ごく一部のクリスチャンだと思うけれど、「神に語られた」を乱用する人たちがいる。「神は日々語られる」ということで、「今日はこう語られた」「あの聖書箇所が示された」「神様のオーダーだから今から〇〇をしなければならない」「これは神様からの秘密の啓示だ」等と言う。それらは果たして真実なのだろうか。
この「真実なのだろうか」を書くだけで、その手の人々は、「不信仰だ」「疑うなんてクリスチャンとしてあり得ない」などと言う。彼らは「語られたっぽいこと」は無条件に信じるのが美徳・信仰だと思っている。そのメカニズムはおそらくこうだ。
自分が祈っている相手は神様であって、
その祈りの中で「語られた」ことなのだから、
それは神様からのものに間違いない、
だから疑うなんてあり得ない。
このプロセスそのものは間違っていない。問題はこの「語られた」の部分にある。「語られた」が本当に神様に語られたことであるなら、それを疑うことは、彼らの言う通り不信仰であろう。しかしそうでないとしたら、どうだろうか。
今回は「神様に語られた」という「語られ方」のいくつかの誤りについて書きたい。
・適当に開いた聖書のページから「語られた」
こんな話がある。
神様に祈っていて、何となく「聖書を開いてごらん」と言われた気がした。それで適当に開いてみると、たまたまヨハネ3章16節が目に飛び込んできた。「神は世を愛された。世とは私のことでもあるから、神様は今、私を愛しているって伝えてくれているんだ」と感動する。
これはかわいくて無害なケースだけれど、同様の手順で、何が「語られる」かわからない。たとえば実家の仏壇を捨てたいけれど両親に反対されている人が、この方法で聖書を開き、たまたま「聖絶せよ」なんて箇所を見つけたら、どうなるだろうか。その足で実家に行き、無理矢理仏壇を捨てかねない。そしてその理由が、「神に語られたから」になる。
適当に開いた箇所が「語られた」というのは、「おみくじ」と同じだ。
たとえば大学受験を控えた受験生が、合格祈願でおみくじを引く。「大吉」と出れば多少安心して、その後の勉強がはかどるかもしれない。あるいは「凶」と出たから焦って、猛勉強を始めるかもしれない(結果的にその方がいいかもしれないが)。しかしどちらにしろ、気持ちの問題だ。ランダムに提示される「啓示」を、自分の状況に当てはめているに過ぎない。
聖書にしてもまったく同じである。聖書は端から端まで神様からのメッセージなのだから、どこを開いても何らかの意味がある。マタイ1章の人名の羅列からも語られることができる。しかもその時々の状況に合わせて、何とでも解釈することができる。
たとえば人が礼拝に行こうとしている時、友人に負い目があるのを思い出す。その友人に謝らなければという思いが強い場合、「安心して行きなさい」という言葉は、その人を友人のもとへ向かわせるだろう。逆に友人に謝りたくない、顔を合わせたくないと思っている場合、同じ「安心して行きなさい」が、その人を礼拝に向かわせる口実となる。
つまり同じ言葉でも、自分が「こう語られたい」という形に、いかようにも変換されて解釈されてしまうのだ。
あるいは開いた箇所によっては、どうにも「語られた」に持っていけないことがあるかもしれない。たとえばマタイ27章の、イスカリオテのユダが首をつった、という箇所が目に入ってしまうと、なかなか解釈しづらい。そういう時どうするかと言うと、「3回繰り返しなさいと語られた気がする」とか言って、3度ランダムに開くのである。それで3回目がそれなりに意味のある個所であれば、「やはり3回繰り返すというのが御心だった」と言える。同様に、7回とか、12回とか、聖書によく出る「数字」を勝手に(都合よく)利用するのである。
という訳で、この「語られた」は人為的な操作が十分に可能であり、「神から語られた」とは言い難い。それはあるいは無意識的な操作かもしれない。けれど無意識だから許されるということではない。神に語られたいと願うクリスチャンであるなら、こういうメカニズムが働くということを、よくよく認識しておくべきだ。でないととんでもない信仰モドキに陥ってしまうかもしれない。
続きは次回に。
聖書は占いやおみくじに使うものではありません。そういうことをしたければ、神社に行ってちゃんとお金を払っておみくじを引くべきなのです。なんでもただでやろうという根性がさもしいと思いました。
返信削除「声が聞こえた」というのは気色が悪いです。もし私の周囲で「神の声が聞こえてきて云々・・・」という人がいたら、私はその人を精神病院に連れて行くと思います。
宗教を若いころから熱心に信じるものではありません。私がかつて通っていた習い事の先生は、実家がお宮さんだったせいか、昔から「神の声を聞きました」みたいな話をする人を多少は知っていたようで、いつも「若い方、特にお嬢さんが熱心に宗教を信じるということはしてはいけませんよ。神を敬う心はもつべきですが、だからといって熱心になりすぎてガチガチになるのは絶対にだめです」といっていました。私が「やはり宗教は危ないからですか?」とたずねたら、苦笑いして「危ないというのか・・・とくに若いお嬢さんだと、神様の声が聞こえるようになってしまいますよ。神の巫女として召し出されたとでもいうのでしょうかね・・・そうなるともう二度と元の世界に戻れなくなってしまうのです。だから若い方は神を敬うことはするべきでしょうが、熱心に宗教の活動をするべきではありません」と。
若いころから熱心な宗教の信者、とくに新興宗教を熱心にやってきた人の中におかしな言動の見られる人が多いのは事実だと思います。ペンテコステ派を若いころから熱心に信じていた男性の話ですが、中年になって急に神様のお声が聞こえるようになってしまいまして、ある日祈っていて神様から「仕事をやめてしまいなさい。神様がなんとか養ってくださいます。何も心配せずに」というご神託(?)を受け取ったそうで、彼は奥さんに相談せずに勝手に仕事をやめてしまい、車で全国を回って説法し、家はほったらかしでした。奥さんは病気がちで働けず、家はあっという間に干上がり、電話・電気・ガス・水道もとめられ、具合が悪くなっても医者にも行けない奥さんは、なけなしの金で親戚や友人に手紙を送り、彼らが衣類や食料等を送って、ようやっと餓死を免れるというひどい生活を強いられたケースがあります。この家は子供がいなかったのだけが不幸中の幸いといえば幸いでしたが、これで子供がいたならば、もっとひどいことになっていたでしょう。
イエス様は語って下さる神様です。霊に語って下さるのです。その声を聞くと心に平安が広がります。また聖められると聖霊が導きを与え語ってくださり、色々な状況の中であっても助けて下さいます。それは『使徒の働き』で聖霊が使徒に語って下さったそのことが、まさに現代においてもなされています。パウロも言っています。『お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう』と。ローマ14:19 霊的成長は大切です。私たちが神様に近づくと神様も私たちに近づいて下さるのです。神の前に霊の目が開かれるようにへりくだり祈り求める砕かれた心が必要です。
返信削除最初の匿名様
返信削除コメントありがとうございます。
宗教を若い頃から熱心に信じるものではない、というのは興味深いお話ですね。
ペンテコステ派の中年男性のお話は、似たようなケースが多く、深刻な問題だと思います。本人だけならまだしも、家族や親類が巻き込まれていくのは更に大きな悲劇を生みます。それが本当に「神の声」であるなら、その「神」は「滅びの神」ということになり、聖書の言う神と矛盾することにもなります。
次の匿名様
コメントありがとうございます。
「きよめられると聖霊が導きを与え語ってくださり」とありますが、これは逆に言うと、きよめられないと導かれない、語られない、ということになりますね。ということは、ステパノを迫害したころのサウロはなぜ導かれ、語られたのでしょうか。きよくなかったはずですが。不思議なお話ですね。
神がサウロに語られたのは神が選ばれた、召しの人だからです。神が高い使命を与えておられた方なので、今サウロがどれほど神に罪をおかしているのか、クリスチャンを迫害している自分の罪深さを悟らせる為にサウロにその罪をしめし、砕かれ神の働きへと導かれたのです。召しと聖められることは別のことです。
削除神の働きをしていくのには聖められる必要があります。神のみこころのひとつは聖められることです。『私が聖であるから、あなたかだも、聖でなければならない』第一ペテロ1:16
匿名様
削除興味深いお返事ありがとうございます。
なるほど、「特別な召し」があるから、「特別に」語られ、導かれ、救われた、ということですね。
ということは、同じように罪を犯していても、ある人は特別に語られ、ある人は語られない、ということですね。ものすごく不公平な神様ですね。また、特別な召しがあるから罪を犯しててもいいや、という話にもなりますね。
次に、「きよめられたから語られる」という(あなたが言う)原理原則も、「召し」には優先しない、ということですね。つまり原理原則にも例外がある、ということですね。
そうすると、イエス・キリストを神と信じなくても救われるとか、悔い改めなくても許されるとか、そういう例外もあり得ますよね。
聖書の原理原則に例外があるというのは、そういう意味です(私個人は例外などないと信じていますが)。
3つ目に、「特別な召しがあるから特別に導かれる・語られる・救われる」という理屈は、「召しがあるなら何をしたっていい」という話につながります。ウソだと思うなら、昨今増えているカルト化教会の現状を調べることをお勧めします。
カルト化教会の破壊性を知っている人ならば、「召し」を殊更に強調する危険性も十分知っているでしょう。「特別」とか「選ばれた」とか「尊い召し」とか、そういう言葉が横行しています。そしてそれを盾に、やりたい放題の現状があります。
最後に、「高い使命」とは何でしょうか。ある人の使命は低く、ある人の使命は高いのでしょうか。ある人の人生はさほど意味がなく、ある人の人生は豊かな意味があるのでしょうか。
匿名様の言う「神」と、私の言う「神」は、どうやら違うようですね。
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返信削除「きよめられると聖霊が導きを語ってくださり・・・」という話に腑に落ちないものを感じるのは私だけでしょうか。だいたい誰が「この人はきよめられた」と判断するのでしょうか?自分で判断していいものなのでしょうか?
返信削除奥さんには一言も相談せずに勝手に仕事をやめ、結果として奥さんを餓死寸前まで追いやった、熱心な新興宗教系プロテスタントの信者の中年男性は、「この人はきよめられていないからだ」ということになってしまいます。たぶんこの男性は「自分はきよめられたのだ。中年おやじだが神に仕えるおっさん巫男として召しだされたのだ」と判断して、仕事をやめたのではないかと思います。
これではきよめられたかどうかは自分で判断してはいけないということになってしまうのですが?自分がきよめられているかを判断するには、それこそバチカンに赴いてローマ教皇に問い合わせて聖断を仰げとでもいうのでしょうか。
新興宗教系のプロテスタントの場合はやはりバチカンの教皇ではなく、教祖様ということになるのが現実的でしょう。しかし教祖様が特別扱いしている「霊的ステージの高い人」ならまだしも、一介の信者が「神の声を聞きました」といっても、たぶん一笑に付されるだけだと思います。もしそれが用いられるのであれば、それは新興宗教サイドにとって有利なご神託(たとえば今持っている預貯金をすべて教団に献金します等)でなければなりません。
大概の場合は神の声を聞くことができるのは教祖様だけで、それ以外の人はまずあり得ないと思うのです。そして教祖様の聞く神の声はたいていが「大きな建物を建てなさい」とか「大きな会場を借りて派手なイベントを開催し多くの人に来てもらいなさい」といった、なぜか教祖様にとって非常に都合のいいものばかりです。教祖様が祈っていて聞こえてきた神の声にこういったものはたぶんないと思います。
・自分の全財産を貧しい人たちに寄付しなさい
・今やっている新興宗教団体を解散し教祖の仕事もやめ、エボラが蔓延する地帯の病院にいって、病人の血と汚物にまみれたシーツを洗う作業を一生続けなさい
・あなたの子供の学歴を中卒にし世間の人々が最も嫌がる3K労働につかせなさい
野田様
返信削除残念ながら、そのご指摘に該当するのは、私にの一番近くにいる人なのです。
同じキリスト教の人でも、その考え方は全く違うので、本当に困っています。
多分、わかりあえる事はないかと思います。
思いこみは本当に怖いものです。神が語ったから、個人的に予言を受けたからと勝手に周囲を巻き込む人がいます。
返信削除自分は、一歩ひいてます。
牧師の肩書きを持つ人が何月にキリストがくるなどと言って神の声を聞いたなどと言っている。それにすぐ影響されることもあり得ます。
聖書を土台としないと浮わついた状態だと影響を受けまくりです。
日本の福音派や聖霊派の一部の教会は、
返信削除所謂、「QT」 などと言うものに縛られて、ひたすら「神の望まれる生き方、神の声を聞き罪をやめる生き方」等と、正常な人間としての自分の判断・考え・物の見方・常識・見識・・・・等などを「この世のもの」として、蔑み疎んじて、日本の文化・伝統・慣習をも「偶像礼拝」と断じ、西洋的なキリスト教的な生き方を「正常」とする、「あなたは一体何人?( ・∇・)」と言って差し上げたくなる、そう言う馬鹿げた集団に成り果てているのです!
馬鹿につける薬はない、と言われていますが、本当に「凝り固まった」人々にとっては、それが全てなのでしょう。
誠に宗教とは恐ろしいものです!(* ̄∇ ̄)ノ
30年は昔、KGKの機関紙に、夏休みに伝道旅行に行ったひとの証が載ってて、そこで訪問した先の高齢のご婦人に、こう言われたそうです。
返信削除「あなたは、神様に会ったことがありますか」
ハッキリとある、と証し出来なくて、凄く悔いが残った、と。
なンで、ハッキリと、ないですと言えなかったのか。
本当に明確にないし、あっても堂々と言えないのだったら、神様に会ってないことくらい、なにも恥じることはないのに。
それとも、神様に会わなければならないのか?福音派というところは。
会ったとひとに言わなければならないところなのか?
そンな体験あるならムーに投稿するといいよ、としか僕には言えません。
マリック様
返信削除いつもコメントありがとうございます。
「QT」、ありますね。「QT plus」という、セルグループのリーダー用のテキストまで用意してあり、まさに弟子訓練至上主義といった感じですね。
ヘタレC様
いつもコメントありがとうございます。
「神様に会ったことがあるか」の問いに答えられなくて「悔しい」のは、単なる体験至上主義ですね。自分がどのように変化したか、前進したかよりも、どれだけ神を見たか(体験したか)の方が重要だという考え方で、非常に短絡的です。
確かに、「ムー」に投稿した方がいいんじゃないんですか、という「体験談」ばかり強調する人はいますね。