「ノンクリとは結婚したくない」の勘違い
クリスチャンの独身の若者らが、結婚について語る動画が最近話題になりました。動画の中で「ノンクリとは結婚したくない」という台詞が飛び出して、賛否両論を呼んだようです。
結婚するなら同じクリスチャンでないと信仰を分かち合えない、と彼らは危惧しているようです。一緒に教会に行けないとか、一緒に祈れないとか、信仰の話ができないとか、確かに不都合はありそうです。だからキリスト教信仰を持っていない人(=ノンクリ)とは「結婚したくない」のでしょう。その気持ちは分からないではありません。
しかし「ノンクリとは結婚したくない」と豪語するクリスチャンとは、ノンクリの皆さんも結婚したくないのではないでしょうか。自分が一方的に「選ぶ側」だと考えていないでしょうか。私はそこが気になりました。結婚は互いに選ぶものであり、当然ながらクリスチャンの側だけに選択権があるわけではありません。相手の気持ちも考えましょう。
※「結婚は神様からの贈り物だ、選ぶものではない」と主張する敬虔なるクリスチャンもいますが、その「贈り物」を受け取るかどうか「選ぶ」のは自分自身のはずです。
もちろん自分の頭の中で、「こういう相手はNG」という結婚相手の条件を作るのは自由です。けれどそれをネットに載せて全世界に発信するのは全然別の話です。発信するなら、「こういう相手が望みです」とポジティブな形に変換した方がいいのではないでしょうか。
クリスチャンどうしでも問題はある
クリスチャンとノンクリスチャンの結婚は全然問題ないと私は考えます。実際そういう夫婦は沢山います。むしろクリスチャンどうしの結婚が上手く行かないケースの方を(教会生活が長かったせいか)私は少なからず見てきました。
信仰の種類や有無は、その人を形づくる多様な要素の一つでしかありません。信仰の部分だけ合致していれば上手く行くほど、結婚生活は単純ではないのです。総合的に相手を(そして自分自身を)見なければなりません。
教会によっては「クリスチャンどうしで結婚しなければならない」「離婚は絶対許されない」と厳しく言いますが、これは例えば夫がDV加害者の場合、妻は地獄を見ます。離婚する以外に救済する手立てがない夫婦は、現実に存在するのです。信仰的な綺麗ごとばかり言っていられません。
「クリスチャンとノンクリスチャンの夫婦では信仰を分かち合えないという問題がある」のなら、「クリスチャンどうしの夫婦では信仰そのものが問題になる」ことがあるのです。
ノンクリ配偶者は「伝道相手」ではない
ノンクリとの結婚を肯定するクリスチャンの中には、「結婚生活を通して相手に伝道すればいい(ノンクリ配偶者をクリスチャンに変えればいい」と考える人がいます。けれどそれを目的にするのも恐ろしいことですし、一方的です。もし相手(ノンクリ配偶者)が、「結婚生活を通して(クリスチャンであるあなたの)信仰を捨てさせよう」と密かに考えていたら、恐ろしくないでしょうか。
相手に対して「こうなってほしい」とか「こう変えてやる」とか、思うこと自体が操作的です。そういうコントロール・フリークな自分自身を顧みるべきです。