「神にあって不可能はない」の恐怖

2018年11月10日土曜日

教会生活あれこれ

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 神の言葉は「福音」のはずですが、場合によっては「呪い」となることがあります。
 今回はそんな話をしたいと思います。

☆ ☆ ☆

 私の教会は、みんなで奉仕を頑張る教会でした。

 牧師いわく「教会は客船でなく戦艦だ」というわけで、誰も「お客さん」ではいられなかったのです。みんな兵隊です。みんなそれぞれ役割(奉仕)があって、それに命を賭けなければなりません。

 しかもその牧師にはよくこう言われました。
どんな奉仕においてもプロフェッショナルを目指せ
 やるからには本気で、全身全霊でやらなきゃ意味がない。その道のプロになるくらいの覚悟でいけ。というわけです。

 だからギタリストはプロのミュージシャンを目指さなければならないし、ポスターの製作者はプロのデザイナーを目指さなければなりません。今思うととんでもない話なのですが、そういう教会でした(もちろん誰もプロになんかなれませんでしたが)。

 この「奉仕においてプロを目指せ」という言葉は、よくピリピ人への手紙4章13節とセットで語られました。こんな言葉です。

わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(口語訳)

 神様を信じる私たちは、何でもすることができるのだ、と牧師はよく言いました。「不可能を可能にする」というのも牧師の好きな言葉でした。
 だから私たち奉仕者がちゃんと「聖霊に満たされる」なら、プロにだって何にだってなれるんだよ、というわけです。

 ここで、私たち信徒は葛藤することになります。こんな葛藤です。

プロになるのは大変なことだけれど、聖霊に満たされ続けるなら、可能なんだ。

でもまだ、自分はプロにはなれていない。ということは、聖霊に満たされていないのか?

聖霊に満たされるために、もっと一生懸命祈らなければならない。

(一生懸命祈る)(奉仕も頑張る)

でもやっぱり、いくら頑張っても、プロにはなれない。

ということは、自分はまだ聖霊に満たされていないのではないか・・・。

 無限ループです。

 これはいわゆる「洗脳」の一つのパターンだと私は思います。まったく見えてこないゴールに向かって、盲目的に、ひたすら走り続けることになるからです。目の前にニンジンをぶら下げられた、哀れな馬みたいな。いつまで走っても、そのニンジンにたどり着くことはできません。

 私たち信徒は「聖霊に満たされれば到達できる」という言葉を信じて、ひたすら奉仕に励みました。ある人たちはある程度の成果を得ました。しかしある人たちは挫折し、体調を崩し、精神のバランスを崩してしまいました。でもそんな彼らは、牧師にかかれば「信仰が足りない人」「祈りが足りない人」「覚悟が足りない人」になってしまいます。

 ある時、私は新しいデザインの週報を印刷業者に持ち込んで、印刷をお願いしました。
 たしか木曜日あたりのことです。業者から、納期は一週間だと伝えられました。それをそのまま牧師に伝えました。すると牧師はこう言います。
「それじゃ次の日曜に間に合わないだろ。なんとかして納期を短縮して、日曜に間に合わせろ」
 つまり木曜に発注したものを、土曜までに納めてもらえ、ということです。どれだけ無茶な話でしょう。でもそこで反論したら牧師がどう反応するかわかっていましたから、私は「やるだけやってみよう」と思いました。やれるだけやって、駄目なら駄目で、そう牧師に伝えるだけですから。

 それでもう一回業者に行って、なんとかして土曜までに納めてほしい、どうしても必要なんです、と頭を下げました。すると渋々でしたが、なんとか承諾してもらうことができました(本当に迷惑をかけてしまいました)。
 それを牧師に伝えると、今度はこうです。

ほら、できるだろう。主にあって不可能はないんだ

 つまり奉仕においてある程度の成功をおさめることで、はじめて私たちは「信仰の人」になれるのですね。考えてみれば、これは恐ろしい世界です。完全なる能力主義、あるいは成果主義 の世界です。

 こういう世界における「神にあって不可能はない」という言葉は、「福音」でなく「呪い」ではないかと、私は思います。
 さて皆さんは、どう考えるでしょうか。

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