「神に語られた」の誤り・まとめ

2014年8月26日火曜日

「啓示」に関する問題

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「神に語られた」の誤りについて、まとめ。
 前回までに、「神に語られた」の3つの誤りを挙げてきた。つまり、
 

 である。
 これらには「確証バイアス」が働く可能性が高い。自分にとって都合の良いこと、語ってほしいこと、こうであってほしいと願うことを無意識的かつ意図的に選びとり、「神にこう語られた。自分の思いではない」と主張するのだ。それは結局のところ「御心の操作」であり、「御心の捏造」である。それが神に喜ばれることかどうか、語るまでもない。

 もちろん、それらの方法を通して神が本当に語られる可能性はある。けれど昨今の教会のカルト化、あるいはそうなる危険性の高い状況下で、信徒が信仰という名の虐待を受けている様を思うと、この「語られた」はよほど慎重に吟味されなければならない。まずは疑ってかかるくらいが丁度いい。

 ここで「疑う」という言葉を出すと、すぐに「それは不信仰だ」と言う人がいる。けれどこの「疑う」は、「本当に語られたのかどうか確かめたい」という種類のものだ。語られた内容がどうこうということではない。
 それに神様は寛容な方だし、私たちが「本当だろうか」と吟味するのを喜ばれる方なので、疑ってかかることは何ら問題ではない。逆にそういうことを問題視する牧師やリーダーの方にこそ問題がある。

 この確証バイアスに満ちた「語られた」の問題点は、自分にとって都合の良いことを御心と決めつける、というだけではない。もっと根本的な間違いがある。というのは、前回「淡いセンセーション」のところでも書いた、「良い結果だったらそれは御心だったと判断する」という点だ。
 つまり、神の御心はいつも自分にとって良いもの、優れたもの、繁栄をもたらすものでなければならなず、そうでないものは御心ではない、ということだ。

 これは繁栄の神学に通じる考え方だ。自分や自分の教会が繁栄することだけが御心であって、信仰に歩んでいるなら繁栄しないはずがない、繁栄しないなんてあってはならない、という発想である。

 彼らに欠落しているのは、良いも悪いも全て神からのものとして受け取る、という視点だ。彼らは暗に、ヨブの苦しみと忍耐とを否定している。
 だから「語られた」にしても、結果的に自分に都合の良いことだけが「語られる」のである。

 最後にもう一つ注意点を挙げると、たとえ不利益を被る内容が「語られた」としても、それを神からのものと断定するのはちょっと早い、ということだ。
 というのは、あえて不利益なことが「語られた」と言って、それに従順する自分の敬虔さをアピールする輩がいるからだ。

 たとえば教会に多額の寄付があり、皆で喜んでいたところ、牧師が神妙な顔で言う。「この寄付を全部、⚪⚪団体に捧げるよう語られました。だから私は信仰に立って、そうすることにします! 私は金銭よりも神に従順します!」
 会衆は驚き、でも感動して、皆で「アーメン」と言う。

 その牧師は、もともと自分のものでない金で、「神の従順なる僕」という評価を買ったのである。
 ここまでして「語られた」を利用しようとする訳で、人間とは本当に恐ろしいものである。

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