2017年5月27日土曜日

聖書を使ったイジメの1つ:「祝福されないよ?」

「聖書を使ったイジメ」シリーズ4回目。
 今回は前回に続いて、クリスチャン特有のイジメとなるセリフを1つ紹介します。
 今回はこれ。

「祝福されないよ?」

 雰囲気を伝えようと思って、イラストを描いてみました。
 ちょっとムカついてもらえたら成功なのですが(笑)。

 この「祝福されないよ?」は、何かの行為や状態に付随して使われることが多いです。
 たとえば、
「これしないと祝福されないよ?」
「それしたら祝福されないよ?」
「そんなんじゃ祝福されないよ?」
「Aでもいいけど、Bじゃないと祝福されないよ?」

 みたいな感じ。
 どうやら彼らの言う「祝福」には、ある一定の条件があるようです。
 どんな条件なんだかよくわかりませんが。

・Aさんの事例:ほとんどパワハラ

 こんなケースがありました。
 ある超教派の集会に、教会を挙げて参加しました。いろんな「奉仕」があって、みんなで分担しました。会場係とか献金係とかキッズ担当とか、いろいろです。
 で、裏方の「奉仕」が好きなAさんは、やはり裏方の、目立たない「奉仕」をしていました。Aさんはすごく真面目で熱心で、手を抜くことがありません。 地味なことをコツコツ頑張るタイプです。その集会でも、毎日頑張っていました。
 集会の2日目か3日目のことです。ある「奉仕」の担当者が急病で休んでしまい、代役が必要になりました。舞台に立ってしゃべる「奉仕」でした。そこで朝一番、牧師がその代役に指名したのが、まさかのAさんでした。目立つことが苦手なAさんは、自分が舞台に立つなんて、考えたこともなかったでしょう。いつも従順なのに、さすがに黙ってしまいました。そしてやっとのことでこう答えました。
「それ(その奉仕)はちょっと・・・」
 とたん、牧師の表情が変わりました。
「え、イヤなの? みんなイヤな顔一つしないで頑張ってるのに? そんなんじゃ、祝福されないよ?
 結果だけ言うと、Aさんは泣く泣く舞台に立ったのでした。ほとんどパワハラだと私は思うのですが。

・祝福される「ため」にする?

「○○しなかったら祝福されないよ?」というのは、つまり「祝福されたいから〇〇する」ということになります。
 じゃあ祝福される見込みのないことは、しないんですか?
 祝福という代償が払われるから〇〇をする、としたら、それは「ただキリストの教えだから行いたい」という動機でなく、自分が可愛いからとか、神から何かもらえるものならもらいたいとか、そういうやましい動機ということになります。

 あるいは反対に、「〇〇しないと祝福されない(悪いことが起こる)」という話もあります。その場合、悪いことが起きてほしくないから(仕方なく)〇〇する、という、これまたあまり褒められない動機があると思います。

・因果応報?

 〇〇をしたら祝福され、〇〇をしなかったら祝福されない。
 ××をしたら祝福を逃し、××をしなければ祝福される。

 こういう、行動と結果の因果関係は、「因果応報」だと思います。もちろん聖書をみてみると因果応報的なストーリーもあります。「信仰義認」という言葉にしても、「信じたから」→「義と認められる」というわけで、因果応報的と言えなくもありません。

 でもキリスト教の特徴的なテーマに、「恵み」というのがあります。「恵み」とは、「それを受けるに値しない人が受ける」というような意味です。つまり因果応報の逆です。「Aという結果に到達するような行為を全くしていないのに、恵みによってAを得る」ということですから。
 キリスト教的には、キリストの十字架の死と贖いが、全人類に贈られた「恵み」だと言えるでしょう。

 だとすると、神様が人間を因果応報的に扱う、というのはちょっと考えにくいと思います。
 聖書は、全ての人間に罪があると言っています。
 だからもし神様が人間を因果応報的に扱うとしたら、誰一人として祝福されないのではないでしょうか?

・「祝福」とは?

「○○しないと祝福されないよ?」と言う人たちにとって、「祝福」とは何なのでしょう。それはどうやら金銭とか、成功とか、勝利とか、名誉とか、繁栄とかのようです。つまり「自分にとって良いもの=祝福」となっているようです。

 でも聖書をみてみると、「祝福された人」たちが、必ずしも「良いもの」ばかり受けているわけではありません。
 たとえばキリストの母親であるマリヤは、受胎告知のとき、御使いから「恵まれた方」と言われています(ルカの福音書1章28節)。でもマリヤのその後の人生は、むしろ苦労や忍耐の連続だったのではないでしょうか。もちろん良いことだってあったと思いますが、苦しみや悲しみだって沢山あったはずです。
 他にも旧約をみてみると、ヤコブは父イサクを騙して「祝福」を受け取りました。しかしその人生は苦難の連続でした。結果的には、彼の人生は聖書の一部となって語り継がれているわけで、その意味では祝福なのかもしれません。けれど彼の生前の体感としては、先に挙げたような金銭とか成功とか勝利とか名誉とか繁栄とかに満ちていたわけではありませんでした。

 だから聖書の言う祝福は、必ずしも「自分にとって良いもの」ではありません。
「○○しないと祝福されないよ?」と言っている人たちには、その「祝福」が具体的に何なのか、ちゃんと説明してほしいところです。

・牧師にとって「良いカモ」

 先の事例に挙げたAさんは、やましい心で祝福(自分にとって良いもの)を求めたのではありません。
 そうでなく真面目な故、「牧師先生に言われたことがだから頑張ってやらなきゃ」と一生懸命だったのです。だから「舞台に立つ」という嫌な役回りも、最終的には了承したのでした。

 このAさんのようなタイプは、けっこう教会に多い気がします。彼らは言われるままに頑張ってしまうので、(言葉が悪いですが)牧師にとって「良いカモ」です。牧師からしたら、都合よく使える信徒だし、ごねたら「そんなんじゃ祝福されないよ?」と脅せばいいのですから。
 でもそれはパワーハラスメントであり、イジメです。聖書っぽいことを言っていますが、上記の通り、全然聖書的な考え方ではありません。

 だから自分はAさんタイプだなあと思った人は(あるいはそうでない人も)、この手の教会内イジメに注意していただきたいなと思います。

・関連記事

→『聖書を使ったイジメ』

→『聖書を使ったイジメ:弟子訓練』

1 件のコメント:

  1. 創価学会とそっくりですねこの手の話。ありますよ学会でも。「祝福」を「功徳」に変えれば、そのまま創価学会ですよこれ(笑)。
    折伏ノルマを果たせない人、聖教新聞勧誘のノルマを果たせない人、選挙で投票依頼をして票を集めてこれない人・・・みんな「そんなんじゃ功徳がないよ」ですからね。

    「恵み」ですが、新興宗教系プロテスタントの中に、時々この「恵み」を物質的な功徳があることと解釈しているところがありますよ。
    カルトとして名高い某新興宗教系プロテスタントの教祖様の御説法を、動画で見たことがあります。テーマは「恵み」でした。その御説法の中で、教祖様がさかんに強調していた「恵み」は、たとえば「いもがたくさんプレゼントされたんです。とても食べきれないくらいでしてねえ。誰それさんにもおすそ分けしたんですよ~」だの、「みかんをもらったんです!あのね、箱じゃないんですよ、なんと、山一つ分なんです。みかん山を指さして、あの山になっているみかんを全部あげるから、好きなだけもっていきなさいといわれたんです!!!」というものでした。
    あまりのレベルの低さにあきれましたが、こんなくだらない御説法をありがたがって聞いている信者のレベルの低さにもっとあきれ果てましたよ(笑)。

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