私の知っている教会群では、結婚は牧師の許可制で、信徒はひたすら「待つもの」と教えられていました。
ある女性信徒の言葉です。
「結婚は神様からの贈り物ですから」
結婚は神様が用意して導いてくれるものだから、自分としては信じて待つしかない、というような意味ですね。なんて控え目な考え方だろう、と私は正直思いました。自分の気持ちや意志はないのだろうか、と。
もちろん恋愛も結婚も、しようと思ってできるものではありません。したくなくてもする羽目になることもあるでしょう。相手があってのことですから、自分の意思だけで完結できるものではありません。
でもある程度自分の意思を働かせないと、進むものも進まないのではないかな、と私は思ったわけです。
もちろん自分の意思を働かせたところで、(その教会群では)牧師に阻まれることが多々ありましたが。もしかしたらそういう葛藤が、結果的に「待つしかない」という心境に至らしめたのかもしれません。
でもそうやって待ったまま四十代、五十代になる人が少なくありませんでしたから、やはりそのやり方は考えものではないでしょうか。
☆ ☆ ☆
結婚を「待つ」方法の一つとして、「結婚のためのリスト作り」というのが教えられていました。
「結婚相手に望む条件を幾つでも書き上げて、そのリストを片手に、十年でも二十年でも祈り続けなさい。神様が良しとされた時、きっと与えられるから」
というわけです。
この「結婚のためのリスト作り」は、一時期流行ったように記憶しています(今もあるのでしょうか)。
結婚相手に望む特徴を、いくつでも思いつく限りリストアップしていくのです。項目が多ければ多いほど良い、と言われていました。それだけ詳細にイメージしておけば、実際に出会ったときに神様からのものかどうか判別できるから(?)、だそうです。
ある男性信徒はこのリスト作りを実践していました。見せてもらったことはありませんが(見る気もありませんでしたが)、五十個ほどの項目(条件)になっていたそうです。ちなみに彼自身は若くはありませんでした。
で、その彼があるとき、他教会の牧師の娘さんとお見合い(みたいなこと)をすることになりました。彼は「ついにこの時が来たか」と大興奮。でも実際会ってみると、好感触だったにも関わらず、リストと違う点が幾つかあり、主任牧師の反対もあって、泣く泣く諦めたそうです。
でもこれ、逆に言うと五十個もの条件のほとんどに合致した、ということですよね。それだけでも奇跡的だと思うのですが。わざわざ自分でハードルを上げて、自ら転んでしまったような感じではないでしょうか。
それにそもそもリストは自分の願望を挙げただけなのですから、それがそのまま「神様が備えられた相手」になるというのもおかしな話です。自分で作ったリストに神の意志が間違いなく働いているなどと、どうして自信を持って言えるのでしょう。彼には気の毒なのですが、今思うとそういう矛盾点がいろいろ見えてきます。
☆ ☆ ☆
以上は私が知っている聖霊派教会群でのお話です。
他の教団教派の方からしたら、異様な光景かもしれません。
福音派の知人から聞いた話ですが、そこではむしろ結婚が推奨されているようです。どんどん結婚して、どんどん子供をつくりなさい、みたいな。信徒の頭数が増えればそれだけ献金額が増えるからだろう、と私は勝手に邪推したのですが。
でもそっちの方が教会の未来のためになる気がします。上記の聖霊派教会群みたいに結婚を制限して待たせていたら、いわゆる再生産が行われませんから。高齢化ばかりが進んでしまいます。
いずれにせよ、信仰や教えを駆使して、信徒の結婚の自由を奪うのはいけません。心当たりのある方、よくよくご注意下さいませ。
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本日(11/4)発行のメルマガ第43号では、以下の点について書いています。
・クリスチャンの結婚を妨げる第一の壁:牧師様の言う通り?
・第二の壁: 独身の賜物?
・第三の壁:「慰め」から「迷い」への逆転。
・第四の壁:結婚のためのリスト作り?
・そして全ての「壁」は幻だった……。
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「結婚のためのリスト作り」懐かしいですね!
返信削除私がいわゆる「適齢期」のときに流行っていて、キリスト教書店でばんばん売れてた本にもこのリスト作りの有効性が書いてありました。
このリスト作りですが、
たとえば、買い物に行くとき、頭のなかで覚えておこうとすると、買い忘れたり冷蔵品を先に買ってしまってあわてた経験は誰でもあると思います。
なので、「アイス・洗剤、サインペン」をスーパー、ドラッグストア、100円均一で買おうとしたときに、
ペンは軽いので先に100円均一で買う、洗剤はドラッグストアの特売で、アイスは溶けやすいので最後に買う、など計画が立てられますよね。
結婚相手もこのように、最初はクリスチャンで、祈りの人で・・・に始まり、身長は170以上で、転勤は良いが、その代わりにフルタイムで働かなくて良いくらい稼いでてほしいし、知らない土地に行くなら産後の里帰りは長めに・・・など、女性目線ですがいくらでもでてきそうですよね。
ただ、一点問題があります。
当然ながら配偶者は買い物ではありません。
買い物リストは客観的に必要なものと優先順位を書いてゆけばできあがりますが、自分のことをそんなに客観的に見られる人間なんて、どのくらいいるのでしょうか?
自己評価と他人からの評価は驚くくらい違います。
最近何かと話題の「結婚できない独身」のコラムで、びっくりするくらい自分を分かっていない方々がいますが(実在しているのか怪しいですが・・・)、
つまり、それくら自分を客観視するのは難しいんですよね。
客観視しないまま、ただひたすら自分の理想を連ねているクリスチャンの多いこと多いこと。
余談ですが、とある信仰書にあった「「譲らない条件」をつたえたところ、友人たちにあきれられたが、後にすばらしい、ふさわしい結婚相手が与えられた」エピソードですが・・・本人の独白のなかには条件全てを満たしてあるとは書いてないんですよね。
後の文脈ではその証を紹介した書き手が満たしていたと匂わせてますが。
もし満たしていないがすばらしい()男性と結婚したならそのリストとはなんだったのか、満たしていたとしても、身長ならまだしも祈りの人、となると、何を持って満たしていたと言えるのか・・・
繰り返しになりますが、自分を客観視できる人ならリスト作りは有効だと思います。しかしそんなに自分を分かっている人、どれくらいいるんでしょうね?
少なくともわたしは無理です。
自分の理想ばかり書き立てて、肝心の自分自身のことが見えていない、という状況は確かにあると思います。相手を選ぶことばかり考えていて、「自分も選ばれる立場にある」ことに気づいていないと言いますか。
削除「相手に求めるリスト」を作る前に、「自分自身をこうしたいリスト」を作った方がいいのではないかと思いますね。
独身女性の婚活を題材にした大人のジョーク満載のアメリカのコメディ映画を見たら驚いた事にこのリストが出てきました。その映画の中では昔から若い女性たちがやっている「おまじない」のような扱いでした。クリスチャンのリスト作りの文化が聖書ではNGと書かれてる「おまじない」から派生したものだとしたら…
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