選択肢に悩むクリスチャンは

2023年5月29日月曜日

「神の導き」に関する問題

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 選択肢に悩むクリスチャンは、断食して祈ったり徹夜して祈ったり聖書を読みまくったりするのでなく、よく食べてよく寝て、信者でない友人と遊びに行くなどして、気分転換してから選択に臨んだ方がいいと思う。それで必ずしも「良い選択」ができるとは限らないけれど、心身ともに疲労した状態で選ぶよりは良いと思う。

 「神様が導いて下さる」「神様が道を示して下さる」という信仰で「答え」を求めて祈り続けると、あれが示しか、これがサインか、いやあれが合図か、と混乱して精神衛生に良くない。追い詰められた状態で拙速な判断をしてしまうこともある。


 それに結局のところ、何が「神の導き」かは誰にも分からない。みんな最終的に、何が「神の導き」かは自分で選んでいる。その意味で「神に導かれた」わけではない。それが「正解」かどうかも永遠に分からない(良い結果だったから神様の導きだった、とは言えない)。であるなら初めから「神様からの答え」など、信仰ぶって求めない方がいい。「選ぶ」のは神様でなく、牧師でもなく、あくまであなた自身なのだ。


 もし目の前に神様が現れて「この道を選びなさい」と高らかに宣言してくれたら、これ以上ないくらい「分かりやすい」かもしれない。しかし、目の前に現れたのが悪魔でなく間違いなく神様であると、どうしたら判断できるのか。「悪魔は光の御使いの姿をとる」と聖書に書いてある。結局「自分の感覚」に頼るしかないのだ(そもそもの話、悪魔とか御使いとかをフォーカスすること自体が精神衛生に良くないと私は思う)。


 重要な選択をする時に「平安があるかどうかで決める」と言ったり他人に勧めたりするクリスチャンもいる。けれどそれはまさに「自分の感覚」に頼ることだ。それに「平安」も「不安」も「恐怖」も流動的なものだ。ある瞬間に感じた「平安」が永続するわけではない。ある選択が「正解」に思えることもあれば、「最悪の間違い」にしか思えないこともある。だから「平安があるかどうかで決める」というのは、実のところ言葉遊びでしかない。

 このように「神様の導きに従って歩む」のは観念的な話であって、現実的な話ではない。クリスチャンは超常現象(「神の声を聞く」とか)を求めてフラフラさまようのでなく、しっかり現実に足を着けて生きてほしい。


 一部の福音派系教会が主張する「祈れば神様が具体的に道を示して下さる」という言説が、この混乱の主な原因だ。そういう教会では信徒は何をするにも「導かれました」と言わなければならない。しかし「祈れば語られる」「求めれば導かれる」と法則化して断言するのは人を騙すことだ。同時に「語られない」人を不信仰だと決めつけることだ。それはキリスト教信仰でなく、呪術的信仰に近い。


 人はみな難しい選択に迫られて、大いに悩まされる時がある。クリスチャンだけが「神の導き」を得て、そこから解放されるわけではない。同じように悩まされるのだ。ただ違うのは、クリスチャンは聖書の言葉と価値観を知っている、という点だろう。それを生かしつつ悩むのが、成熟したクリスチャンではないかと私は思う。

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