今回はキリスト教関連の話でなく、ブログについて、ちょっと思いの丈を書かせていただきます。
私が当ブログを始めたのは2013年3月のことですが、当時から今まで一貫しているのは、「自分が書きたいこと、伝えたいことを書く」という姿勢です。だから誰かに頼まれて書いたことはありません。「こういう記事を書いたらウケるかも」という意図で書いたこともありません。いわゆる「ウケ狙い」「アクセス狙い」「釣り狙い」「炎上狙い」で書いたこともありません。結果的に多くのアクセスを集めた記事なら、いくつかあります(読んで下さってありがとうございます)。ただ意図してやったことではありません。本来なら意図的にできた方がいいのかもしれませんが(笑)。
一部の例外として、いただいたコメントへの返答として記事を書いたことがあります。でもその場合でも私が「書きたい」「伝えたい」と思ったことを書いたまでです。その意味で、誰かを満足させたい、という動機は私にはあまりないようです。
私の強い動機の一つは、間違いなくこれです。
「キリスト教会もこんな危険な場所になるんだ。これは皆が知っておくべきだ」
だから手を変え品を変え、色々な形で、カルト化教会の危険性を訴えてきたわけです。私にとってそれが全てと言っても過言ではありません。
でもそんな私でも、ブログを始めたばかりの頃は、「ブロガーとはどうあるべきか」といろいろ調べたり、本を読んだりもしました。そして「アクセスアップの秘訣」とか、「興味をひくタイトルの付け方」とか、「SEO対策」とか、いろいろ試行錯誤したものです。世に言う「ブログライター」とか、「フリーランスライター」とかがやっているようなヤツですね。
実は、フリーランスのライティングの仕事をやってみようかな、と思ったこともあります。結局やりませんでしたが。どうもそういうのが、私には馴染みませんでした。
もちろんライティングで稼ぎたいとか、ライティングで生計を立てたいとか思っている人たちには、そういう方法論が命綱であり、やってて当然、知ってて当たり前なのかもしれません。
でもせっかく「ものを書くのが好き」なのに、なぜ「人のために書く」のでしょう。自分のために書いたっていいのではないでしょうか。少なくとも私はそうしたいです。もちろんこれは、私が必ずしも専業ライターになりたいと思っていないからかもしれませんが。
ただちょっと考えてほしいのです。
たとえば会社員として、自分がやりたくもない仕事にフルタイムで従事している人が、「フリーライターになりたい」と思って転職したとします。でもフリーライターになれたとして、結局「人にウケる記事を継続的に書かないといけない」「これこれの方法論に沿って書いていかないといけない」「1日に何記事、1時間に何文字書かないといけない」みたいないろいろな制約に縛られてしまうとしたら、会社員の頃と何ら変わらないのではないでしょうか。むしろ会社員の方が、いろいろな意味で安全な気がします。
せっかく「書くのが好き」なのに、それではもったいないな、と私は思うわけです。
それより私は、稼げなくてもいいから好きなこと、書きたいことを書きたい。人に頼まれてでもなく、人の期待に応えるためでもなく、ウケるためでもなく、自分が書くべきと思うことを書きたい。自分が全力で取り組めることを書きたい。そして願わくば、それがある人々にとって有益なものであればいい。
と、そんなふうに思っています。
そこには多分、ブロガーのブームとか、フリーランスライターのブームとかに対する反発もあります。「自分のために書くのはプロじゃない」とか、「これこれのテクニックで書けるのがプロだ」とか、そういうもっともらしい方法論に対する反発ですね。
もちろんそれはそれでいいんですよ。そういうので書いていける人たちは、書いていけばいいです。誰も止めません。ただ、そうでないライティングだってあっていいんじゃないかな、と私は個人的に思うわけです。
もちろんこれとて、誰に同意を求める話でなく、私が勝手に考えていることですが。
何はともあれ、私は書くことが好きです。上手いか下手か、どこに通用するかしないかは別として、文章を書いていると活き活きします。吃音症だから余計かもしれませんが、思い通りに書けると気持ち良くて仕方ありません。
もちろん辛い時もあります。なかなかふさわしい言葉が見つからなかったり、流れが掴めなかったり、どうもスッキリしなかったりすることもあります。そういう時は苦しいですね。実際、何日かまったく書かない時もあります。訓練と思って書く時もあります。
でも結局、書き続けています。やめる理由がありませんから。これが私という人間なんだなあと思うことにしています。
さてダラダラと結論のない話を書いてしまいましたが、これが私のブログに対する姿勢です。ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。
おはようございます。。
返信削除書きたいことを書く、それがブログじゃないですか
もともとそういうもんですよ
私はネット黎明期からキーボードに向かっていますが
もともとはパソコン通信(古っ!!)で自分の興味のある情報を
こじんまりと共有していたのが
いまやマーケットの理論に飲み込まれ
多数の人が検索している情報こそ真実
みたいな状況になってます
この日本に限って言えば、ネット利用者のうちの8割以上がROM
(見るだけ)で、自ら発信している人は先進国の中で極端に少ないんだそうです
また、そうした情報を見ても、どこかで信用しない、デマだと思いつつ
多量の情報を吸収しているということです
日本に限っていえば、情報を頻繁に発している人の絶対数が少ないことに加えて
多く検索された情報がアドバンテージを持つという性質が重なり
多くの情報がありながら、その情報のほとんどが、ある少数の人によって
恣意的に拡散されたものだという状況を生み出しています
(これは、ニューズウィーク記事内で識者が指摘していることです)
だからこそ、人に見てもらうために、ではなく
ご自身が痛感しておられることをライティングしていくことは
大事なことだとは思うのです
ま、検索率を上げるためにタイトルにホットワードを引っ張ってくるのも
タイトル詐欺にならない範囲にすればいいと思いますよ
最近は牧師の説教がそもそもタイトル詐欺ですからね
(タイトルがさも御言葉の学びのようで、ふたを開けてみれば単に自分の体験談を披露してるだけ)
ありがとうございます。
削除なるほど、「マーケットの理論」という言葉に、私の自分でもよくわからない反発心の答えを見たような気がしました。大勢にウケる記事こそ良い記事だ、だから大勢にウケる記事を書くためにこれこれをするんだ、という理屈に、私は違和感を覚えているのだと思います。なんだかスッキリしました。
パソコン通信、なつかしいですね。私はPC-9801とかX-68000とかの時代なのですが、なんだか未来の世界に足を踏み入れたような気分だったのを思い出します。