2017年9月12日火曜日

クリスチャンは「やられっぱなし」の無抵抗主義なのか

 先日「体罰」問題について書きましたが、ちょっと補足したいと思います。


 ただ、「暴力はどんなものであれダメ」という私の主張は変わりません。
 特に教育現場での「この場合は仕方ない。暴力でわからせるしかなかった」みたいな「仕方のない暴力」には、異を唱えます。前回の繰り返しになりますが、それは「教育」でなく「恐怖によるコントロール」に他なりませんから。

 では何を付け加えるかと言うと、「降りかかる暴力にどう対処すべきか」「暴力に対して無抵抗でなければならないのか」みたいな点についてです。
「力でわからせてやろう」という「暴力を振るう側」の話でなく、「暴力を振るわれる側」の話です。

・暴力に何で対抗すべきか

 少し個人的な話になりますが。

 私は看護師として働いていて、精神科病棟を手伝うことがあります。
 精神科の仕事は、もちろん一口に語ることはできませんが、一例を挙げると「暴れる患者さんの対処」があります。
 暴れると言っても患者さんは(例外もあるでしょうが)故意に暴れるわけではありません。本人にもどうにもならない精神症状の一つとして、「暴れざるを得ない状況」になっているわけです。現場では「自傷他害の危険あり」みたいに言います。
 で私たち看護師がどうするかと言うと、まずは対話を試みます。話し合いで解決すれば、それが最善でしょう。患者さんは暴れていても、話を聞く余裕はあったりします。
 でも、対話ではどうにもならないこともあります。あるいは緊急性が高くて対話の余裕がない場合もあります。今すぐ取り押さえないと誰かが怪我するかもしれない、みたいな状況です。その場合は医師の判断と指示に基づいて、薬を投与したり、一時的に身体を拘束したり、保護室に入れたりします(ちょっと面白い例として、医師の顔を見ると急に落ち着く患者さんもいます)。
 ただ薬を投与するにしても、拘束するにしても、暴れる患者さんを取り押さえて(一時的に)動けなくしないと、何もできません。だから複数人で取り押さえることがあります。もちろんそれは最終手段なのですが(念のため書いておくと、やむを得ない場合の拘束は法的に認められています)。

 でこの「取り押さえる」という行為が、「力に対して力で対抗する」ということだと私は思います。ただ、それは暴力ではないとも思います。患者さんを取り押さえて制止することと、殴ったり蹴ったりして傷つけることとは、全然違うからです。

 看護師の倫理原則の一つに「無害の原則」というのがあります。これは患者さんにとって有害なことをしない、というような意味です。殴ったり蹴ったりするのは、もちろん有害なのでしてはいけません。しかし暴れてしまって自身や他人を傷つける恐れがある患者さんを取り押さえるのは、その瞬間の患者さんには有害に感じられるでしょうが、結果的には害を防ぐことになります。
 だから「暴力に暴力で対抗すること」と、「暴力に力で対抗すること」は、根本的に違うと私は考えています。

 ちなみに現場の例として、暴れて拘束されることが多い患者さんが、「(何をするかわからないから)縛ってくれ」と自分から申し出てくることがあります。拘束された方が結果的に良い、と体験的に知っているからかもしれません。

 またこれは医療現場だけの話ではありません。
 たとえばですが、ひどい殴り合いのケンカが始まったら、周囲の人たちが止めに入ると思います。何人かで後ろから羽交い締めにするなどして、ケンカしている本人たちを動けなくするでしょう。これは「力」で制することではありますが、暴力ではありません。殴ったり蹴ったり首を絞めたりしたら暴力ですが、取り押さえて危険を避けるのは、暴力ではありません。そういうことです。

 以上のような観点で、件のビンタ事件を考えてみましょう。
 ドラムのソロで暴走した中学生を制止するのに、ビンタ(という暴力)である必要があったのでしょうか。痛めつける必要があったのでしょうか。両手を抑えれば済んだのではないでしょうか。あえて攻撃して痛めつけるというのは、制止しようとしただけでない、悪意を含んでいる気がします。

・キリスト教は何と言っているか

 ではもう一歩進めて、キリスト教的には暴力にどう対処すべきなのか、考えてみましょう。

 この文脈でよく引用されるのが、「右の頬を叩かれたら左の頬を出しなさい」というアレです。私自身、前回の記事でも引用しました。
 これは無抵抗・非暴力を表しているように聞こえます。暴力を否定する以上に、「やられっぱなし」を推奨しているようにも思えます。

 でもこれは本当に「やられっぱなし」を意味しているのでしょうか。

 どれくらいのクリスチャンの方が、もし暴力を振るわれた時、文字通り「やられっぱなし」に甘んじるのでしょう。何の非もないのにいきなり殴られて、それでも文句一つ言わずに許す人がどれくらいいるでしょう。私の知る限りではほとんどいないのですが。皆さんはいかがでしょうか。

 実を言うと私自身、この箇所には若干の疑問を感じていました。あまり本気で調べようともしなかったのですが。でも今回ちょっと調べてみて、なるほどと思った解釈があったので、紹介させていただきます。


 要約してみましょう。
 右の頬を殴るとは、右手の甲で(裏拳みたいに)殴ること。これは(右利き人口が圧倒的に多いという理解のもとで)主人が奴隷を殴る図である。相手が奴隷だから、手のひらで殴ると汚れる、と。あるいは奴隷でなくても、相手を侮辱的に扱うという意味もある。
 で、殴れらた奴隷が左の頬を出すというのは、「今度は手のひらで殴れ」=「私たちは対等な立場なんだ」=「奴隷扱いするな」という無言の主張になる。主人を奴隷の立場に引き降ろすという意味もあるかもしれない。と。

 これは、ミネコさんも書いていますが、「暴力に暴力でない方法で対処しなさい」みたいな解釈だと思います。決して「やられっぱなし」を推奨しているのではない、ということになります。
 もっともこれは、ミネコさん自身もネットで拾ってきた解釈のようですが。

 でもこれなら私もかなり納得です。暴力に屈しない、でも暴力は使わない、という意味で

 というわけでやはり、キリスト教は暴力を否定していると私は考えます。決して無抵抗というわけでなく、主張はすべきですが、その方法は暴力ではない、ということだと思います。

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