神の言葉は「福音」のはずですが、場合によっては「呪い」となることがあります。
今回はそんな話をしたいと思います。
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私の教会は、みんなで奉仕を頑張る教会でした。
牧師いわく「教会は客船でなく戦艦だ」というわけで、誰も「お客さん」ではいられなかったのです。みんな兵隊です。みんなそれぞれ役割(奉仕)があって、それに命を賭けなければなりません。
しかもその牧師にはよくこう言われました。
「どんな奉仕においてもプロフェッショナルを目指せ」
やるからには本気で、全身全霊でやらなきゃ意味がない。その道のプロになるくらいの覚悟でいけ。というわけです。
だからギタリストはプロのミュージシャンを目指さなければならないし、ポスターの製作者はプロのデザイナーを目指さなければなりません。今思うととんでもない話なのですが、そういう教会でした(もちろん誰もプロになんかなれませんでしたが)。
この「奉仕においてプロを目指せ」という言葉は、よくピリピ人への手紙4章13節とセットで語られました。こんな言葉です。
「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(口語訳)
神様を信じる私たちは、何でもすることができるのだ、と牧師はよく言いました。「不可能を可能にする」というのも牧師の好きな言葉でした。
だから私たち奉仕者がちゃんと「聖霊に満たされる」なら、プロにだって何にだってなれるんだよ、というわけです。
ここで、私たち信徒は葛藤することになります。こんな葛藤です。
プロになるのは大変なことだけれど、聖霊に満たされ続けるなら、可能なんだ。
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でもまだ、自分はプロにはなれていない。ということは、聖霊に満たされていないのか?
↓
聖霊に満たされるために、もっと一生懸命祈らなければならない。
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(一生懸命祈る)(奉仕も頑張る)
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でもやっぱり、いくら頑張っても、プロにはなれない。
↓
ということは、自分はまだ聖霊に満たされていないのではないか・・・。
無限ループです。
これはいわゆる「洗脳」の一つのパターンだと私は思います。まったく見えてこないゴールに向かって、盲目的に、ひたすら走り続けることになるからです。目の前にニンジンをぶら下げられた、哀れな馬みたいな。いつまで走っても、そのニンジンにたどり着くことはできません。
私たち信徒は「聖霊に満たされれば到達できる」という言葉を信じて、ひたすら奉仕に励みました。ある人たちはある程度の成果を得ました。しかしある人たちは挫折し、体調を崩し、精神のバランスを崩してしまいました。でもそんな彼らは、牧師にかかれば「信仰が足りない人」「祈りが足りない人」「覚悟が足りない人」になってしまいます。
ある時、私は新しいデザインの週報を印刷業者に持ち込んで、印刷をお願いしました。
たしか木曜日あたりのことです。業者から、納期は一週間だと伝えられました。それをそのまま牧師に伝えました。すると牧師はこう言います。
「それじゃ次の日曜に間に合わないだろ。なんとかして納期を短縮して、日曜に間に合わせろ」
つまり木曜に発注したものを、土曜までに納めてもらえ、ということです。どれだけ無茶な話でしょう。でもそこで反論したら牧師がどう反応するかわかっていましたから、私は「やるだけやってみよう」と思いました。やれるだけやって、駄目なら駄目で、そう牧師に伝えるだけですから。
それでもう一回業者に行って、なんとかして土曜までに納めてほしい、どうしても必要なんです、と頭を下げました。すると渋々でしたが、なんとか承諾してもらうことができました(本当に迷惑をかけてしまいました)。
それを牧師に伝えると、今度はこうです。
「ほら、できるだろう。主にあって不可能はないんだ」
つまり奉仕においてある程度の成功をおさめることで、はじめて私たちは「信仰の人」になれるのですね。考えてみれば、これは恐ろしい世界です。完全なる能力主義、あるいは成果主義 の世界です。
こういう世界における「神にあって不可能はない」という言葉は、「福音」でなく「呪い」ではないかと、私は思います。
さて皆さんは、どう考えるでしょうか。
聖書の言葉を都合よく使って教会員に恐怖を与え支配するんですね。こういう牧師はピリピ4:19やマタイ21:22、ルカ1:37なども引用しそうです。書かれているように福音を呪いにしてしまうその邪悪さに恐怖と怒りを覚えます。
返信削除私の教会にもカルト化した教会から移って来た人たちが何人かいるのですが、自身の体験をあまり話したがらない傾向があります。牧師や教会の悪口になることへの抵抗感や、思い出したくないということもあると思います。
一方、こういう教会の表面的な熱心さや元気のよさに感化され、従来どおりのやり方は弱弱しく力がないから駄目なんだと言う人も今までいました。
実態を知るという意味で、fuminaruさんが実際に体験されたことを書かれた記事はとても参考になりますし意義があるものだと思います。
Teoさん
削除ありがとうございます。
おっしゃる通り、希望を与えるはずの聖書箇所が、呪いとして信徒に突きつけられる教会があります。私も思い出すたび、いまだに腹が立ちますね。
カルト化教会を経験した人が、その過去を語りたがらないという気持ちはよくわかります。話しても理解されないのではないか、裁かれるのではないか、という恐れがあるかもしれません。でもそういう経験をしてなおTeoさんの教会に来られたということは、まだ前向きな気持ちをお持ちなのではないかと想像します。
たしかに一方で、長老派やルーテル派で閉塞感を覚えて、ペンテコステ派に転会してくる人もいました。大概は「聖霊体験」に魅力を感じたようです。結局は偽りの体験でしかないのですが。
不可能は無い=何でもやっていいと解釈して自分たちのやりたい放題やる教会でした。無許可の伝道、駅前で勝手にライブを開催、電車内伝道、あげればキリがないです。やったらいけないんじゃないですか?と言っても不可能は無いんだからできるはずだ、と。確かにできなくはないけれども時と場合をわきまえないといけないのは分かっていないようです。
返信削除「神の国はこの世の常識をも超える」とか言って、やりたい放題ですよね。そういう牧師は。
削除私の牧師もそのくちで、無許可ライブとかゲリラ伝道とかやって時々トラブルになっていました。全然懲りないどころか、自慢げでしたけれど。