ある牧師の話です。
牧会のいろいろで疲れ果てて、もう祈る気力もない、何もできない、という状態になったそうです。それで何となく聖書を開いたら、ちょうど詩篇だった。詩篇作者の苦悩がそこに書かれていた。ああ自分もこんな心境だな、と思いながら読み進めると、不思議と力が湧いてきた。そして気づくと泣きながら祈り、賛美の歌を歌っていた、という。
「聖書は霊的な書物だから、読むだけで霊の栄養になるのです。そして自分でも気づかないうちに、霊の力を受け取っているのです」というのがその牧師の主張です。「だから皆さん、疲れた時こそ聖書を読みましょう!」
当時私はクソ真面目でしたから、「そうか」と思って実践しようと試みました。
仕事で疲れて眠たい時なんかに、頑張って聖書を開いてみます。ちょうど聖書の半分あたりが詩篇ですから、何となくそのへんを狙います(ズルイですよね)。そうやって詩篇を読みながら、自分の霊に力がみなぎってくるのを感じよう感じようとするわけです。実際には何も感じやしないのですが。
結局その試みは長続きしなかったです。疲れた時はどうしても集中できないからです。聖書の細かい文字を追っても全然頭に入ってきません。同じ行ばかり何度も読む羽目になります(そういう経験、ありませんか?)。
「疲れた時、弱った時こそ聖書を読もう」
「聖書は生きる力、霊の糧です」
みたいなセリフを一部の牧師は盛んに言います。でも冷静に考えてみて、精神論や根性論の域を出ません。疲れた時は素直に休んだ方がいいです。可能な限りゆっくり寝ましょう。
イエスも言います。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と。「無理して聖書を読め」なんて言いません。
聖書を「心の万能薬」みたいに考える向きもありますが、やはり書物ですから、読むための気力やエネルギー、心の余裕などが必要です。たとえば本当に心配で心配で仕方ない時、あるいはとても急いでいる時、「力がみなぎってくるまでゆっくり」聖書を読めますか。読めませんよね。
私の考えでは、聖書はどちらかと言うと「学ぶべきもの」です(もちろんそれ以外の側面もありますよ)。だから腰を落ち着けて、ある程度まとまった時間が取れる時に、じっくり読んだ方が結果的には良いかと思います。
そういうのを無視して、
「読まないから弱るんだ」
「御言葉で強められれば大丈夫」
「暗唱するまで読みなさい」
などと強要するのはほとんど虐待ではないでしょうか。
ある時、辛いことがあってものすごく弱っている信徒がいました。牧師はその信徒のところに行って、最初こそハグしたり慰めたりしましたが、最終的には「もっと祈りなさい」「聖書を読みなさい」「強くなりなさい」と叱咤しました。いえ叱咤と言うより、ほとんど怒ってましたね。
そういう牧師は「霊的」云々の前に、人間について学び直してこい、と私は思います。
ディボーションをしているかは結構しつこく言われるよね。
返信削除「みことばは自分を養う食べ物と同じ」「毎日神様に捧げる時間を持たないと信仰が本物にならない」とか耳タコだなあ。キャンプでも通読やらコレを毎日続けますと誓わさせられたり。
でも、「何を教えられましたか?」と聞かれるけど、旧約とか滅ぼされてみたりコワイ箇所もあるからホント疲れてる時には厳しいね。
ディボーションガイドや説教を参考にしても意見がいろいろだったり。
それを言うと「祈ればみこころが分かります」
う〜ん。みこころが分からなかったので、ワタシは今教会に行けてないのですね。
「祈れば御心がわかります」って断言できるところがすごいですね。
削除疲れてるときに必死になって聖書を読んでいました。だからといって現実が良くなるわけでもなく、下手したら聖書のみことばが自分を余計に追い込むこともあります。教職者の嘘か本当かわからない話を鵜呑みにするべきではなかったなぁと後悔しています。彼らは無責任に頑張れと言って突き放すのと同じことをしているだけのように思います。
返信削除聖書を読むとかえって追い込まれたり、疲れたり、悩んだりすることもありますよね。「疲れたから聖書を読む」のでなく、「元気だから聖書を読む」のが正常な状態だとつくづく思います。
削除尊敬していた牧師さんが(もう亡くなられている)全く同じコメントを言われたことがありますがその牧師さんの人柄や信仰生活を知っていた上でお聞きしたので違和感もなく聞き入れる事が出来ました。もちろんその方は個人的に迫ってきて追い詰めるような性格の方ではありませんでした。 誰の口からそのセリフが出ているのかにもよると思います。どの口が言うという表現もありますから。 その牧師さんは他にも”人に向かって聖書を読みなさいと言う代わりに 私は聖書を読んでますと言う方がいいんじゃないですかねえ”と仰った事もあります。このコラムを読ませていただくとロクでもない牧師さんも多いのだなあ、、と驚きます。牧師が信徒を躓かせている現実を知る事が出来ます。
返信削除ありがとうございます。たしかに同じ話でも、「誰が言うか」「どう言うか」で受け取り方が変わると思います。匿名様の牧師さんは、きっと良いお人だったのでしょうね。
削除「疲れた時に聖書を読める人」「聖書で元気になれる人」がいる一方で、「疲れていると聖書が読めない人」「聖書で元気になれない人」もいると思います。だから一概に「聖書を読めば解決できる」とは言えないのが現実かと、私は思います。
聖書そのものは確かに人を生かす力があると思います、が
返信削除どう読むかをいちいち人にレクチャーしてくる上に
自分と意見が違うと怒り狂うクリスチャンが多すぎです
ご本人は正しいことを教えているつもりでも、相手にとってはひたすらケンカを売られているだけという悲惨な状況が全国の教会で頻発しています
全部のクリスチャンがそうではないと思いたいのですが
それも徐々に不可能になってきています
最近のクリスチャンはキリスト者というよりはキリスト教会のロビイストといった感じです
教会(クリスチャン)こそ多様性を認めて受け入れるべき存在だと思うのですが、実情はそうなっていないと私も思います。自分たちの教派、教会の教えだけが唯一正しくて、他はどこか正しくない、みたいな独りよがりが横行し、ものすごく窮屈な世界になってしまっています。もちろんそうでない人たちだっていますが、多様性を積極的に認める人ほど教会にいづらい、みたいな悲しい状況があります。
削除>多様性を積極的に認める人ほど教会にいづらい、みたいな悲しい状況があります
削除「教会」の現状について、正確なコメントだと思います。
それゆえに、心が痛みます。
某高校生団体で、
返信削除「ある牧師先生が言いました。今日はいつもの3倍忙しい。3倍祈らなければ」に始まり、まあだいたい想像がつく話をされたことがあります。
別に某団体を批判したいわけでもなければ、つぶしたいわけでもないのですが(というかどうでもいい)、こうやって高校生のうちから洗脳を始めていたのだとつくづく思います。
ちなみに教会では、私が学生のうちに就職活動の一環で1ヶ月ほど実習に行くことが決まったときに「日曜日が休みなら、礼拝に来られるでしょ?来た方がむしろ良いんだよ」としつこく言われたことがあり、閉口しました。
結局日曜日は疲れて起き上がれず礼拝を休んでいましたが、某団体の洗脳もあって若干罪悪感がありました。
週6日間、なれない環境で学生が社会人に混ざってプレッシャーを受けているんだから、そんなときくらい礼拝も堂々と休ませて欲しいものです。
「疲れた時こそ礼拝に来た方がいいい」というのも、「疲れた時こそ聖書を読むべき」と同じくらいよく言われるセリフですね。
削除私も風邪でダウンした時、「礼拝に来ればすっかり治る」と言われて、真に受けて行ってしまったことがあります。もちろん悪化して寝込みましたが 笑
祈りについてにも当てはまる、とても洞察と示唆に富む記事だと思います。
返信削除悩み疲れ果てているとき私たちは、聖書を読まないと、祈らないと、と思い込んでいます。そうステレオタイプに教えられ刷り込まれているからだと思います。そして人にもそのように言いがちです。
でも、もしキリストやパウロが今いたら苦しんでいる人にそんな風に言うだろうか?と考えてしまいます。
今は無理して聖書を読まなくていい、祈らなくていい、自然に任せようと言われた方がどんなに気が楽でしょうか。少なくとも私はそうです。
いずれにせよ「無理する」のは良くないと思いますね。もちろん「頑張るべき時」もたまにはあるでしょうけれど、ほとんどの場合は疲れたら休む、眠かったら寝る、というのが良いと私も思います。
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