私の教会には沢山のタブーがあった。
たとえば映画や音楽は悪魔の影響を受けるからダメ。本や雑誌も同様。男女交際は罪と堕落の始まり。飲酒喫煙もってのほか。他の教会に遊びに行くのもまず牧師に相談。贅沢品など買う余裕があったら献金して天に宝を積みなさい。その他諸々。
たとえば映画や音楽は悪魔の影響を受けるからダメ。本や雑誌も同様。男女交際は罪と堕落の始まり。飲酒喫煙もってのほか。他の教会に遊びに行くのもまず牧師に相談。贅沢品など買う余裕があったら献金して天に宝を積みなさい。その他諸々。
それらの中でも群を抜いてタブーだったのが、牧師に反対意見を唱えることだった。牧師の意向を断ったり、牧師がやろうとすることに反対したり、今やっていることに異論を挟んだり、それらは全部「牧師批判」あるいは「教会批判」とされ、どこにも明文化されていなかったけれど、大変な「重罪」とされていた。 誰も何も言わないし、それは空気みたいに見えないのだけれど、いや空気のように確かに存在していた。暗黙のルールとして。
だからたとえば牧師から新会堂建設の話が出た時、本当に新しい会堂が必要ですかとか現状じゃダメですかとか言うと、「それが御心だ」とか「そうやってみんなの高まっている気持ちを削ぐのか」とか本気で怒られてしまう。
教会が終末思想に取り憑かれていよいよ危険な雰囲気だった時、1人の信徒(若い女性)が、その雰囲気に異論を唱えるために勇気をもって牧師のところに行った。結果、彼女は大泣きして牧師室から出てくることになった。
ある教会役員は、終わらない奉仕や牧師の叱責の毎日に疲弊しきっていた。そしてある夜、ついに牧師に辞意を伝えた。役員を降りて、普通の信徒に戻りたいと申し出たのだ。 すると牧師は烈火のごとく怒った。お前がしていることは教会批判だ、今すぐ緊急役員会を召集してお前の処遇を検討しなければならない、それが嫌なら今すぐ悔い改めろ、と捲し立てる。まさかそういう展開になるなんて思わなかったその役員は、絶句する他なかった(結局牧師に謝ったのだけれど)。
教会が終末思想に取り憑かれていよいよ危険な雰囲気だった時、1人の信徒(若い女性)が、その雰囲気に異論を唱えるために勇気をもって牧師のところに行った。結果、彼女は大泣きして牧師室から出てくることになった。
ある教会役員は、終わらない奉仕や牧師の叱責の毎日に疲弊しきっていた。そしてある夜、ついに牧師に辞意を伝えた。役員を降りて、普通の信徒に戻りたいと申し出たのだ。 すると牧師は烈火のごとく怒った。お前がしていることは教会批判だ、今すぐ緊急役員会を召集してお前の処遇を検討しなければならない、それが嫌なら今すぐ悔い改めろ、と捲し立てる。まさかそういう展開になるなんて思わなかったその役員は、絶句する他なかった(結局牧師に謝ったのだけれど)。
そういう事例を挙げるとキリがない。牧師に反対して追放処分になった人も少なくない。当然「追放」なんて言葉は使われず、牧師の口から出るのはいつもこういう台詞だった。「不従順な信徒が自ら出て行った。私は愛をもって止めたのに」
そこでは「反対意見=不従順=教会批判」であった。そして反対意見を言う人は締め出されるし、それを見ている人たちは余計に反対しづらくなるから、結果的に全員が牧師の言葉に即決でハイと言うようになっていった(あるいはそういう人間しか残れなかった)。
「反対意見=不従順=教会批判」
当時の私は疑問に思わなかったのだけれど、この方程式は間違っている。あるいはその方程式が成立するケースもあるだろうけれど、反対意見の全てが不従順とイコールになるのではない。たとえば新会堂設立で考えてみれば、「予算的に現段階では無理です」と言うのは反対意見ではない。冷静な現状分析あるいは現実的な忠告だ。
また「教会の雰囲気がおかしい」という信徒の問いかけは、むしろ牧師にとって貴重な意見のはずだ。なぜそう思うのか、何がおかしいと思うのか、ちゃんと話を聞いてもいいだろう。特に相手は見知らぬ誰かでなく、教会の信徒なのだから。それを「教会批判だ」の一言で叩き潰すのは、信徒に対する愛情だろうか。
というのは考えてみれば当たり前なことなのだけれど、当時の私にはわからなかった。もしわかっていれば、私はとっくの昔に追放されていだろう。
・「教会批判だ」で放置される問題
キリスト教界で「批判は良くない」という台詞を時々見る。牧師批判・教会批判は悪いことだ、罪だ、害をなすだけだ、という論に一理もない訳ではない。しか
しその結果、あらゆる「困り事」を我慢して「感謝します」としか言えなくなるとしたら、その方がよっぽど良くない。そこには批判と非難の混同がある。
「批判」には「物事の良し悪しを判断する」「誤りを指摘して正す」という意味があり、特にコミュニテの中で建設的な役割を持っている。一方で「非難」には「人の欠点や過失を責め立てる」という意味があり、コミュニティを破壊する可能性を秘めている。両者が正反対なのは明白だ。前者は良いものだけれど、後者は確かに「良くない」。
たとえば聖書を見てみると、旧約でも新約でも、コミュニティ内の「困り事」を申し立てて正当と受け入れられた人たちの話がある。またパウロは皆の面前でぺテロを批判し、結果、異邦人がユダヤ人的慣習を受け入れなければならない事態を回避した。彼らは単に誰かにケチをつけたかったのではない。問題を正すために言ったのだ。それは間違いなく、非難でなく批判だ。
だが今教会でよく語られる「批判は良くない」は、そういう正反対の両者をゴチャ混ぜにしていると思う。そしてイロイロな問題を放置させることになっていると思う。単にケチをつけることと、問題を正そうと思って発言することとは全然違うのに。
という訳で私は「非難は良くない」には同意するけれど、「批判は良くない」には全然同意できない。
どこもあるのですね。
返信削除牧師の横暴ぶり、私物化。
そして、プロパガンダ宣伝で信徒に憎悪を植え付ける小細工。
そのような人は宗教家にならないでいただきたい。
「そのような人は宗教家にならないでいただきたい」
削除それは無理ですよ(笑)
横暴で「お前のものは俺のもの 俺のものは俺のもの」という、ジャイアンと同じタイプだからこそ、新興宗教系の宗教団体を開業して、教祖様として絶対的な権力をふるっていくことに向いているわけです。
もし「自分にはそのようなことはできないし無理だ」という優しい人でしたら、新興宗教系の宗教団体では食い物にされる側になってしまいますので、絶対に食い物にする側にまわることはありません。
田中角栄なみのワンマンさがないと、新興宗教商売はできないでしょうね。
fujimaruさんが体験した新興宗教系プロテスタントの宗教団体の教祖は、「人の話を聞かない」「部下にはただ絶対服従を求める」で、まさしく一代で成り上がったワンマン社長です。
神の宮(教会)を自分(牧師)の物だと思っている。
返信削除愛がないから信徒の意見も尊重することができないのよ。尊重しないまでも意見や不満を聞いてあげることへ何のためらいや不服があるのかさっぱりわからない。愛がないところに神などいない。なぜなら神は愛だからです。信徒がいるから神の宮(教会)なのに。なぜ自分が牧師になろう思ったのかもう一度考えてみてほしいものだ。
この業界に入って聖職者になる道を選んだのも、最初から楽をして大金を得てやろうという気持ちがあったからです。
削除神の宮とか愛とか向こうにしてみれば、「はあ?お前なにたわけたこといってんだ?バ~カ!」というところではないかと思いますよ。
新興宗教系のプロテスタントの業界なんて、そもそもこの程度のものでしかありませんよね。そんなところに愛がないと嘆いてみてもしょうがないのではありませんか?
あっちは信者の意見や不満なんか聞くはずがないでしょうがね。だってそんなものをいちいち取り合っていたら、お金がもうからないじゃないですか?!
大金をゲットできないなら、なんのためにこの業界に入ったのかということになりますよ。「ここは神の宮なのに」「愛がない」「意見も不満も聞いてくれない」という「くれない族」になるほうがおかしいのですよ。
だってそこは神の宮ではなくて、その人の金儲け商売の店でしかありませんからね。必要なのは愛じゃなくて金儲けのマニュアルだけでしょうよ。
私もそのくちで教会をでた一人です。だからうちの教会の在り方(上層部)と牧師の意見や不満を誰もきいてくれなかった。ましてや少し愚痴ることもゆるされなかったので、教会の牧師をはじめ信徒は私のことを牧師批判者でとおっている。牧師は1ミリも自分のおごり高ぶりがなかったのかを振り返りもせず、自分の信徒を牧師批判者に仕立ておいて 愛なんて語るなよな。
返信削除大学生時代に福音派教会で洗礼を受け、2年半くらいで、今で言うならカルト的教会に嫌気をさして、以降47年間無教会(組織としてのキリスト教と教会には信頼性を置けないため)で過ごしております。インターネットが始まってから、色々な教会や信徒の様子を調べておりますが、かなり悲惨な状況が窺えます。教会に行こう思われる方は、色々な管理人さんブログ(ようやく半分読みました)などを参考にされるのが宜しいと思います。私は教会を去ってからキリスト教を批判的に学びました。本来有りうべき姿は何なのかなど。自分の拙いWEBで気ままに書いております。公開を終えたキリスト教千夜百話から3冊、無料電子書籍を作っております。もし、お暇があればお読み頂ければ幸いです。もし不都合があれば、この投稿を削除下さい。
返信削除無料電子書籍「キリスト教の誕生から将来(本音で語るキリスト教の本質)」(1~20章)原始キリスト教から初期キリスト教へ、1~3世紀のキリスト教のライバル、キリスト教の正統と異端とは?使徒パウロの影響、「贖罪論」とは、ユダの福音書、神の国に秘儀はない、イエス伝「完全な者となれ」とは?「右の頬を打たれたら、左の頬も向けよ」とは?「豚に真珠」とはイエスは語らず「隠された宝の譬」の本意を推理する、イエス伝「からし種とパン種のたとえ」、イエス伝「神の信、人の信」(マルコ)、シドッチと新井白石の西洋紀聞から、はると長助・そしてシドッチ「命の重さ」、豊後王妃・イゼベルと切支丹大名・大友宗麟、日本人キリスト者・賀川豊彦、「日本のシンドラー」杉原千畝、遠藤周作「わたしが棄てた女」に見る無償の愛、絶対性を否定するところから普遍性が見えてくる。
(PDF版)https://www.dlmarket.jp/products/detail.php?product_id=338177
(EPUB3版)http://books.rakuten.co.jp/rk/eaccc23dcfad3952b8294a7fb66e6028/
新興宗教系の「キリスト教会」に、神は居ないよ!
返信削除私は、自称、使徒的預言的の教会に一時いて、
返信削除なんかココ変だなあと思ってフェイドアウトしたクチなんですが、
牧師という名の独裁者(愛欠落症)に
意見や提案をして、公開処刑みたいな目にあって
ひきこもりになってしまった人や、
転会する人が後を立ちませんでした。
北朝鮮みたい。
考えたら、詐欺を合法的にやろうとすればできるのが宗教家ですね。
返信削除カトリックなどの大きな組織ならまだしも、個人経営のプロテスタントは闇に包まれて隠微されますね。その上、非課税とは!