2017年5月22日月曜日

聖書を使ったイジメの1つ:弟子訓練

・聖書を使ったイジメの1つ:弟子訓練

前回は「聖書を使ったイジメ」という記事で、主に proof texting の話をしました。簡単に言うと「聖書を都合をよく解釈し、それを押し付け、相手を叩きのめす」ということです。ものすごく一方的かつ傲慢な人たちが、一部の教会にはいるのですね。残念なことですが。

 さて「聖書を使ったイジメ」の具体例の1つに、そういえば「弟子訓練」があると思います。「弟子訓練」とは、伝統的なキリスト教用語というより、新興プロテスタント系教会で使われる流行語のようなものですが。

 私の認識では、「弟子訓練」は、韓国のプロテスタント教会から入ってきた「信徒成長」の方法論の1つです。牧師や先輩信徒が「師匠」となり、後輩信徒や新しい信徒を「弟子」に見立てて、いろいろ「訓練」していくわけです。「成長」させるために。
 ある教会では「弟子訓練用のテキスト」なんかが用意されていて、そのプログラムに沿った「訓練」が進められています。ちょっと見させてもらったことがありますが、「師匠」となった人は、「弟子」の誕生日やら生育歴やら家族構成やら交友関係やら、仕事やら夢やら悩みやらを完璧に把握して、毎日欠かさず祈らなければならないとか、「弟子」の身内に不幸があったら飛んで行かなければならないとか、「弟子」の失態の責任を連帯して負わなければならないとか、まあ大変な感じでした。もはやキリスト教だか何だかわからない気がしましたが。

 それでも、「師匠」の方が「弟子」のためにそうやって骨折っているなら、まだ可愛い方です。それだけなら「弟子訓練」も問題ないかもしれません。
 でも実際には、そんなふうに「弟子」に尽くすタイプの「師匠」はごくわずかです。体感的には。
 それより多くの「師匠」は、「弟子」を私物化して、いいように振り回している、というのが現状だと思います。

・「弟子訓練」の現状

 事例を挙げるとキリがないのですが、たとえば「弟子」を使用人にみたいに考えている「師匠」がいます。何か買いに行かせたり、相手の都合無視で自分の用事に付き合わせたり、肩が凝ったからとマッサージさせたりします。どこかに出張に行く際は「弟子」を同伴させて、いわゆる「カバン持ち」をさせます。旅行中の小間使いみたいなものです。「弟子」はいろんな種類の雑用で、走り回らなければなりません。

 そういうのは「師匠」に言わせれば、「ちゃんと理由がある」「弟子を育てるためだ」「一緒に行動することで教えているんだ」というような話になります。
 でも「弟子」が集中して見ているのは雑用の方であって、「師匠」の行動ではありません。下手すると「師匠」が何をしているのか、全然わかりません。それで「教えている」と言うのは、ブラック企業と似たような「苦しい言い訳」な気がします。

 それに聖書をどう読んでも、キリストと最初の弟子たちとの関係は、そんな丁稚奉公的なものとは思えません。
 ここでちょっとキリストと十二使徒たちの関係について、聖書から考えてみましょう。

・聖書にみるキリストと弟子たちとの関係

 第一に、キリストは弟子たちによく質問しています。それは両者とも同じものを見ているからです。そして弟子たちに考えさせているわけです。「あなたはどう考えますか」みたいに。いわば対等な関係性に近いです。

 第二に、キリストは弟子たちにいろいろ体験させています。たとえばガリラヤ湖を渡るとき、弟子たちだけを先に行かせていますね。たぶん嵐に遭った時に彼らがどうするか、見たかったんだと思いますが。
 これが今の「師匠」だったら、きっと弟子たちにボートを漕がせて自分はふんぞり返っているでしょう。

 第三に、キリストは弟子たちに休養を取らせています。決して弟子たちを(無料の労働力として)酷使していません。あのゲツセマネの園の夜、弟子たちは居眠りしてしまいましたが、それは彼らが何もすることがなかったからです。つまり何も課せられていなかったのです。
 他にも、キリストが弟子たちを休ませようとする描写があります。弟子にあれこれ雑用を押し付けるのは今の「師匠」たちの方です。

 総合的に考えて、キリストにとって弟子たちは「教える相手」だったと思います。決して「安価な労働力」ではなかったのです。
 一方で今の「弟子訓練」における「弟子」とは、「師匠」にとって限りなく「安価な労働力」に近い気がしますが。

 まあその中でも多少は学ぶことがあるでしょうし、「弟子」たちはあれもこれも「訓練」と思い込ませられていますから、そういう「弟子訓練」に納得してしまっているのです。

・「弟子訓練」の根底にあるもの

 前述の通り「弟子訓練」は韓国発祥か、あるいは発祥でなくても韓国を経由しているので、韓国的「儒教」の精神を内包しているようです。だから「年長者(師匠)を敬わなければならない」という考え方になり、「弟子」は「師匠」に献身的に尽くすことになります。そしてそれこそが「訓練」と考えられるけです。

 でもそれは前述の通り、キリストと弟子たちとの関係性を反映したものではありません。

 韓国の教会と言えば(決して韓国人の国民性を否定する気はありませんが)「牧師が異様に恐れられている」というイメージがありますね。ある韓国の「メガチャーチ」にお邪魔した時も、牧師室で、秘書の方が牧師に思いっきり怒鳴られているのを見てしまったことがあります。内情はよく知りませんが、「信徒が恐怖に縛られている」のは肌で感じました。

 日本の牧師はそこまで酷くないような気がしますが、中には酷い人もいます。
 牧師が特定の信徒をあからさまにイジメたり、皆の前でからかったり、笑い者にしたり、貶めたりするのを見たことがあります。それをまわりが一緒になって笑うのも問題なのですが、そこには集団心理が働いていて、なかなか単純な話ではありません。

 そういう集団の中でイジメの対象となってしまった信徒は、本当に大変です。逃げようにも「キリスト教の教理」があるから簡単には逃げられません。教会を離れたら地獄に堕ちるとか、重い罪を犯すことになるとか、そういうのを信じ込まされていますから。
 また、ちょっと複雑な話になりますが、「イジメられている自分に居場所を見出しているから離れられない」という共依存的な関係性もあります。要はイジメる側もイジメられる側も健全ではないかもしれない、ということです。

 そんなイロイロが複雑に絡み合った上に「弟子訓練」というラベルが貼られているわけです。
 もちろん中には健全な「師匠と弟子」もいるでしょうから、一概に「弟子訓練」を悪く言えないのは事実ですが、それでも不健全な関係が圧倒的に多いというのは覚えておいた方がいいと思います。

3 件のコメント:

  1. ある事から「弟子訓練」を知りこちらのブログを拝見しておりました。以前は弟子訓練を取り入れていると教会HPに記載していた教会だと確認しましたが現在のHPでは弟子訓練の文字さえ見当たりません → http://socj.org/swecc/ 弟子訓練はそんな安易に取り入れたり脱退(とりやめたり)できるものなのでしょうか。教会とはそんなもの? なんとなく腑に落ちなくてコメントしてみました。

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    1. コメントありがとうございます。
      プロテスタント教会の一部は、「弟子訓練」だけでなく、たとえば「ダビデの幕屋」とか「霊の戦い」とか、そういう海外の流行の方法論をわりと簡単に導入する傾向があると思います。だから別の新たな方法論にも簡単に飛びつくので、結果的に「あれこれ手を出してて落ち着かない」みたいな感じになります。キリストは「昨日も今日も変わらない」はずですが、そういう教会は「昨日はアレ、今日はコレ」とコロコロ変わっていきます。それを信徒がどう評価するか知りませんが。
      もちろん、一部の教会だけに話だとは思います。

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    2. コロコロ変われるなんて牧師の気分次第って感じですかね。
      時々「私はクリスチャンです」という人がいますが迂闊に信用できないですね。

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