・ビンタ事件
ジャズのコンサート中のビンタ事件が、物議を醸しています。
ジャズ界の大御所が中学生たちを何ヶ月か指導して、いざコンサートへ。そこでドラマーの中学生がソロパートで暴走。大御所が注意しても止まらず、最後はスティックを取り上げて罵倒してビンタするに至った、という話題の出来事です。
まだ連日テレビで取り上げられていますので、ご存知の方も多いと思いますが。
これはいわゆる「体罰」問題ですが、例によって賛成派と反対派で、意見が分かれています。SNSでも連日のようにこの手の議論を見ます。でも本件に関しては、「予定調和を乱した少年が悪い」という「被害者に非あり」の声がやや大きいように見えます。加害者がジャズ界の大御所だということ、少年もその親も非を認めていること、など関係しているようです。だからあの暴力は仕方がなかった、教育的に必要だった、時にはあのような「罰」も必要なのだ、みたいな話になっているようです。
ですが私個人は、それは違うと思います。
どんな事情であれ暴力は暴力で、「仕方のない暴力」などない、と思うからです。
下記のブログを読んでも、やっぱりそうだなと思いました。ちなみにこのリンク先の記事は「ジャズの世界」についてもわかりやすく解説してくれているので、本件の本質を理解するうえでも、助けになると思います。
・「仕方のない暴力」とは
さて「仕方のない暴力」とは、存在するのでしょうか。
「時には力づくで制止しなければならないこともある」というのが、擁護派の意見の一つでしょう。なるほど子供の「暴走」を止めるには、コラッと殴りつけるのが簡単で効果的かもしれません。その「痛み」で、子供は何かを学ぶかもしれません。
でもそれは教育でなく、恐怖によるコントロールです。
今回の被害者は、まだビンタ一つで止められる中学生です。ちょっとの「力づく」で制止できる相手でした。でももしこれが中学生でなく、屈強なマッチョ男だったらどうでしょう。たとえば『トランスポーター』のジェイソン・ステイサムだったら。大御所は同じようにビンタしたでしょうか。きっとしなかった(できなかった)でしょう。それはナゼですか。相手が自分より「強そう」だからです。
子供を「仕方なく」ビンタしても、マッチョ男を「仕方なく」ビンタしません。
ということは、「仕方がない場合に暴力を行使する」というのは成立しなくなります。仕方がなくても暴力を使わないことがあるからです。
ではなぜ中学生を殴ったのでしょう。「殴っても大丈夫な相手」だったからです。殴っても反撃してこず、文句も言ってこない相手だったからです。
要は、「仕方のない暴力」というのは、暴力を振るった側の論理なのです。と私は思います。
・信頼関係があれば?
またもう一つの擁護意見に、「信頼関係があれば適度な暴力はむしろ効果的に働く」というのがあります。でも信頼関係の有無とは、どうやって認めるのでしょう。
片方が感じている「信頼感」と同じものを、もう片方も感じているとは限りません。確かめようもありません。たとえ双方が「自分たちには信頼関係がある」と言っても、片方(とりわけ立場の弱い方)が、実はそう言わざるを得ないだけかもしれません。「信頼関係がある」と言っておかないと、あとで自分が不利になるかもしれないからです。
教師と生徒とか、師匠と弟子とか、上司と部下とか、そういう上下関係における「信頼関係」には、そういうことがままあります。
また、殴られた側が、「あれは自分には必要な暴力だった」と言って、殴った側を擁護することがあります。「あれのおかげで自分は変わることができた」と。中にはそう感じる人もいるかもしれません。でも自分がそうだったからといって、全ての「体罰」被害者に同じものを求めるのは見当違いです。
・教会における「体罰」問題
この手の「体罰」問題は、一部のキリスト教会でも見られます。
若者を指導する牧師が、「訓練の一環」として、また「信頼関係」のもとで、若い子たちをひどく叱責したり、殴ったりするのです。牧師の側はそれを「愛のムチ」とか、「神による厳しい取り扱い」とか言ったりします。そうやって暴力を正当化するのですが。
これは一般の「体罰」と違い、「神の愛」とか「弟子訓練」とかいう宗教的論理(?)にも支えられています。だから子供が殴られて帰ってきても、親はなかなか文句を言えません。むしろそれを擁護することさえあります。その場合、子供は悲惨です。教会でも家でも責められて、逃げ場がなくなってしまいますから。
と言っても、若者を指導する牧師の全員が、同じように若者たちを殴るわけではありません。殴る牧師もいれば、殴らない牧師もいます。では殴らない牧師は、「神の愛」に欠けているのでしょうか。殴る牧師は「愛深い」のでしょうか。私が見たところ、殴る牧師は感情に任せて激昂しているだけですが。
・暴力は「神の愛」ではない
教育の現場に「感情的な激しい怒り」や「暴力」を持ち込むと、もはや教育でなく、恐怖によるコントロールになります。殴られた方は「恐怖(暴力)を避けなければ」というのが行動原理になり、ほとんどそれに縛られてしまいます。そして多少の差はあれ、正常な判断力を奪われてしまいます。
「殴られたおかげで大切なことを学べた」と言う体罰擁護派の人は、もしかしたら「暴力を振るわれた自分」を正当化したいのかもしれません。酷い体験だったけれど、もはや訂正できない事実なので、「あれで良かったんだ」と自分自身に言い聞かせたいのかもしれません。おそらく無意識的に。
言うまでもないことですが、暴力(とりわけ子供に対する暴力)に「神の愛」が反映されているなんてことはありません。聖書のどこを読んでも、キリストが「教育のために」弟子や女子供を殴ったなんて記述はありません。いわゆる「宮きよめ」の場面でさえ、人に対して危害を加えていません。キリストご自身、「右の頬を叩かれたら左の頬を向けなさい」と言っていますから、暴力を行使することは、明らかにキリスト教の理念に反しています。
だから弟子訓練だとか何だとか言って信徒を殴りつける牧師がいたら、それはニセモノです。よくよく注意しましょう。
現在はリタイアしておりますが、小学校の教師を長らくやっておりました。教師生活の結論から言えば、口で言って分からん子に、どついて分からせることはできないということです。子どもが他の子どもに暴力をふるっているような緊急時に、実力行使をしてやめさせましたが、保護者からは暴力教師だと批判されましたね。大声で威嚇するのではなく、ましてや暴力を振るってやめさせるのでなく、相手はこどもだから優しく諭せば、暴力行為などはすぐにやめるという批判ですね。暴力行為を含むいじめにしても、優しく諭せばなくなるというわけですね。イエスのエルサレム神殿における暴力行為に関しても、神殿商人たちにも易しく諭せば、神殿商売をやめたはずだというわけですね。イエスともあろう方が暴力行為を行うなんてとんでもないというわけですね。
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