「みんな罪人です」が見えなくするもの

2023年5月22日月曜日

キリスト教とLGBT

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 「LGBTに理解がありそうなクリスチャン」が最近よく言うのが、「LGBTだけでなくみんな罪人です。誰であれ愛をもって接しましょう」という一見良さげな言説だ。けれどこれは「みんな同じ」とすることで、性的少数者が長く受けてきた(今も受けている)差別と排除の歴史を無化してしまっている。なので「理解がありそう」に見えるけれど、実のところ全く理解していない。むしろ無自覚に(そして厄介なことに「善意」から)差別に加担してしまっている。

 「みんな罪人」だとしても、それぞれ異なる背景や歴史がある。差別されてきた人、虐げられてきた人の痛みや傷がある。なのに「みんな罪人です」「神の前ではみんな同じです」と言ってしまったら、(その言葉自体が原罪論に基づく事実だとしても)個々人の痛みを「(みんな同じなのだから)考慮しなくていいもの」にしてしまう。それは「愛をもって接する」どころか、むしろ「自分は面倒臭いことは考えたくありません。『愛は全てを覆う』のだからそれでいいでしょう」みたいな、雑な態度に思える。


 「みんな罪人です」はキリスト教会では馴染みの台詞かもしれないけれど、使い方次第でこのように無思慮な言説になる。「神の言葉」なる聖書も、使い方次第で人を殺す凶器になる。だからクリスチャンに必要なのは聖書に対する関心以上に、目の前にいる人間に対する関心だと私は思う。いきなり聖書の方程式(とあなたが信じるもの)に相手を当てはめてしまうと、もうそれ以上相手の背景や事情が見えなくなってしまう。

 そして大前提として、性的少数者であることは罪でもなんでもない。むしろキリスト教界から不当に罪認定され、虐げられてきた被害の歴史がある(たとえば同性愛指向を罪とするキリスト教言説は19世紀頃に生まれたものであり、それ以前にそんな聖書解釈はなかった)。しかし「みんな罪人です」という言葉は、「同性愛指向は罪」という加害言説を暗に肯定してしまっている。


 日本ではLGBT差別禁止法がまだ成立していない(20235月現在)。「理解増進」という言葉がいまだ使われるくらい理解が進んでいない。しかしマジョリティが理解しようがしまいが、セクシャル・マイノリティはずっと共にいる。そして様々な形の差別や排除を経験している。それを気にせず、知らずに生きられるマジョリティが、今になって「理解してあげよう」とか「みんな罪人です」とか上から言うのはおこがましい。言うべき言葉は他にある。

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