「神に語られた」の誤り・あるいは思い込み・あるいは捏造

2014年8月22日金曜日

「啓示」に関する問題

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 ごく一部のクリスチャンだと思うけれど、「神に語られた」を乱用する人たちがいる。「神は日々語られる」ということで、「今日はこう語られた」「あの聖書箇所が示された」「神様のオーダーだから今から〇〇をしなければならない」「これは神様からの秘密の啓示だ」等と言う。それらは果たして真実なのだろうか。

 この「真実なのだろうか」を書くだけで、その手の人々は、「不信仰だ」「疑うなんてクリスチャンとしてあり得ない」などと言う。彼らは「語られたっぽいこと」は無条件に信じるのが美徳・信仰だと思っている。そのメカニズムはおそらくこうだ。

 自分が祈っている相手は神様であって、
 その祈りの中で「語られた」ことなのだから、
 それは神様からのものに間違いない、
 だから疑うなんてあり得ない。

 このプロセスそのものは間違っていない。問題はこの「語られた」の部分にある。「語られた」が本当に神様に語られたことであるなら、それを疑うことは、彼らの言う通り不信仰であろう。しかしそうでないとしたら、どうだろうか。

 今回は「神様に語られた」という「語られ方」のいくつかの誤りについて書きたい。

・適当に開いた聖書のページから「語られた」

 こんな話がある。
 神様に祈っていて、何となく「聖書を開いてごらん」と言われた気がした。それで適当に開いてみると、たまたまヨハネ3章16節が目に飛び込んできた。「神は世を愛された。世とは私のことでもあるから、神様は今、私を愛しているって伝えてくれているんだ」と感動する。

 これはかわいくて無害なケースだけれど、同様の手順で、何が「語られる」かわからない。たとえば実家の仏壇を捨てたいけれど両親に反対されている人が、この方法で聖書を開き、たまたま「聖絶せよ」なんて箇所を見つけたら、どうなるだろうか。その足で実家に行き、無理矢理仏壇を捨てかねない。そしてその理由が、「神に語られたから」になる。

 適当に開いた箇所が「語られた」というのは、「おみくじ」と同じだ。
 たとえば大学受験を控えた受験生が、合格祈願でおみくじを引く。「大吉」と出れば多少安心して、その後の勉強がはかどるかもしれない。あるいは「凶」と出たから焦って、猛勉強を始めるかもしれない(結果的にその方がいいかもしれないが)。しかしどちらにしろ、気持ちの問題だ。ランダムに提示される「啓示」を、自分の状況に当てはめているに過ぎない

 聖書にしてもまったく同じである。聖書は端から端まで神様からのメッセージなのだから、どこを開いても何らかの意味がある。マタイ1章の人名の羅列からも語られることができる。しかもその時々の状況に合わせて、何とでも解釈することができる。

 たとえば人が礼拝に行こうとしている時、友人に負い目があるのを思い出す。その友人に謝らなければという思いが強い場合、「安心して行きなさい」という言葉は、その人を友人のもとへ向かわせるだろう。逆に友人に謝りたくない、顔を合わせたくないと思っている場合、同じ「安心して行きなさい」が、その人を礼拝に向かわせる口実となる。
 つまり同じ言葉でも、自分が「こう語られたい」という形に、いかようにも変換されて解釈されてしまうのだ。

 あるいは開いた箇所によっては、どうにも「語られた」に持っていけないことがあるかもしれない。たとえばマタイ27章の、イスカリオテのユダが首をつった、という箇所が目に入ってしまうと、なかなか解釈しづらい。そういう時どうするかと言うと、「3回繰り返しなさいと語られた気がする」とか言って、3度ランダムに開くのである。それで3回目がそれなりに意味のある個所であれば、「やはり3回繰り返すというのが御心だった」と言える。同様に、7回とか、12回とか、聖書によく出る「数字」を勝手に(都合よく)利用するのである。

 という訳で、この「語られた」は人為的な操作が十分に可能であり、「神から語られた」とは言い難い。それはあるいは無意識的な操作かもしれない。けれど無意識だから許されるということではない。神に語られたいと願うクリスチャンであるなら、こういうメカニズムが働くということを、よくよく認識しておくべきだ。でないととんでもない信仰モドキに陥ってしまうかもしれない。

 続きは次回に。

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