2016年3月5日土曜日

カルトっぽい教会を離れた後の話・16

 当時、私は教会に熱心に仕えていて、もう人生の全てをそこに捧げる気でいた。
 迷いはなかった。これこそ正しい道だと信じていたし、自分の生きる道だと心に決めていた。「心に決めていた」と書くと少し大袈裟かもしれないけれど、そういうふうに自然に思えていたのは事実だった。

 というふうに「正しいこと」だと信じていたけれど、教会内のあれこれを見て、少なからず「矛盾」を感じていたのもまた事実だった。

 たとえば夫は妻を愛しなさい、つらく当たってはいけません、と聖書は言っている。けれど目を上げてみると、牧師が自分の妻(牧師夫人)を叱りつけ、怒鳴り散らし、まるで人間扱いしていないのである。
 あるいは第一コリント13章には愛とは何かが書かれている。私の好きな箇所だ。けれどそこに書かれている愛を教会で見つけようとしても、なかなか見つからない。たとえば牧師は信徒のミスに寛容でなかった。また信徒の特徴を物笑いのタネにし、公衆の面前でそのモノマネをして笑いをとっていた。自分の苦労体験をよく自慢していた。自分に反対する者を決して許さなかった。またリーダーとして皆に仕えるのでなく、皆に仕えさせていた。

 つまり聖書に書いてあることと、実際に目にすることとが、著しく乖離していたのだ。私はこのギャップをどう理解すればいいのか、どう埋め合わせればいいのか、まったくわからなかった。と言ってもそのことだけを四六時中考えて葛藤していた訳ではない。心のどこかにそれが疑問として引っ掛かっていて、ふとした時に顔を出すのだった。

 そのギャップの答えとして、聖書が書かれた時代と現代との文化的・習慣的な違いがあるのかもしれなかった。たとえば女性は教会では被り物を被っていなさいとか、黙っていなさいとか、そういう男尊女卑とも取れる勧めが新約聖書にはある。あるいは旧約では一夫多妻制が良しとされている。しかしそういうのを全部字義通り現代の教会に取り入れる訳にはいかない。だからギャップが生じる。

 けれど私が感じていたギャップをそれと同類に扱えるかと言うと、扱えないと思う。「つらく当たってはいけません」と書いてあるのに暴言を吐いて怒鳴り散らすのは、ギャップとは言わない。それは聖書に従っていないと言う。
 今ならハッキリそうわかる。当時はぼんやりした矛盾としてしか、私の中になかったけれど。

 つまり私の教会(あるいは牧師)の問題の本質は、「聖書に従っていない」の一言に尽きる。従っているように見えて、従っていると言っていて、その実1ミリも従っていない。あるいは部分的に従っていて、肝心なところを無視している。
 今まで取り挙げてきたいろいろなトピック、弟子訓練とか霊の戦いとか、祈りの歩行とか預言的アクションとか、そういうのも全部「聖書に従っていない」という、同じ一つの出発点を持っているように思う。聖書のどこにも書かれていない自分たちで勝手に作り上げた教理、あるいは誰かが作った教理で自分たちの都合のいいものを導入し、「教会」をやるための道具にしている。神が何を願っているかでなく、自分たちが何を願っているかにしか興味がない。

 こうやって私の教会の問題点についてトピックごとに書いてきたけれど、ある時私は、一つのことに気づいた。それ自体で絶対的に悪いと言えるものは少ない、ということだ。
 たとえば弟子訓練は多くの問題を孕んでいるし、実際問題を起こしているけれど、それそのものが絶対的に悪く、どんな場合においても悪い結果しか残さない、ということではない。やり方を見直す必要は大いにあるけれど、先輩が責任をもって後輩を教えてその成長を助ける、というコンセプトだけ見れば、むしろ良い。やり方さえ考えれば良いものになりえる。

 だから本質的なところで言えば、カルトっぽい教会とかカルト化した教会とかの問題点は、その教理とか方法論とか教会政治とか教会運営とかにあるのではない。もちろん牧師に権力が一点集中してしまうシステムには難があるけれど、それは問題の根幹ではない。どちらかと言うと枝葉の方だ。
 では何が根本的問題かと言うと、それは人の心だ。前述のように神の言葉に従うフリだけで結局従わず、敬虔を装って自分の願望を満たそうとする、その偽りにこそ全ての教会問題の原因がある。でも人は自分の心を完全に偽ることができないから、近しい人への暴言とか、人をバカにするその無礼さとか、そういう隠しきれないものが態度に滲み出るのだと思う。

 ある教会について判断しようとする時、私が思う見るべきポイントは、建物とか立地とか教団教派とか信徒数とか礼拝スタイルとか雰囲気とかではない。私が見たいのはただ一点、リーダーの人間としての品位だ。それも普段の姿でなく、緊急時とか問題発生時とか、ストレスフルな状況下でどんな態度を見せるか、だ。あるいは人をどのように扱うか、だ。その品位に一定の敬意を払えるのでなければ、その教会に通うのはやめた方がいい。

 というのが結論なのだけれど、これは私が感じていた「矛盾」に対する私なりの答えでもある。教会生活をしていて何かおかしい、何か違和感がある、と思ったら、自分の未熟さ弱さだけ見るのでなく、リーダーや先輩たちの人間性とか品位とかについても冷静に分析してみるべきだ。そしてたとえば第1コリント13章と照らし合わせてみて、この人はどうなんだろう、と評価してみると、案外見えてくるものがあると思う。人間口ではイロイロ言えるけれど、要はその行動とか態度とか以上に語るものはないのである。

2 件のコメント:

  1. 牧師の人間性や品格に疑問をもち、クリスチャンに相談したら必ず「人を見ているからつまずく、神様だけを見なさい」と言い返されて、私の方が信仰に難ありとなるんですよね。それで、ズルズルととどまり大火傷をしてから脱会しました。
    私も、品格や人間性は大切と身にしみています。

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    1. 私もそのような教会を出る前に良かれと思って「私はここをでるよ。ここの真理のとらえ方ははおかしいと思うから」って告げたら、他のクリスチャンにおなじ事を言われたよ。新しい教会で間違った電車に乗ってしまったら、いくらここじゃないと反対方向に走ってみても、終着駅は一緒である。間違った電車に乗ってしまったと思ったら、そこからお降りなければ同じ方向に向かってしまうという例えだった。なるほどと思ったけどね。私は途中下車で今の教会にたどり着いたよ。

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