元気さの指標でしかない「霊性の高さ」

2014年8月11日月曜日

「霊性」問題

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「霊性」の問題について3回目。
 今回は、「霊性の高さ」にこだわる教会において、霊性の「高い・低い」がどう判定されるか、という問題について考えてみたい。
 
 初めに実例を挙げてみる。
 ある牧師が、ある2つの地域での「霊の戦い」を計画した。そして2つのチームAとBを作り、それぞれ向かわせた。チームAには牧師自身が同行し、チームBには別のリーダーを同行させた。
「霊の戦い」はそれぞれ無事に終わって、2つのチームが合流した。牧師はチームBに対して、開口一番こう言った。
「何やってる。(チームBの方は)全然打ち破れてないじゃないか。霊性が低すぎるんだ。いくらこっち(チームAのこと)で打ち破っても、これじゃ意味がないだろ!」

 チームAはずいぶん充実した「霊の戦い」ができたようである。例によって大声で怒鳴ったり、皆でワアワア叫んだり、盛り上がったと聞く。
 それに比べ、チームBは物静かな人が多く、そこまで(見た目に)盛り上がるということもなかった。
 
 この実例からすると、霊性の高さは「音量的にどれくらい盛り上がったか」、「気持ち的にどれくらい勢いがあったか」にかかっているらしい。それが本当に目に見えない霊性の指標になるのかどうか甚だ疑問ではあるが、その教会ではそれがスタンダードとなっていた(もちろんそんなこと明言しないけれど)。
 祈りの集会なんかでも、「打ち破ったかどうか」は、感情的に勢いづいて叫べたかどうかにかかっていた。集会で散々叫んだ人ほど、「よし、今日は打ち破った」と満足げに帰っていくのである。
 
 もちろん、大声で叫んで祈るという行為には、それだけの確信と、聖書的根拠(自分なりの)と、大胆にやろうという覚悟とが必要である。だから簡単なことではない。それができる人は「すごい」「霊性が高い」という評価を受ける(もちろんこれは能力主義的な話だけれど)。そういう側面はあるだろう。
 また、そこの牧師に言わせれば、霊性の高さは、自信や大胆さや情熱や感情的高揚という、目に見える結果となって現れる、ということになる。
 
 けれど、じゃあ霊性の高さとはそういう激しさだけなのか、熱さだけなのか、という話にもなる。そしてそうだとしたら、元気な人ほど霊性が高い、という至極単純で一元的な原理になってしまう。霊性とはそれほど薄っぺらく、単純なものなのだろうか。
 
 またそこには、牧師の判断一つでどうにでも変わってしまう、恐ろしさやあやふやさがある。この実例で言うなら、牧師が一緒にいる方が、霊性判断において有利に働いてしまう。それは単なる不公平だ。
 それに、そういうふうに一人の人間に全てを判断する権限があるというのは、旧約聖書的である。その封建制度的な教会の在り方は、新約時代の「新しい契約」にそぐわない。
 
 また、コメントでもいただいたように、霊性の判断など、そもそも人間に委ねられている領域ではない。さらに言うと、霊性の「高さ・低さ」というコンセプト自体、聖書のどこにも書かれていない。それは人間が勝手に作った指標であり、だからこそ人間が勝手に判定する事柄なのだ。そんなもの、はっきり言って不要である。
 
まとめ
・「霊性が高い」とは、元気で大声で叫ぶことである。
・「霊性が高い」とは、牧師一人が判断することである。
・「霊性が高い」というコンセプトは、聖書にはない(あるなら教えていただきたい)。

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