「霊性」に関して4回目。
今までの内容をまとめると、
1回目
聖書から逸脱した内容でも、「主からの啓示」と言い張る。霊性が高いから示されたのだと。
2回目
その「主からの啓示」は、容易に想像できるもの、状況から判断できるものが大半である。
3回目
「霊性の高さ」とは、どれだけ盛り上がるか、威勢が良いか、元気かにかかっている。
この3回目で、「霊性の高さ」は結局のところ能力主義につながっているとも書いた。つまり元気の有無と同じく、何ができるか、できないか、という能力が、霊性の判断材料にされてしまう。引用すると、
大声で叫んで祈るという行為には、それだけの確信と、聖書的根拠(自分なりの)と、大胆にやろうという覚悟とが必要である。(中略)それができる人は「霊性が高い」という評価を受ける。
これはもちろん能力に関する話であって、「霊性」は関係ない。
しかしそういう教会の牧師に言わせると、「霊性は実際面に影響する」ということである。つまり祈ったり何だりで「霊性が高められて」いくと、実際的な能力も高まっていく、ということだ。
これは、チャーチスクールで勉強が苦手な生徒に、「信仰が成長すれば勉強もできるようになる」と無責任に言うのに似ている。
勉強に関して言えば、たとえば信仰なり家族関係なり友人関係なりが安定し、本人の気持ちが落ち着くことで、勉強に集中しやすくなり、結果として勉強ができるようになる、ということはある。けれどこれと同様の図式を、「霊性と能力」の関係に当てはめるのは強引な話だ。
なぜなら、霊性という、その実態も定義もよくわからないものが、何らかの方法で「成長」し、それと関連して実務的な能力も向上していくとしたら、能力的に何もできない人は霊性ゼロということになるからだ。あるいは逆説的に、もともと能力のある人は(未信者であっても)霊性が高い、ということになる。
そういうことが明に暗に強調される教会には、能力的に貢献できない信徒の居場所はない。役に立たないクリスチャンは、霊性が低いだとか、不信仰だとか、罪があるとか、いろいろ根拠のない悪評を突き付けられる。あるいは無視される(ちなみにここで言う「役に立たない」とは、神様にとってでなく、牧師にとって役に立たない、有用でない、という意味だ。神様にとって無用な人間など存在しない)。
だからこの場合の「霊性が高い」とは、実は牧師に気に入られるかどうかが基準となっている。単に能力だけの話ではない。能力があっても牧師とウマが合わなかったり、牧師に意見したりすると、「気に入らない=用がない=霊性が低い=あっち行け」ということになる。逆に能力がなくても、見た目が良いとか、お金があるとか、どこまでも牧師に従順だとか、そういうことで霊性が急上昇するのである。
今までの内容をまとめると、
1回目
聖書から逸脱した内容でも、「主からの啓示」と言い張る。霊性が高いから示されたのだと。
2回目
その「主からの啓示」は、容易に想像できるもの、状況から判断できるものが大半である。
3回目
「霊性の高さ」とは、どれだけ盛り上がるか、威勢が良いか、元気かにかかっている。
この3回目で、「霊性の高さ」は結局のところ能力主義につながっているとも書いた。つまり元気の有無と同じく、何ができるか、できないか、という能力が、霊性の判断材料にされてしまう。引用すると、
大声で叫んで祈るという行為には、それだけの確信と、聖書的根拠(自分なりの)と、大胆にやろうという覚悟とが必要である。(中略)それができる人は「霊性が高い」という評価を受ける。
これはもちろん能力に関する話であって、「霊性」は関係ない。
しかしそういう教会の牧師に言わせると、「霊性は実際面に影響する」ということである。つまり祈ったり何だりで「霊性が高められて」いくと、実際的な能力も高まっていく、ということだ。
これは、チャーチスクールで勉強が苦手な生徒に、「信仰が成長すれば勉強もできるようになる」と無責任に言うのに似ている。
勉強に関して言えば、たとえば信仰なり家族関係なり友人関係なりが安定し、本人の気持ちが落ち着くことで、勉強に集中しやすくなり、結果として勉強ができるようになる、ということはある。けれどこれと同様の図式を、「霊性と能力」の関係に当てはめるのは強引な話だ。
なぜなら、霊性という、その実態も定義もよくわからないものが、何らかの方法で「成長」し、それと関連して実務的な能力も向上していくとしたら、能力的に何もできない人は霊性ゼロということになるからだ。あるいは逆説的に、もともと能力のある人は(未信者であっても)霊性が高い、ということになる。
そういうことが明に暗に強調される教会には、能力的に貢献できない信徒の居場所はない。役に立たないクリスチャンは、霊性が低いだとか、不信仰だとか、罪があるとか、いろいろ根拠のない悪評を突き付けられる。あるいは無視される(ちなみにここで言う「役に立たない」とは、神様にとってでなく、牧師にとって役に立たない、有用でない、という意味だ。神様にとって無用な人間など存在しない)。
だからこの場合の「霊性が高い」とは、実は牧師に気に入られるかどうかが基準となっている。単に能力だけの話ではない。能力があっても牧師とウマが合わなかったり、牧師に意見したりすると、「気に入らない=用がない=霊性が低い=あっち行け」ということになる。逆に能力がなくても、見た目が良いとか、お金があるとか、どこまでも牧師に従順だとか、そういうことで霊性が急上昇するのである。
前回と同じ結論になるけれど、そういう「霊性」は必要ない。
あるいはそういう教会で楽しくやっていきたいのであれば、その「霊性」は必要である。牧師に気に入られるのはほとんど唯一の生命線だからだ。
しかしそこで行われるのは、キリスト教の信仰生活ではない。キリスト教に見た目が似ている、「牧師崇拝生活」だ。もはやクリスチャンではない。
私も半年前までそんな教会で7年在籍していたなー
返信削除今はバブテストで御言葉を学んでるけど、本当にここに書いてあるよーな教会でした。
そこに居るときは、ここにいれば間違いない。とおもいこんでいたけど、今思えば牧師依存と聖書を読まなかった私の怠慢でもあると分かる。聖書から聖書的であるかも調べずに、牧師先生がいっているから、というだけの根拠で7年そこに身をおいた。
或る時、疑問に思っていること、腑に落ちない事を兄弟姉妹に聞いてみたら、例え間違っていても、あなたは牧師にしたがったのだから、あなたが神様に問われることはない。と言う回答だった。それでも1,2、年は自分なりに頑張ってみたけど、結局自分の信仰が歪みそうだったのでそこをでました。あの固くて苦しい信仰生活から自由な教会へと抜け出れたことが なによりの感謝だった。以前のその教会は、例え間違っている指導者であっても、従って仕えるのが神の道。(牧師批判は神様喜ばない)と教えられたので、出るにでられなかった。これを読んでこころあたりのある方は、教会を移っても神様はあなたを変わらず大すき。と伝えたい。健全な教会生活と信仰生活のために力の限り見張って、あなたのこころを守れ命の泉はそこからわく。
例え間違っていても、あなたは牧師にしたがったのだから、あなたが神様に問われることはない。
返信削除この言葉、私も言われたことがあります。しかし、とんでもないですよ、これじゃ牧師信仰ではありませんか。福音派・ホーリネス系はなんと愚かなんでしょうと思いました。
「従ったのだからそれですべてよし。」・・・ぞーっとしました。これではオウム真理教と同じ論理ではありませんか。
削除「麻原に従って地下鉄にサリンをまいた結果、たくさんの衆生をポアさせてやったのだからよかったじゃないか。」と正悟師以上の人間から言われて、実行犯たちはさぞかしほっとしたことでしょう。
従ったのだからこっちに責任はないとどんなに主張しても、娑婆ではそんなオウムの理屈は通りません。現実に彼らは医師だった信者Hをのぞいて、全員死刑判決を出されてしまいました。
宗教では「服従上等!」ですが、娑婆では「服従有理!」でも「服従無罪!」でもありません。新興宗教系プロテスタントはオウム真理教と同じ道を歩んでいます。
聖書はこの世の法律やきまりより上にあるのだから無視していい。牧会上の判断が重要だ。牧師は油注がれた者だから従う義務がある。たとえ間違っていても。
削除この言葉も、ゾーッとしました。オウムと同じ。
>牧師は油注がれた者だから従う義務がある。たとえ間違っていても。
削除あっ、これ、言われた事があります。
教会の人たちは、「アーメン!」って感じで、私も当時はよくわかってなかったので、「ふ~ん、そういうものなのかぁ・・」と思っていました。