カルトっぽい教会を離れた後の話・11

2016年1月31日日曜日

教会を離れた後の話

t f B! P L
 私の教会で重視された「信仰的姿勢」の一つは、「神の導きに従順する」というものだった。

 神の導き。
 それは何にも優先される事柄であった。たとえば選択肢がAとBと2つあって、神がAを導いている。であるなら、私たちはAを選ばなければならない。 何に替えても。何を犠牲にしても。なぜなら全知全能の、全宇宙の創造者である神が、私たちをAへと導いているのだから。それに逆らうことは御心に反することであり、御心を邪魔することであり、神の敵になることであり、罪であり、よって私たちは救われなくなってしまう。だから私たちは、一度導かれたなら、Aを選ぶ他ない、ということになる。

 もっとも、神様に○○と導かれたからそれに従う、ということ自体はさほど問題ではない。自分が信仰する相手が自分をそう導いている、だからそれに従う、というシンプルな話だからだ。それは聖書に書かれているオーダーに従うことと、基本的に変わらない。

 というわけで私の教会は「神に導かれて」いろいろな宣教地に出向いたり、福祉事業や飲食店経営を始めたり、新会堂を頑張って建てたり、いろいろな神社仏閣に「霊の戦い」をしかけに行ったりした。どれも「神の導き」によるものだった。

 でもその過程で、教会の事業を手伝うために会社を辞めたとか、新会堂を建てるために個人で借金したとか、深夜の「霊の戦い」や長時間礼拝が続いて体調を崩したとか、そういう大きな「犠牲」を信徒が払うことになった。
 クリスチャン的にはそこは「喜んで捧げます」と言うべきかもしれないけれど、おそらく正直な話、一片の悔いも未練もなく捧げたという人はいないだろう。むしろどこかで疑問に感じたり、強制的なものを感じたりした人もいただろうと思う。
 少なくとも私自身はそうだった。喜んで捧げますと言ったし、自分自身にもそう言い聞かせていたけれど、どこかで理不尽なものを感じていた。

 だから実際には、「神の導きに従う」のはさほどシンプルな話ではない。単純に「神に導かれたからした」では済まされない事態にもなる。
 たとえば上記の選択肢AとBの話で言えば、以下のいくつかの疑問に明確に答えてからでなければ、単純にAを選ぶべきではない。

①その選択肢は妥当か
 選択肢は本当にAとBだけか。CやDやEはないのか。本当にAとBのどちらかからしか選べないのか。そもそも、今このタイミングで絶対にしなければならない選択なのか。

②その「導き」は妥当か
  その「導き」は誰がどのようにして「語られた」のか。複数の人間が何の誘導もなしに、何の前情報もなしに、何の心理的作用なしにまったく同じことが「語られた」のか。またその内容は聖書の原則に反してしないか。

③それに従う結果、誰かが不利益を強制されることにならないか
 たとえば「新会堂を建てるように導かれている」という話になると、必ずと言っていいほど「献金しましょう」という話になる。けれど相手は新会堂だから、1000円とか2000円とかで済まなくて、けっこう多額な献金を払うのが当然みたいな雰囲気になる。 挙句の果てに、何時何時までにこれこれの額が必要だから、皆さん捧げましょう、みたいな話になって、真面目な人は家計が火の車になっても「主のために」捧げてしまう。それは結果的に(状況的に)献金を強制されているのであって、導かれているのではない。少なくとも心から喜んで、進んで捧げているのではない。それなのに表向きは、信仰によって喜んで捧げた、みたいな話になってしまう。

 以上の3つは、最低でも確認しなければならない点だと思う。そしてそういう視点で当時の私の教会を振り返ってみると、なんと怪しい「導き」ばかりだったことか。新会堂にしたって初めから「どうやって建てるか」という話ばかりで、「建てないで様子をみる」という選択肢はなかった。それに「導き」かどうかを決定する段階でも、牧師の巧みな説得と誘導があった。当時は聖書のソロモンの神殿の箇所ばかりが引用されて、「ほら、神様も新会堂を願ってらっしゃる」と刷り込まれていた。

・「神の導き」についての勘違い

 たぶん一部の教派のクリスチャンは、「神の導き」について勘違いしている。

 ツイッターなんかを見ると、「今日も神様の導きがありますように」「今日も一日私を導いて下さい」みたいなことを朝から書いている人がいるけれど、大丈夫だろうかと他人事ながら思ってしまう。ちゃんと顔を洗っただろうかとか、トイレに行けただろうかとか、そういう心配をしてしまう。
 なぜなら「導きに従う」ということは、「導かれないことはしない」ということだからだ。神様から毎日「顔を洗いなさい」と導かれなければ、彼らは顔を洗わないはずだ。

 屁理屈を言うなと思うかもしれないけれど、私はいたって真剣である。話をわかりやすくするため、極端に表現してみよう。「導きに従って生きる」を一方の端とし、反対の端を「自分で判断して生きる」とする。前者の代表をAさん、後者の代表をBさんとしてみよう。

 さて朝、Bさんは起きてすぐ、自分で決めた日課に従ってまず顔を洗い、次にトイレに行った。その間Aさんは布団の中で、神に祈っている。「神様、私を導いて下さい。まず顔を洗うべきですか、それともトイレに行くべきですか」しかしなかなか明確な答えがなくて、そうこうしているうちにBさんは身支度を終えて家を出て行った。Aさんはついにトイレを我慢できなくなって、こう言う。「ああ神様、もう尿意を我慢できません。これはトイレに行けという導きですね? ではそれに従ってトイレに行きます。主よ感謝します」
 でもちょっと待って下さいAさん、そもそもなんで布団の中で祈ったのですか? 布団の中で祈るように導かれたんですか? そしてそれ以前に、なんでその時間に起きたんですか? その時間に起きるように導かれたんですか? それに、もしかしたら尿意を我慢することが御心なんじゃないのですか? なぜ尿意があるからトイレに導かれていると判断したのですか? それは目に見えるところに従って判断しただけで、霊的とは言えないのではありませんか?
 と、いうような話になる。誰がそんな面倒臭いことをするだろうか。たぶん誰もしないであろう。でも「導かれたい」系のクリスチャンの生活は、つきつめて考えると、そうあるべきなのだ。

 でもたぶんこういう話をすると、次のような反論があるだろう。「そのような基本的なことまでは祈らない。伝道とか、奉仕とか、そういう神の務めにおいて我々は導きを祈るのだ」

 でもそこもちょっと待てだ。その考え方によると、導きを求めるべき事柄と、求めなくていい事柄とがある、ということになる。ではさっきの「今日も一日導いて下さい」はどうなった。一日の中でも導いてほしいことと導いてほしくないことがある、ということか。だとしたらその線引きは誰が、どのようにして決めたのだろうか。祈るべき事柄と、祈らなくてもいい事柄とを、どうやって切り分けたのだろうか。
 それに仮に伝道のことで導きを求めるとして、どこまで導かれればいいのだろうか。伝道の場所、日時、対象、何人で行くか、何をどう語るか、いつ終わりにするか、どうやってそこまで行くか、どうやって帰るかとか、そんなことまで導かれなければならないのだろうか。そうだとして、誰がどうやって「語られ」て、誰がどうやってそれを確認するのだろうか。

 だから「神の導き」を言うなら、そういう疑問や矛盾に、ちゃんと答えなければならない。

 たぶん「導かれたい」系のクリスチャンは、「神がすべてを益にして下さる」という聖書の言葉を知らないか、あるいは無視している。なぜなら「益にして下さる」ということは、人間からみて上手にできなかったことや、失敗したこと、不本意な結果に終わったこと、間違えてしまったことが沢山あるということに他ならないからだ。

 だから「神に導かれたい」という願いには、失敗したくない、うまくやりたい、成功したい、という人間の側の願望が多少なりとも含まれている。そのために神を利用しようとしている。もちろん純粋に神様に従いたいという動機もあるだろうけれど。
 しかし上記のように、明らかに「導き」を求めることと求めないことの線引きがある訳で、そこには取捨選択という自己判断が働いている。だから彼らが言う「神様どうか導いて下さい」は、実は「自分が導いてほしい分野でだけ導いて下さい」という意味なのだ。それを否定するなら、さっそく今日の朝から、何時に起きるべきか、起きたらまず何をするべきか、事細かに導いてもらうべきだ。

 これはたぶん、子供のいる親であればわかりやすい。自分の子供が何をするにも自分で決められず、「どうしたらいい?」「次はどうしたらいい?」「ねえ次は?」「次は?」といちいち聞いてくるとしたら、かなり心配になるだろう。あるいは苛々して「自分で考えろ」と突き放したくなるだろう。神に一日導かれたいと願うのは、そういう子供と同じようなことになる。

 私が思うに本当の「神の導き」は、人間が自分で考えて判断することに他ならない。自分なりに聖書を読み、そこから学び、他のクリスチャンの意見も参考にしつつ、神様が提示している原則を読み取り、それに従って生きていくことだ。その結果失敗したと思っても、うまくできなかったと思っても、それで神が我々を怒るなんてことはない。むしろ神はそこに働いて、すべてを「益に変えて」下さるのだと私は信じている。

 それもまた、「導き」重視のカルトっぽい教会を離れてから気づいたことだった。

・補足

「神の導き」そのものを否定しようとは思わない。 ただ「神の導き」を利用した信徒虐待が実際にあるから、「導き」と言われることを何でもかんでも簡単に信じてはいけない、という注意喚起の意味を込めて書いている。

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