2017年5月24日水曜日

聖書を使ったイジメの1つ:「祈りが足りない」

「聖書を使ったイジメ」についてシリーズで書いています。3回目。
 今回は、一部の教会でしばしば耳にする「祈りが足りない」という台詞を紹介したいと思います。

・事例1

 実際に目にした話ですが、ある牧師夫妻の奥さんの方が何やら悩んでいて、夫の方が「まだそんなことで悩んでいるのか。祈りが足りないんだ」みたいな叱り方をしていました。
 詳しいことは知りませんが、奥さんの方に何らかの「課題」があって、夫の方が「解決するまで祈りなさい」みたいな助言をしたのです。でも結局解決できてなくて、「祈りが足りないんだ」と責められたのでした。

・事例2

 またあるクリスチャン夫婦に小さな子がいました。その子にはアレルギー疾患があって、何度も入退院を繰り返していました。牧師やら「偉い先生」やらがその子の「癒し」を何度も祈りましたが、いっこうに癒されません。
 で、何度目かの入院の時、困り果てた両親が、牧師にどうすべきか相談しました。牧師の答えは(要約すると)こんな感じ。
「祈りが足りなんだ」

・◯◯が足りない

 こういう「◯◯が足りない」系の話は、その手の教会ではけっこうあります。「献金が足りない」「奉仕が足りない」「従順さが足りない」「聖霊の満たしが足りない」とかいろいろ。「祈りが足りない」というのも、その中の1つです。

 でもこれ、私に言わせれば、クリスチャン特有のイジメみたいなものです。「(教会内で)一生懸命やってても結果が出ない」という状態のことを、何でもかんでも「◯◯が足りなんだ。もっと◯◯しないとダメだ」とバッサリ切り捨てるからです。言ってる方は当然と思っているかもしれませんが、言われた方はけっこう落ち込むのです。

 何かを変えたくて一生懸命「祈っている」けれど、いつまで経っても変化が見られないとき、本人が一番ガッカリしたり失望したり焦ったりします。ですが、助言がほしくて尊敬する牧師や先輩に相談すると、「まだまだ祈りが足りなんだ」とか言われてしまうのです(もちろんそんな風に言う人ばかりではないと思いますが)。
 なんかトドメを刺される感じですね。あんまり配慮ある言い方とは思えません。

・じゃあどれくらいなら「足りる」の?

「祈りが足りない」と言うのはすごく簡単ですが、それだけ言い放つのは、かなり無責任だと思います。「足りない」と言うからには、じゃあ「どれくらいなら足りるのか」をハッキリ教えてあげなければなりません。でもここで「祈りが聞かれるまで」と答えるのはズルいです。そんなの当たり前じゃないですか。そこでなく、「じゃあどれくらいなら足りるんだ」と聞いているのです。

 でもそもそもの話、身も蓋もない言い方をしますが、「これくらい祈ったから◯◯が叶った」と言うのは、全く根拠がありません。「祈りの量」と「何かの事象」には、相関関係がないからです。
 意味がわかるでしょうか。

 もし「祈りの量」と「何かの事象」に相関関係があったら、それこそ大変です。たとえば「神様◯◯して下さい」という願いが、「ある量だけ祈れば叶えられる」という話になってしまいますから。
 それではまるで、神様が自動販売機みたいな存在になってしまいます。
あー、◯◯の実現だったら、祈りが◯◯量だけ必要ですねー。ではどうぞ」とか神様が言ったら、どう思いますか。それはそれで(ぶっちゃけ)便利かもしれませんね。でも、それってキリスト教と何か関係あるでしょうか。神様が便利な「願望達成装置」になってしまいますが。

 だからそもそもの話、「祈りが足りる・足りない」というのはおかしな話なのです。祈りは、「足りる・足りない」で測るものではありません

 神様は私たちが祈る前から、私たちの願いを知っておられるでしょう。また私たちが囁いただけでも、あるいは心の中で呟いただけでも、神様はすでに聞いているでしょう。だから「神様◯◯して下さい」という祈りは、究極的に言えば、祈る必要さえありません(べつに祈るなという話ではありません)。
 それを何度も祈ったから、沢山祈ったからと、「祈りが足りて叶えられた」と考えるのは、ほとんど神様に対する侮辱だと思います。「人間が祈りの言葉を時間をかけて積み上げれば聞く神様」だとしたら、バカじゃないですか? そんな神様なら私は必要ありません。

 時々、「身内の◯◯さんが救われるまで30年も祈った」みたいな言い方をする人がいますが、それも「沢山祈れば聞かれる」という考え方に縛られていると思いますね。その人の身内を想う気持ちまで否定する気はありませんが。

・結局「努力」に陥るという罠
 
 というわけで「祈りが足りない」という表現には、「沢山祈れば神を動かせる」という浅はかな考え方が潜んでいます。そしてそれが他者に向くとき、「もっと祈らなきゃダメだ。それじゃ足りない」というイジメ根性に変換されていきます。

 キリスト教は「信仰義認」を大切な教理としているはずです。それなのに結局「沢山祈らなければ聞かれない」という「努力」とか「行為」とかの話になってしまったら、本末転倒です。まして他者を傷つけてしまうとしたら、もはや有害でしかありません。

 でも教会を挙げてそういう考え方になってしまっている所もありますから、これはなかなか難しい話でもあります。少なくともこれを読んで下さっている皆さんには、そのあたりの良識は忘れないでいただきたいと思います。

・関連記事

→『聖書を使ったイジメ』

→『聖書を使ったイジメ:弟子訓練』

3 件のコメント:

  1. 「〇〇が足りない」にはいろいろあるでしょうが、まとめていうならば「信心が足りない」ということなのでしょうね。もちろんそのときどきによって、「信心=献金」であったり、「信心=祈り」であったりするわけですが。
    公明党の候補が落選した時、某民放の選挙の番組で、桂ざこばだったかが「(候補者が)落ちるということは信心が足らんということですか?」と質問して、日本中が大爆笑になったことがあります。
    「先ほど番組の途中で、ざこばさんが公明党は信心が足りなかったのではないか?と発言されたんですが、特定の政党と選挙結果、信仰心は一切関係がございません。失礼しました」とアナウンサーが謝罪していましたが、これは記者会見を開いて、創価学会自身がきちんと有権者の前で釈明しないといけないことではないのでしょうかね?
    新興宗教系プロテスタントでも、このあたりの事情は本当に同じですよね。こうしてみると、新興宗教系の宗教団体は、プロテスタントであろうが創価学会であろうが、見事に同じことを教えているとよくわかります(笑)。

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  2. 祈りに関して(来住英俊、「キリスト教は役に立つか」新潮選書、P73祈りの時間感覚)
    祈りや願いに関して、考えるのにおすすめの本が上記の本です。

    ニューヨークリハビリテーション研究所の壁の落書きから
     より偉大なことができるように健康を求めたのに
     より良きことができるようにと病弱を与えられた
     幸せになろうとして富を求めたのに
     賢明であるようにと貧困を授かった
     世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
     神の前にひざまずくようにと弱きを授かった
     人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
     あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった
     求めたものは一つとして与えられなかったが
     願いはすべて聞き届けられた
     神の意にそわぬ者で亜あるのにもかかわらず
     心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

    *この詩をもとに祈りと願いの意味を考えると、何を祈り、何を願うのも、祈り手の勝手であり、どのように叶わせるのかは神の勝手だということがよくわかりますね。

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  3. >>神の勝手

    つらい境遇の人に、”これを通してあなたの人格をキリストに似たものにかえようとされる”
    なんて安易に言い放ってはいけないと思います。

    豪快な破格の祝福を受けたクリスチャンで、けっこう問題ある人もいますよね。

    神様によってつくり替えられて、嫌いな人に対しても笑顔を向けることができるようになりましたのような証もけっこうですが、
    無理する必要ないのですから。

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