありませんが。

・「インナーヒーリング」の功罪

 さて「功罪」というタイトルの記事を書きましたので、「罪」の部分だけでなく、「功」の部分も書かないとフェアではないですね。
 でもごめんなさい。たとえば「エリ◯ハ◯ス」を受けた人が、自分でどれだけ高評価を付けたとしても、結果的に「受けて良かったですね」と言えるケースを私は知りません。「効果があったと思いたい」人なら沢山知っています。でもそういう彼らはどちらかと言うと、被害者ではないでしょうか。

「エリ◯ハ◯ス」に実際に目覚ましい効果があり、打ちひしがれた「心」を回復して再起させる力があるのなら、何より臨床心理の現場で用いられるべきでしょう。アンバサダーの皆さんは、狭いクリスチャン界隈で細々と宣伝するのでなく、医療保険の適用になるよう尽力されるべきではないでしょうか。それこそがキリスト教の社会貢献だと私は思います。

・関連する過去記事

2017年9月18日月曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第60話

  メボ・ルンド師は、酸素吸入の老婦人の真向かいに座った。そして婦人の両肩に手を置いた。真剣な顔でしばらく目を閉じ、何やら呟く。英語とも何とも言えない言葉だった。もしかしたらインディアンの言葉かもしれない。キマジメくんに判断する術はなかった。
「皆さんも、心を合わせて、このご婦人のために祈って下さい」
 溝田牧師が言う。「ご婦人に手を伸ばしましょう」
 すると周囲の信徒らが一斉に手を挙げた。老婦人を中心に、大きな輪ができたような形だ。そして誰ともなく「異言」で祈りはじめる。「助祷」の4人組も距離を詰めている。
 溝田牧師の合図で、奏楽が徐々に盛り上がっていく。ドラムが激しく叩き、エレキギターは高音で鳴く。コーラスらはウーウー唸る。明らかにクライマックスがきた。
 メボ・ルンド師も大きな声で「異言」を唱えはじめた。映画で見たインディアンの言葉のようなイントネーションだ。老婦人の隣にいる金田一帽子の婦人は、合わせた手をスリスリ擦っていて、おそらく仏教か何かと勘違いしているようだ。
 キマジメくんは、老婦人が今にも酸素吸入のチューブを外し、力強く立ち上がるのではないかと思った。ルンド師がアメリカで行ってきたという多くの「癒し」の瞬間を思い描いた。「日本でも大いなる癒しが起こった」ともなれば、これはすごいことだ。教会は一気に注目を集めることだろう。
 ルンド師の「異言」が止み、今度は英語で力強く語りはじめた。溝田牧師がすかさず通訳する。「このご婦人に、主の御名によって宣言する。肺の病よ、今すぐ退きなさい! その細胞の隅々まで、健やかになりなさい! 今、異常な細胞は、一つ残らず消えていきます!」
 大きな「アーメン」が起こり、さらに奏楽が盛り上がる。みな叫んでいる。その喧噪のなかでルンド師が大声を発する。「完全な癒しを宣言します!」
 今度は拍手が起こった。イヤアッとかヒューッとかいう欧米風の合いの手も起こる。何人かの姉妹が、金田一帽子に代わる代わるハグしている。金田一帽子は涙目になって、それでもまだ両手をスリスリやっている。
 ところで酸素吸入の老婦人に、特に変わった様子はない。座ってゼイゼイしている。酸素吸入を外すわけでも、立ち上がるわけでもない。
 喧噪が止み、奏楽も静まったところで、ルンド師が優しい口調で彼女に語りかけた。「ご婦人、癒しは徐々に起こっていくでしょう。これから毎日、信じて宣言し続けて下さい。その宣言に、主がたしかに働かれることでしょう」
 溝田牧師が通訳し終えると、また拍手が起こった(「癒し」は起こっていないのだけれど)。
 さて、中断されていたミニストリーが再開された。信徒はまた講壇前に集まり、ルンド師と溝田牧師が順々に祈っていく。キマジメくんはブースに戻った。受付係と目が合うと、彼女は「ありがとう」と口真似して両手を合わせる。キマジメくんは軽く頭を下げてそれに応えた。
 酸素吸入の老婦人たちはもう帰るようだった。金田一帽子が周囲の姉妹たちに何度も頭を下げ、ジャージの女性が荷物を整理している。老婦人は両脇を抱えられ、ゆっくり歩いていく。受付係と二、三言葉を交わすと、そのまま会堂を出て行った。金田一帽子が最後、講壇の方に向かって頭を下げた。
 それから数分後、「助祷」の4人組の1人が、突然その場にしゃがみ込んだ。両手で腹を押さえている。「ううっ、腹が、腹が・・・」そのまま倒れこむ。他の3人が駆け寄って、声をかける。 周囲がざわつく。男たちの1人が大声で叫んだ。
「ルンド先生! 急病人です。癒して下さい!」
 溝田牧師が通訳しなくても、ルンド師はその状況を理解したようだ。ミニストリー中だった相手に「スミマセン」と言うと、大股で歩いてくる。溝田牧師も付いてきた。ルンド師は倒れている男に手を置くと、英語で早口で何か言った。それからしばらく「異言」を続ける。溝田牧師は何も言わない。
 すると男がスクッと起き上がった。「あれ、痛くない! 急に痛みが消えたぞ!」
「癒しが起こったんだ!」別の男が叫ぶ。「ハレルヤ!」
 やや沈黙があったあと、拍手が起こった。
 キマジメくんは呆然とその様子を眺めていた。今のはいったい何だったのだろう。なんとも言えない思いが胸につかえて、出てきそうになかった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年9月15日金曜日

クリスチャンの「熱い祈り」は必ず聞かれる?

・映画『ダンケルク』

 今回は、現在公開中の映画『ダンケルク』の話から始めます(日本では9月9日に公開されました)。
 第二次世界大戦中に実際にあった「ダンケルクの戦い(ダイナモ作戦)」を題材にした、クリストファー・ノーラン監督の戦争映画です。


 ナチス・ドイツの攻勢によりに、英仏軍はフランス北端のダンケルクまで追い詰められ、包囲されました。ダンケルクはドーバー海峡に面していて、もう逃げ場はありません。40万の兵士があわや全滅か、という場面でした。
 そこでイギリス軍が考えたのが、ダイナモ作戦でした。イギリスのありったけの船舶(民間船も含む)をダンケルクに派遣して、海路で兵士をできるだけ多くイギリス本土に帰還させよう、というプランです。

 映画は1人の若いイギリス兵を中心に、市街地から海岸へ、海岸から船へ、その船が沈没してまた海岸へ、そしてまた別の船へ、という逃避行を緊迫感マックスで描いています。秒針がチクタクする音がBGMになっていて、なんだかとっても疲れました。ちょっと大袈裟かもしれませんが、自分も戦場に投げ出されたような感覚、と言えるかもしれません。

 で、これは史実なので結末はわかっているのですが、結果的に約36万の兵士たちが無事帰還を遂げます。作戦成功だったわけです。ちなみに先の若いイギリス兵も、ギリギリのところで助け出され、無事帰国しました。戦争映画でこう言うのもアレですが、いわゆるハッピーエンドです。

・クリスチャンの「熱い祈り」のおかげ?

 ところでこの話ですが、以前あるキリスト教会で、こんなふうに聞いたことがあります。
「ダンケルクに包囲された兵士たちのため、イギリスのチャーチル首相が、奇跡を祈るよう国民に呼びかけた。イギリス国民は断食して神に祈った。すると不思議なことにナチス・ドイツの攻勢が止み、兵士たちは全員無事に助け出された。ハレルヤ!」
 だいぶ端折ってますが、こんな感じでした

 その教会によると、ダイナモ作戦の成功は、イギリスのクリスチャンたちの「熱い祈り」による奇跡だった、というわけです。自分の船を差し出した多くの民間人の熱意や、実際に現地で戦った兵士たちの勇気でなく。

 当時はダンケルクのことなんて全然知りませんでしたから、私は「へえすごい」と単純に思いました。あまりにも無知でした。
 でもこうして映画を見てみて、いろいろ調べてみると、「説明不能な奇跡が起こった」と考えるのはさすがに無理があるのがわかります。実際ドイツ軍が全然攻撃しなかったなんてことはないですし、イギリス兵は3万人くらい捕虜になっています。亡くなった兵士たちも大勢います。おそらくイギリスのその手のクリスチャンたちは「熱く祈った」のでしょうが、ちょっと話を盛りすぎじゃないでしょうか。

 そういえば同じような例が他にもあります。たとえば1989年の「ベルリンの壁崩壊」については、同じ教会で、こんなふうに聞きました。
「ベルリンの壁の崩壊を願い、あるクリスチャンが祈り始めた。すると本当に崩壊が実現した」

 なんとなく、こう言っているように聞こえます。
「歴史上の偉業の背後には、いつもクリスチャンの熱い祈りがあるのだ」=「私たちクリスチャンが歴史を動かしているのだ」=「実は私たちが世界の中心なのだ」
 たぶん当人たちはそこまで意識していないでしょうが、要はそういうことだと私は思います。

 あるいはもしかしたら、本当に「クリスチャンの熱い祈り」がダイナモ作戦を成功に導き、ベルリンの壁を崩壊させたのかもしれません。それを否定する明確な根拠は、ありません。
 しかし同時に言えるのは、それを肯定する明確な根拠もない、ということです。

 祈ったから成功した、祈ったけど失敗した、というふうに言うのは、祈りを定量化することに他なりません。すると、◯◯を成功させるにはコレコレだけ祈ればいい、という一定の基準を設けることになります。そういう基準がないと、「祈ったから◯◯できたんだ」と断言できませんから。でもそんな基準も表現も、聖書のどこにもありません。

 たとえばですが、私があなたに、こう言うとします。
「あなたが今日、何のトラブルもなく1日無事に過ごせたのは、この私があなたの無事を祈ったからです。私の祈りであなたは今日1日無事だったのです。ハレルヤ!」
 さて、あなたはこれが私の妄言だと、どうやって証明できるでしょう。あるいはそれが私の妄言でないと、どうやって証明できるでしょう。

 厳密には、どちらも証明できません。

・「感動」や「ドラマ」で盛られた教会生活

 そもそも、本当にクリスチャンの「熱い祈り」が「実際的に」世界を動かしてきたのなら、世界はもうちょっとマシになっているんじゃないでしょうか。
 ナチス・ドイツの大軍を奇跡的に抑えることができたのなら、ホロコーストだって止められたはずでしょう。世界各地の数々の大虐殺だって止められたはずでしょう。現在進行形で起こっている悲劇だって、「熱い祈り」で止められるんじゃないでしょうか。

 北朝鮮問題を取り上げて、「朝鮮半島の統一のために」現地に祈りに行った人たちがいます。あるいはアメリカに、「火の裁きが下る」と預言しに行った人たちがいます。あるいは日本の「分断された東西の和解のために」祈りの旅に出た人たちがいます。でもその結果は? 彼らが関係者から注目され、賞賛され、いい気分になっただけです。実際には何も起こっていません。

 その手の「クリスチャン」の話は、成功例だけ取り上げて、「我々が祈ったからだ」と「後付け」しているだけだと思います。その証拠に、何の根拠も提示できません。ただ言い張っているだけです。

 また、上述のダイナモ作戦にしても、「奇跡的にドイツ軍が止まった」とか「全員救出された」とか、話が脚色されています。なぜ脚色するのでしょうか。それはクリスチャンの祈りを、あるいは教会活動を、感動的でドラマチックなものに仕立て上げたいからです。地道な活動ではつまらないのです。彼らにとっては。いつも劇的な何かが起こって、笑ったり泣いたりしていないと、「命のない教会」「死んだ信仰」になってしまうのです(彼らに言わせると、オーソドックスな教会は「いのちのない教会」になってしまいます)。

・「熱い祈り」などと自分で言うものではない

 というわけで、「熱い祈り」が必ず歴史的偉業を達成すると断言することはできません。でもそれを平気で断言する教会や牧師がいますので、本当に注意が必要です。

 そもそもですが、「熱い祈り」などと自分で言うものではありません。何をもって「熱い」とするのか、誰それの祈りはなぜ「熱くない」と言えるのか、自分の祈りだけはなぜ「熱い」と言えるのか、そのへんが全然わかりませんから。

2017年9月12日火曜日

クリスチャンは「やられっぱなし」の無抵抗主義なのか

 先日「体罰」問題について書きましたが、ちょっと補足したいと思います。


 ただ、「暴力はどんなものであれダメ」という私の主張は変わりません。
 特に教育現場での「この場合は仕方ない。暴力でわからせるしかなかった」みたいな「仕方のない暴力」には、異を唱えます。前回の繰り返しになりますが、それは「教育」でなく「恐怖によるコントロール」に他なりませんから。

 では何を付け加えるかと言うと、「降りかかる暴力にどう対処すべきか」「暴力に対して無抵抗でなければならないのか」みたいな点についてです。
「力でわからせてやろう」という「暴力を振るう側」の話でなく、「暴力を振るわれる側」の話です。

・暴力に何で対抗すべきか

 少し個人的な話になりますが。

 私は看護師として働いていて、精神科病棟を手伝うことがあります。
 精神科の仕事は、もちろん一口に語ることはできませんが、一例を挙げると「暴れる患者さんの対処」があります。
 暴れると言っても患者さんは(例外もあるでしょうが)故意に暴れるわけではありません。本人にもどうにもならない精神症状の一つとして、「暴れざるを得ない状況」になっているわけです。現場では「自傷他害の危険あり」みたいに言います。
 で私たち看護師がどうするかと言うと、まずは対話を試みます。話し合いで解決すれば、それが最善でしょう。患者さんは暴れていても、話を聞く余裕はあったりします。
 でも、対話ではどうにもならないこともあります。あるいは緊急性が高くて対話の余裕がない場合もあります。今すぐ取り押さえないと誰かが怪我するかもしれない、みたいな状況です。その場合は医師の判断と指示に基づいて、薬を投与したり、一時的に身体を拘束したり、保護室に入れたりします(ちょっと面白い例として、医師の顔を見ると急に落ち着く患者さんもいます)。
 ただ薬を投与するにしても、拘束するにしても、暴れる患者さんを取り押さえて(一時的に)動けなくしないと、何もできません。だから複数人で取り押さえることがあります。もちろんそれは最終手段なのですが(念のため書いておくと、やむを得ない場合の拘束は法的に認められています)。

 でこの「取り押さえる」という行為が、「力に対して力で対抗する」ということだと私は思います。ただ、それは暴力ではないとも思います。患者さんを取り押さえて制止することと、殴ったり蹴ったりして傷つけることとは、全然違うからです。

 看護師の倫理原則の一つに「無害の原則」というのがあります。これは患者さんにとって有害なことをしない、というような意味です。殴ったり蹴ったりするのは、もちろん有害なのでしてはいけません。しかし暴れてしまって自身や他人を傷つける恐れがある患者さんを取り押さえるのは、その瞬間の患者さんには有害に感じられるでしょうが、結果的には害を防ぐことになります。
 だから「暴力に暴力で対抗すること」と、「暴力に力で対抗すること」は、根本的に違うと私は考えています。

 ちなみに現場の例として、暴れて拘束されることが多い患者さんが、「(何をするかわからないから)縛ってくれ」と自分から申し出てくることがあります。拘束された方が結果的に良い、と体験的に知っているからかもしれません。

 またこれは医療現場だけの話ではありません。
 たとえばですが、ひどい殴り合いのケンカが始まったら、周囲の人たちが止めに入ると思います。何人かで後ろから羽交い締めにするなどして、ケンカしている本人たちを動けなくするでしょう。これは「力」で制することではありますが、暴力ではありません。殴ったり蹴ったり首を絞めたりしたら暴力ですが、取り押さえて危険を避けるのは、暴力ではありません。そういうことです。

 以上のような観点で、件のビンタ事件を考えてみましょう。
 ドラムのソロで暴走した中学生を制止するのに、ビンタ(という暴力)である必要があったのでしょうか。痛めつける必要があったのでしょうか。両手を抑えれば済んだのではないでしょうか。あえて攻撃して痛めつけるというのは、制止しようとしただけでない、悪意を含んでいる気がします。

・キリスト教は何と言っているか

 ではもう一歩進めて、キリスト教的には暴力にどう対処すべきなのか、考えてみましょう。

 この文脈でよく引用されるのが、「右の頬を叩かれたら左の頬を出しなさい」というアレです。私自身、前回の記事でも引用しました。
 これは無抵抗・非暴力を表しているように聞こえます。暴力を否定する以上に、「やられっぱなし」を推奨しているようにも思えます。

 でもこれは本当に「やられっぱなし」を意味しているのでしょうか。

 どれくらいのクリスチャンの方が、もし暴力を振るわれた時、文字通り「やられっぱなし」に甘んじるのでしょう。何の非もないのにいきなり殴られて、それでも文句一つ言わずに許す人がどれくらいいるでしょう。私の知る限りではほとんどいないのですが。皆さんはいかがでしょうか。

 実を言うと私自身、この箇所には若干の疑問を感じていました。あまり本気で調べようともしなかったのですが。でも今回ちょっと調べてみて、なるほどと思った解釈があったので、紹介させていただきます。


 要約してみましょう。
 右の頬を殴るとは、右手の甲で(裏拳みたいに)殴ること。これは(右利き人口が圧倒的に多いという理解のもとで)主人が奴隷を殴る図である。相手が奴隷だから、手のひらで殴ると汚れる、と。あるいは奴隷でなくても、相手を侮辱的に扱うという意味もある。
 で、殴れらた奴隷が左の頬を出すというのは、「今度は手のひらで殴れ」=「私たちは対等な立場なんだ」=「奴隷扱いするな」という無言の主張になる。主人を奴隷の立場に引き降ろすという意味もあるかもしれない。と。

 これは、ミネコさんも書いていますが、「暴力に暴力でない方法で対処しなさい」みたいな解釈だと思います。決して「やられっぱなし」を推奨しているのではない、ということになります。
 もっともこれは、ミネコさん自身もネットで拾ってきた解釈のようですが。

 でもこれなら私もかなり納得です。暴力に屈しない、でも暴力は使わない、という意味で

 というわけでやはり、キリスト教は暴力を否定していると私は考えます。決して無抵抗というわけでなく、主張はすべきですが、その方法は暴力ではない、ということだと思います。

2017年9月10日日曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第59話

 受付係はキマジメくんに仕事を押し付けると、早々にデスクに戻って行った。自分だって暇なはずなのに。彼女は金田一帽子にもうしばらくお待ち下さいと笑顔で告げると、またキマジメくんの方を見た。そして「早く行け」と無言の圧力をかけてくるのだった。
 講壇前ではルンド師と溝田牧師が「癒しのミニストリー」を続けている。今は中年女性の頭にルンド師が手を置いていて、溝田牧師が彼女の耳もとで日本語通訳をしている。1人1人にずいぶん時間がかかっている。ざっと測ったところ、5分から10分くらいだ。通訳中の溝田牧師に声を掛けるわけにはいかない。掛けたらえらく怒られるだろう。だからチャンスは祈り終えてから次の人に声をかけるまでの間だ。その間に牧師を捕まえるしかない。それが現実的だと思われた。
 キマジメくんはすぐ隣にいる音響係の若者に「ちょっと離れます」と声をかけて立ち上がる。音響係もパソコンをいじることができるので、もしもの時は対応してくれるはずだった。もっともミニストリー中にパワーポイントをいじることはないだろうけれど。音響係は快く頷いてくれた。彼とはあまり話したことはないが、いつも何かと親切だった。キマジメくんは軽く頭を下げると、パソコンから離れた。
 そしてブースを出て歩く。すぐに「助祷」4人組の壁にぶつかった。真ん中の2人の間を横向きになって通り過ぎる。何となく、ぶつかりたくなかった。通過する時に汗の嫌な匂いがした。どちらの男の匂いかわからなかったけれど、不潔な服装といい不快な汗の匂いといい、やはり(そう表立って言うことはできないけれど)関わりたくない人種だ。
 そして人がまばらに座った会衆席を抜け、講壇前の群衆にぶつかる。人がほとんど隙間なく立っている。すみませんと声をかけながらその間を縫って進む。群衆を抜けるともう舞台だ。奥の方に楽器の奏者がいるだけで、舞台上はガランとしている。
 さて、お目当の溝田牧師まで距離2メートル程となった。まだ中年女性へのミニストリーが続いている。でもそろそろ終わっていい頃だ。終わったタイミングで捕まえなければならない。チラと受付係の方を見た。けれど群衆に阻まれて何も見えない。もっとも、見えなくて気が楽だった。
 あとは待つだけだ。キマジメくんはジリジリと距離を詰め、牧師まであと1メートル程となった。これならほぼ終わった瞬間に、溝田牧師に触れることができる。そして手短に事情を話せば、このミッションは完了だ。

 これまでの溝田牧師とのやり取りが思い出される。礼拝に寝坊して怒られたこと、ビデオの操作がうまくできなくて怒られたこと、ポスターの仕上がりが悪くて怒られたことなど、なぜか怒られたことばかりが想起された。それらが自分にとって必要な「訓練」だったと、理解することはできる(牧師自身そう説明していた)。でもどこか理不尽な気もするのだった。あれは本当に怒られなければならないことだったのか。他の人も皆あんなふうに怒られているのか。失敗したら怒るのが神様のやり方なのか。
 しかしいずれにせよ、溝田牧師にはあまり近づきたくない、というのが正直なところだった。それが良くないことだと、わかっている。でも事実なのだから仕方がない。いつかこの思いも変化するのだろうか。クリスチャンとしてもっと成長すれば、牧師と正しい関係や距離感を築けるようになるのだろうか。
 わからないけれど、そう期待するしかない。
 とにかく今こうしている間も、キマジメくんは溝田牧師に話し掛けたくはなかった。だからこんな話を振ってきた受付係のことが恨めしい。もちろんそんなふうに考えてはいけないのだけれど。

 しかしキマジメくんの悪い予感とは裏腹に、溝田牧師は好意的な反応を示した。
 通訳が終わった後の沈黙を捕まえて、キマジメくんは牧師の耳もとでささやいた。「先生、病気で長居できない方がいらしてます」
 溝田牧師はキマジメくんの指す方を見た。群衆に邪魔されていたけれど、酸素吸入の老婦人の姿が垣間見えたのだろう。一瞬の逡巡の後、牧師は言った。「先に祈ってほしいって?」
「はい」
「わかった」
 溝田牧師はルンド師の耳もとまで行って、手短に何か話した。ルンド師は何度か頷いた。
「場所を開けて下さい」溝田牧師がそう言うと、すぐに群衆が分かれた(キマジメくんはそれを見て、モーセの割れた紅海を連想した)。
 そしてルンド師と溝田牧師は、まっすぐ酸素吸入の老婦人のもとへ向かう。金田一帽子が嬉しそうに近づいてきた。「先生、母のために祈ってあげて下さい」
「どうしましたか」と溝田牧師。
「母は肺ガンの、もう末期なんです。もう呼吸も苦しくて、酸素吸入しないとダメなんです。体も弱ってしまってここまで来るもの大変でした。タクシーが道を間違えたもんですから・・・」延々と続きそうな話を遮って、牧師はルンド師に簡単に説明した。ルンド師は「オーケイ」と子供に言い聞かせるような丁寧な口調で言う。そしておもむろに老婦人に手を置いた。
「助祷」の4人組がいつの間にか近づいていて、ほとんど老婦人を取り囲むように立っている。そして激しい「異言」を始めた。ここが正念場だと判断したのだろう。ルンド師は眉間にシワを寄せて、しばらく黙っていたけれど、また目を開いて溝田牧師を見た。「ではこの婦人のために、癒しを宣言しましょう」(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2017年9月8日金曜日

暴力は「神の愛」に含まれるのか

・ビンタ事件

 ジャズのコンサート中のビンタ事件が、物議を醸しています。
 ジャズ界の大御所が中学生たちを何ヶ月か指導して、いざコンサートへ。そこでドラマーの中学生がソロパートで暴走。大御所が注意しても止まらず、最後はスティックを取り上げて罵倒してビンタするに至った、という話題の出来事です。
 まだ連日テレビで取り上げられていますので、ご存知の方も多いと思いますが。

 これはいわゆる「体罰」問題ですが、例によって賛成派と反対派で、意見が分かれています。SNSでも連日のようにこの手の議論を見ます。でも本件に関しては、「予定調和を乱した少年が悪い」という「被害者に非あり」の声がやや大きいように見えます。加害者がジャズ界の大御所だということ、少年もその親も非を認めていること、など関係しているようです。だからあの暴力は仕方がなかった、教育的に必要だった、時にはあのような「罰」も必要なのだ、みたいな話になっているようです。

 ですが私個人は、それは違うと思います。
 どんな事情であれ暴力は暴力で、「仕方のない暴力」などない、と思うからです。
 下記のブログを読んでも、やっぱりそうだなと思いました。ちなみにこのリンク先の記事は「ジャズの世界」についてもわかりやすく解説してくれているので、本件の本質を理解するうえでも、助けになると思います。


・「仕方のない暴力」とは

 さて「仕方のない暴力」とは、存在するのでしょうか。
「時には力づくで制止しなければならないこともある」というのが、擁護派の意見の一つでしょう。なるほど子供の「暴走」を止めるには、コラッと殴りつけるのが簡単で効果的かもしれません。その「痛み」で、子供は何かを学ぶかもしれません。
 でもそれは教育でなく、恐怖によるコントロールです。

 今回の被害者は、まだビンタ一つで止められる中学生です。ちょっとの「力づく」で制止できる相手でした。でももしこれが中学生でなく、屈強なマッチョ男だったらどうでしょう。たとえば『トランスポーター』のジェイソン・ステイサムだったら。大御所は同じようにビンタしたでしょうか。きっとしなかった(できなかった)でしょう。それはナゼですか。相手が自分より「強そう」だからです。

 子供を「仕方なく」ビンタしても、マッチョ男を「仕方なく」ビンタしません。
 ということは、「仕方がない場合に暴力を行使する」というのは成立しなくなります。仕方がなくても暴力を使わないことがあるからです。
 ではなぜ中学生を殴ったのでしょう。「殴っても大丈夫な相手」だったからです。殴っても反撃してこず、文句も言ってこない相手だったからです。

 要は、「仕方のない暴力」というのは、暴力を振るった側の論理なのです。と私は思います。

・信頼関係があれば?

 またもう一つの擁護意見に、「信頼関係があれば適度な暴力はむしろ効果的に働く」というのがあります。でも信頼関係の有無とは、どうやって認めるのでしょう。
 片方が感じている「信頼感」と同じものを、もう片方も感じているとは限りません。確かめようもありません。たとえ双方が「自分たちには信頼関係がある」と言っても、片方(とりわけ立場の弱い方)が、実はそう言わざるを得ないだけかもしれません。「信頼関係がある」と言っておかないと、あとで自分が不利になるかもしれないからです。

 教師と生徒とか、師匠と弟子とか、上司と部下とか、そういう上下関係における「信頼関係」には、そういうことがままあります。

 また、殴られた側が、「あれは自分には必要な暴力だった」と言って、殴った側を擁護することがあります。「あれのおかげで自分は変わることができた」と。中にはそう感じる人もいるかもしれません。でも自分がそうだったからといって、全ての「体罰」被害者に同じものを求めるのは見当違いです。

・教会における「体罰」問題

 この手の「体罰」問題は、一部のキリスト教会でも見られます。
 若者を指導する牧師が、「訓練の一環」として、また「信頼関係」のもとで、若い子たちをひどく叱責したり、殴ったりするのです。牧師の側はそれを「愛のムチ」とか、「神による厳しい取り扱い」とか言ったりします。そうやって暴力を正当化するのですが。

 これは一般の「体罰」と違い、「神の愛」とか「弟子訓練」とかいう宗教的論理(?)にも支えられています。だから子供が殴られて帰ってきても、親はなかなか文句を言えません。むしろそれを擁護することさえあります。その場合、子供は悲惨です。教会でも家でも責められて、逃げ場がなくなってしまいますから。

 と言っても、若者を指導する牧師の全員が、同じように若者たちを殴るわけではありません。殴る牧師もいれば、殴らない牧師もいます。では殴らない牧師は、「神の愛」に欠けているのでしょうか。殴る牧師は「愛深い」のでしょうか。私が見たところ、殴る牧師は感情に任せて激昂しているだけですが。

・暴力は「神の愛」ではない

 教育の現場に「感情的な激しい怒り」や「暴力」を持ち込むと、もはや教育でなく、恐怖によるコントロールになります。殴られた方は「恐怖(暴力)を避けなければ」というのが行動原理になり、ほとんどそれに縛られてしまいます。そして多少の差はあれ、正常な判断力を奪われてしまいます。

「殴られたおかげで大切なことを学べた」と言う体罰擁護派の人は、もしかしたら「暴力を振るわれた自分」を正当化したいのかもしれません。酷い体験だったけれど、もはや訂正できない事実なので、「あれで良かったんだ」と自分自身に言い聞かせたいのかもしれません。おそらく無意識的に。

 言うまでもないことですが、暴力(とりわけ子供に対する暴力)に「神の愛」が反映されているなんてことはありません。聖書のどこを読んでも、キリストが「教育のために」弟子や女子供を殴ったなんて記述はありません。いわゆる「宮きよめ」の場面でさえ、人に対して危害を加えていません。キリストご自身、「右の頬を叩かれたら左の頬を向けなさい」と言っていますから、暴力を行使することは、明らかにキリスト教の理念に反しています。
 だから弟子訓練だとか何だとか言って信徒を殴りつける牧師がいたら、それはニセモノです。よくよく注意しましょう。

2017年9月3日日曜日

キマジメ君のクリスチャン生活 第58話

  賛美を歌い終え、楽器の演奏だけが続く。溝田牧師が手を挙げて言う。
「では皆さん、癒しのミニストリーを始めます。これからルンド先生が1人1人に手を置いて祈って下さいます。皆さん、祈り心で備えましょう」
 講壇前に集まった群衆が、一様に手を挙げて、「異言」で祈りはじめた。賛美リーダーとコーラスは控えめな歌声で再び歌いはじめる。ルンド師はさっそく一人目の信徒に声をかけ、どんな悩み事があるのか尋ねた(キマジメくんの位置では話の内容は当然聞こえないけれど、おそらくそうだろうと想像した)。溝田牧師がその間に入って、通訳している。 
「癒しのミニストリー」の流れは基本的にシンプルだ。ミニスターが相手の悩みや願いを聞き、手を置いて祈る(宣言も含まれる)だけだ。時には長く祈ったり、助言やアドバイスをしたりすることもある。けれど今日のように30人も40人も控えている場合、一人一人に割く時間は当然短くなる。
 キマジメくんは同じような「ミニストリーの時間」を見たことがある。テーマは「癒し」でなく、もう何だったか忘れてしまったけれど。大きな会場で、ざっと二百人以上が列を作っていた。そこではミニスターに触れられた人がバタバタ倒れていたので、背後で支える係が何人も必要だった。
 さて、ルンド師は比較的長く、1人1人に時間を割いている。喋り方がゆっくりなのも関係しているだろう。あるいは時間をかけるタイプなのかもしれない。祈られた人は順次自分の席に戻って行くけれど、講壇前の群衆はいっこうに減ったように見えない。
 ところで、待機しているのは大部分がこの教会の信徒だ。皆キマジメくんが知っている人々である。もちろん全信徒の個人的なことを何でもかんでも知っているわけではないけれど、大病を患っているとか、深刻な問題があるとか、そういう話は聞いたことがない。見た目にはどの人も健康そうだ。だから皆がルンド師に何を話しているのか、まったく想像できなかった。これでは「癒し」が起こったのかどうか、はっきりわからないのではないか。キマジメくんはそんな心配をしてみた。
 メッセージの途中で入ってきた、金田一帽子の女性が、またソワソワしはじめた。彼女はしばらくキョロキョロしていたけれど、ジャージの女性と酸素吸入の老婦人に何やら声をかけ、席を離れて受付係のところに一直線にやって来た(途中、例の「助祷」の4人組の1人にぶつかりかけてバランスを崩したけれど、何とか持ち直した)。
「あの、うちの母のこともぜひお祈りしていただきたいんですが?」
 受付のデスクはキマジメくんのブースから近いので、話が聞こえる。
「順番に祈っていただけると思いますよ」と受付係。
「何時頃になるんでしょう? 母は酸素も吸ってますし、あまり長居できないんです。ここまで来るのも大変だったんですよ。タクシーの運転手さんが道を間違えたせいで、遅れてしまいましたし」
「それは大変でしたね。でも大勢が待ってますからね・・・」
 受付係はどうしたものか、思案している。キマジメくんも考えてみた。群衆の間を縫って行って、溝田牧師にこの事情を伝えるべきだろうか。でも牧師は通訳中だから、容易に話しかけられない。下手に声をかけたら怒られるかもしれない。それに皆順番を待っているのだから、この婦人たちにも公平に、待っていてもらうべきではないか。
「わかりました。何とか対応してみますから、席でお待ち下さい」
 受付係はそう言って、金田一帽子に席に戻るよう促した。
「早くお願いしますね。母は酸素も吸っているんです。携帯式のアレで来たからあんまり持たないんです。お願いしますね」
 金田一帽子はまだ話し足りない様子だが、席に戻って行く。途中また「助祷」の1人にぶつかりかけた。4人組は適当な間隔を空けて、両手を広げて立っている。邪魔と言えば邪魔だ。
 受付係がどうするのかと思っていると、なんと彼女、まっすぐキマジメくんのところに来た。
「キマジメくん、今暇だよね」
 嫌な予感しかしない。
「あちらのご婦人が、ルンド先生に祈ってほしいんだって。でもあの通り動けないし、酸素も吸ってるから、時間がないそうなのよ。キマジメくん、先に祈ってもらえるように、溝田先生に相談してきてよ」
「僕がですか?」
「だって今やることないでしょ」
 それはあなたも同じでしょ、と言いかけたが、やめておいた。受付係の姉妹は若く見えるけれど、キマジメくんより10歳くらい年上のはずだ。物腰は柔らかいけれど、けっこう厳しいことをズバズバ言う。正直言って苦手な相手だった。
「わかりました」
 ここで言い争うのも良くないし、手が空いているのも事実だから、キマジメくんは覚悟を決めて了承した。それに、困っている人を見ると放っておけない(キマジメくんには昔からそういうところがあった)。
 ルンド師のミニストリーは続いている。溝田牧師はルンド師の背中に張り付いて通訳している。まだ3、4人が終わっただけで、群衆は何列にもなって待機している。
 タイミングを見て声をかければ大丈夫だろう。キマジメくんはそう考えながら、ブースの階段を降りた。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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