2017年5月31日水曜日

聖書を使ったイジメ【番外編】:「こんな私じゃ・・・」

「聖書を使ったイジメ」について書いています。今回は【番外編】です。今までは教会内で強者から弱者に向かってなされるイジメについて書きましたが、今回は「自分自身にしてしまうイジメ」について紹介してみたいと思います。
 それは、こんなセリフから始まります。「こんな私じゃ・・・」

 またイメージを描いてみました。5分で描いたものなのであまり気にしないで下さい(もっとも1時間かけてもあまり変わらないでしょうが)。

・自己否定し続ける「真面目な」人々

 私が見てきた教会、主に聖霊派や福音派なのですけれど、そこではいわゆる「真面目な人」が少なからずいたように思います。もちろん教会だから色々な人がいて、全然真面目じゃない人とか変な人とかもいるんですが、それでもどの教会に行っても「真面目な人」がけっこういるように思いました。

 で、そういう「真面目な人」たちの共通点として、上記のセリフがあるように思います。
「こんな私じゃダメだ」
「こんな私じゃまだまだだ」
「今日もまた◯◯で葛藤してしまった。もっと祈らないとダメだ」
「変えられたと思ったのに、まだ私はこんなだ」
「どうしても◯◯が気になってしまう。私はなんでこんな弱いんだろう」
「あー主よ、私の◯◯を取り去って下さい」

 こんなようなセリフ、クリスチャンの皆さん(特に聖霊派・福音派の方々)なら聞き覚えがあるのではないでしょうか。私はメッチャあります。

 これらのセリフは、きっと真面目ゆえに出てくるものだと思います。「クリスチャン」らしく成長した者でありたい、高い徳(あるいは高い霊性)を備えた者でありたい、「新生」にふさわしい者でありたい、「日々新しくされる者」でありたい、というような真摯な願いが、あるのだと思います。
 そしてそれ自体は良いことだと思います。高い理想を持って、そこに向かおうとすることは、価値あることだと私は思います。

 ただそういう「真面目な人」たちの「こんな私じゃ・・・」というセリフと、その葛藤の深さには、なんとなく違和感を覚えます。「なにもそこまで悩まなくても」というような違和感です。

 そこには願望以上に、「こうでなければならない」というプレッシャーがあるような気がします。そしてそこに到達できないというストレスが。

・人の「変化」とは

 確かに聖書を読むと、クリスチャンは「新しく生まれ変わる」とも「日々変えられる」とも書かれています。だから「より良い存在へと変わっていくべきだ」という考え方になるのだと思います。特にクリスチャン歴が長くなっていくと。

 でも実際のところ、人はクリスチャンであろうが仏教徒であろうがムスリムであろうが、そんな簡単に変わるものではありません。変わったような気がするかもしれませんが、案外変わっていないものです。
 だからと言って、「全く変わらない」と言いたいわけではありません。きっと変わっていく部分もあるでしょう。しかしそれは期待するほど劇的な変化ではありません。多くは徐々に、ゆっくりゆっくり変わっていきます。

 急激な変化には、否定的なものが多いです。たとえば「心的外傷」がそうです。ものすごくショックな出来事を体験し、心的にダメージを受けてしまうと、心が不可逆的に変化してしまいます。もはや元の状態に戻らないかもしれません。そういう「急激な変化」はあるでしょう。

 あるいは中には、「劇的な改心」を経験する人がいるかもしれません。『レ・ミゼラブル』のジャン=バルジャンのように突然「善」に目覚めるという人がいるかもしれません。
 でも現実には、「劇的な改心を経験した」と主張する聖職者が、とんでもない悪事を長年続けていた、なんて話はザラにありますが。

 人間の変化、とりわけ「良い」方の変化は、(その種類にもよりますが)クリスチャンかノンクリスチャンかに関わらず起こります。だから必ずしも聖書の言葉によって変わったとか、聖霊の力によって変わったとか、そういう「超自然的な」ものが関与したとは限りません。

 創造論を推奨する人たちは、エントロピーの法則を引用して、「人間は悪い方へ進んでいく」と言います。だから身体は老化するし、性格は徐々に悪くなっていく、と言います。クリスチャンだけが(神の力によって)それに抗える、というわけです。
 べつに創造論を完全否定する気はありませんが、「人間の性格は必ず悪くなっていく」というのは、現実的に考えて賛同できません。現に良い変化だってありますから。たとえば若い頃性格に問題のあった人が、歳を重ねて落ち着いていった、という例は挙げたらキリがありません。
 また性格の何が良くて、何が悪いのか、というのも一概に言うことができません。

・教会という特殊な空間で感じる「変化」

 それらに加えてもう1つ考慮すべきは、「教会という空間の特殊性」です。
 一部の教会では、上記に挙げたような「クリスチャンとしての理想像」をみんなが熱心に求めているし、そのように振舞っています(悪い意味ではありません)。多くの人が「愛深くあろう」「慈悲深くあろう」「優しくあろう」「寛容であろう」「怒るに遅くあろう」と願い、そのように努めています。
 そのように願っている人たちの中に毎週通い続けるなら、おのずと「自分もそのような人物に近づいている」「自分もそのように変えられてきている」と感じることでしょう。実際「行動」においては変わってきていると思います。
 でもそれがけっこう落とし穴というか、錯覚だったりするわけです。「本質的な変化」というより、「表面的な変化」だったりするわけです。

 アルコール依存症のリハビリ過程を例に挙げると、わかりやすいかもしれません。
 アルコール依存症とは、基本的に「治らない」疾患です。断酒以外に対処法がありません。そして断酒できていれば、一応正常な暮らしができます。でも1年断酒しても、10年断酒しても、アルコールを少しでも飲んでしまったら、その時点で一気に振り出しに戻ってしまいます。断酒して積み上げてきた歳月にはほとんど何の意味もありません。異常がないように見えても、根本的には何も変わっていないからです。そういう種類の疾患なのです。

 また、行動の「習慣化」も関係しています。
 人がある行動を毎日毎日続けて、習慣化していくと、「その行動を続けた方がラク」というような状態になります。でもそれはある行動が定型化したというだけで、その人の内面が根本的に変化したわけではありません。

・自己否認からは何も始まらない

 ぶっちゃけた話、人の根本的な性格は、ほとんど変わらないと思います。「三つ子の魂百まで」なんて言葉もありますが、少なくとも性質的な部分で言えば、その通りじゃないかと思います。たとえば内向的な人が外交的になるなんて、まずないでしょう。無口な人が多弁になることもありません。精神疾患でも起こさない限り。

 しかし私たちは学ぶことができます。いろいろ経験したり失敗したりする中で、何らかの教訓を得て、より良い存在になっていくことができます。いわゆる「クリスチャン的な変化」にも、そういう学習が関与しているのではないでしょうか。たとえば聖書を読むことで、私たちはキリストの教えを学ぶことができます。そしてそれを実践していくことができます。それだって大きな「変化」だと思います。まあそれで失敗したり上手にできなかったりして、落ち込んだりするのですが、それが人間というものではないでしょうか。

 だから「変わったと思っていたけれど変わってない」「変わりたいのに変われない」などと悩むのは、あまり良くないと私は思います。
 もちろん人を殺したいとか盗みたいとかいう願望があってどうにもならない、みたいな状況だったら何らかの対処が必要でしょう。でも性格的なものとか、性質に関わる部分とか、変えようにも変えられないし、そもそも変える必要のないものだってあります。それを思い悩んだって仕方がない、と私は思うわけです。

 また心理学的にみても、「こんな私じゃ・・・」というのは、自己を否認する行為です。そして否認しているうちは、私たちはどこにも進めないのです。自分の嫌な部分を見たくない、こんなはずじゃない、と拒否しているだけですから。
 そうでなく受容することで、はじめて私たちは次の段階に進むことができます。「自分は(良くも悪くも)こういう人間なんだ」とちゃんと認識して、それを受け入れることで、私たちはようやく安心することができます。変える必要があるかないかなんて、二の次です。

 というわけで、「こんな私じゃ・・・」と自分イジメをしてしまう真面目な方には、「そんなあなたでいいんです」と私は言ってあげたいです。もっとも私が言ったところでどうなるものでもないかもしれませんが。

・関連記事

→『聖書を使ったイジメ』

→『聖書を使ったイジメ:弟子訓練』

1 件のコメント:

  1. 人間がどんなに修行を積んでも神や仏にはなれません。人間はいつの時代でも愚かなものなのですから。
    確かローマ教皇がこのような感じのことを言っていたのを思い出しました。
    「聖なる者になるということは、何も特別なことをしなくてはならないわけではありません。普通のことを愛と信仰をもってすることです」

    新興宗教系プロテスタントでは、「あなたは洗礼を受けて救われました。でも今のままではだめです。もっと向上すべきです」とやって、信者を追い込んでしまうことが傾向として強いように感じられます。信者にはまじめな人が多いせいか、自分を責めたり、追い詰めたりして、最悪の場合は自殺を図ってしまうという事件まであります。

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