「霊性の高さ」を主張するクリスチャンのズルさ

2014年8月9日土曜日

「霊性」問題

t f B! P L
霊性の高さ」にこだわるクリスチャンがいる。
 特に福音派、聖霊派の教会の一部(?)では、「あの人は霊性が高い」とか、「ウチの教会ほど霊性の高い教会なんて他にあるかしら」とか、「私の霊性なんてまだまだです」とか、そういう台詞が飛び交っている。
 それだけ聞くと、まるでRPGのレベルを競っているようだ。「やっとレベル10になったよ。お前は?」「オレ? もうレベル15」とか。

 この「霊性」とはそもそも何だろうか。
 よく上記の人たちが「霊的に〇〇」とか言う、その元となっている概念であろう。
 新約聖書には「霊」という言葉が割と沢山出てくる。「霊を見分けなさい」という表現もある。だからクリスチャンが扱うべき事柄であるのは間違いないと思う。
「神と交わる領域」とか、「主との交わりの深さ」とか、そんなふうに言う人もいる。わかったようなわからないような、そんな難解さを含んでいる。そもそも人間には理解できない、定義できないという意見もある。

 この「よくわからない」という点が、「霊性」における問題を少なからず起こしている。

 たとえば黙示録でヨハネが「御霊に感じた」という表現を使っているけれど、これを真似て、「最近〇〇ということを御霊に感じています」と言ったりする。たとえばガザ侵攻を巡ってイスラエルの立場が悪くなったのを見て、「引き金は引かれた。終末が迫っている」と言うのもこれと同じだ。それを証拠立てるものは何もないし、何の根拠もないのだけれど、「確かに主から霊に示されたのだ」と主張されたら、とりあえず何も言えない。どんなに「眉唾」的な内容でも、それが明確に誤りだと証明されるまでは、「そうですか」と言う他ない。そしてそれがいつまでたっても証明されない内容だとしたら、永遠に「そうですか」となってしまう。

 もっと悪いのは、それが明らかに聖書に反しているにもかかわらず、「でも御霊に示されたのです」と言い張ることだ。たとえば最近また「携挙が近い」とか言っている教会があるけれど、「その時期は誰も知らない」という聖書の読み間違えようのない文言を無視して、「でも親しい者に主は示されるのです」と言い張っている。そして旧約聖書の細かい箇所を文脈無視で抜き出してきて、「ほら、こう書いてある!」と鬼の首でも取ったかのように宣言する。

 そういうズルい論法に対してあれこれ指摘すると、どうなるかおわかりだろうか。最後は、「霊性の違いです」が出てくる。
これは霊性の高い人にしかわからない、隠された真理なのです。(霊性の低い)あなたの目も開かれるように、祈りますね」とか言われてしまう。完全に「ああ言えばこう言う」の世界だ。

 前述したように、この「霊性」について、クリスチャンは正面から向き合う必要がある。けれど上記のように「霊性」を方便として使う輩がいるので、よくよく注意しなければならない。
 とりあえず今のところ、クリスチャンが「霊性」という言葉を持ち出したら、それがどんなに良い印象の人でも、警戒しておくに越したことはない、と私は思う。

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