一部の教会では、とても「エモーショナルな礼拝」が捧げられています。私はそういう教会に長く居たのでよくわかりますが、とても感動的で、情熱的な礼拝です。
踊って叫んで、大盛り上がりの賛美!
笑いあり涙あり、デトックス効果が期待できそうなメッセージ!
全員で手を挙げて、切実な嘆きとともに捧げられる祈り!
とにかく「感情」を前面に押し出す礼拝です。だからみんなよく叫んだり、泣いたりします。もう暑くて暑くて、真冬なんか窓が結露して大変なことになります。もし途中で倒れる人がいたら、聖霊に触れられて倒れたのか、酸欠で倒れたのかよくわかりませんから、一応見に行った方がいいでしょう(マジで)。そういう場合は会堂の換気が必要です(マジで)。
ある牧師はそういう礼拝こそ「生きた礼拝」「本物の礼拝」だと言います。エモーショナルでない礼拝は、「死んだ礼拝」だ、と。私が最近よく行くカトリックのミサなんかは、その牧師に言わせればゾンビの礼拝みたいなものでしょう。ミサ・オブ・ザ・デッド、みたいな。
あ、すみません、これ書きたかっただけです。
さて皆さんは、どのような礼拝を捧げてらっしゃるでしょうか。
エモーショナルな礼拝、略して「エモい礼拝」でしょうか。
あるいはオーソドックスで動きの少ない、「エモくない礼拝」でしょうか。
そしてキリスト教の礼拝は本質的に、エモーショナルな要素を必要としているのでしょうか。感動がなければ「恵まれない」みたいな?
その是非はさておくとして、ちょっと昔話をします。
ある賛美集会のことです。
後半、とっても感動的なワーシップソングを皆で歌っていました。舞台では女性たちが優雅なワーシップダンスを踊っています。シンガーたちはマイクを握りしめ、天を仰いで涙目で熱唱しています。会衆は総立ち、両手挙げです。これ以上ないくらい、みんな体が伸びきっていました。集会はまさにクライマックス。終わったあと「恵まれました!」が連呼されるのは、もう間違いありません。
でもその時です。原因はよくわかりませんが、会場のブレーカーが落ちました。照明が一斉に落ちて、突然の真っ暗闇です。音響機器も全て止まって、みんなの生の歌声だけが残りました。
たぶん舞台上のシンガーたちは、どうすべきか一瞬の判断を迫られたことでしょう。広い会場の中、いきなり真っ暗になって、それまで大音量で流れていた楽器の音が全て消えてしまったのです。驚いて歌うのをやめていても、無理はありません。
でも何人かのシンガーたちは、驚いたことに、暗闇の中でアカペラで歌い続けました。やめてはいけないと思ったのかもしれません。自信なさげでしたが、歌声は途切れませんでした。
結果的に、その歌い続ける姿勢が皆の「感動」を呼びました。数秒後には真っ暗闇の中、会衆一同もアカペラで歌っていました。「楽器がなくても、何がなくても、声さえあれば賛美はできるんだ」みたいなことをみんな思ったかもしれません(私は思いましたよ 笑)。それは大変な感動の瞬間となりました。最悪のアクシデントが、最高の感動を呼んだような形となったのです。
「エモい礼拝」が好きな人にとって、まさに「ハレルヤ!」な光景だったでしょう。
でもその時、ブレーカーが落ちて全ての光と音が消えた瞬間、私が真っ先に心配したのは、「牧師が怒り出すのではないか」ということでした。
私は普段からその牧師の行動を見ていましたから、彼がどんな時にどんな反応をするのか、だいたいわかっていました。集会中に電源が落ちるようなハプニングがあった場合、牧師は烈火のごとく怒るのが常です。
「どうしてそういう事態を予測しておかないんだ! 集会が台無しだろ!」
その場でそう怒鳴らなくても、牧師がそう思ったのは間違いありません。だから電気関係の担当者のことが心配になりました。あとでコテンパンに絞られるからです。
でも暗闇にだんだん目が慣れてきて、牧師の姿が見えるようになってきました。するとなんと、牧師は手を挙げて、泣きながら賛美しているではありませんか。予想のまったく正反対でした。
でもそれを見て、逆に私は、牧師が何を考えたかわかりました。停電を逆手にとって、感動の場面を演出しようとしたのです。なぜそれが「演出」だとわかったかというと、結局あとから配線を担当した奉仕者がこっぴどく叱られたからです。もし本当に「アクシデントだったけど感動した」のなら、怒る必要なんてなかったのではありませんか。
礼拝で感動するの、べつに悪くないと思いますよ。エモーショナルな礼拝で感情を揺さぶられて、泣いたり叫んだりして「満たされる」のを、否定する気はありません。
でもそれ「が」礼拝なのではありませんよね。感動がなくたって、エモくなくなって、礼拝はできるはずですよね。「エモい礼拝」が礼拝で、「エモくない礼拝」が礼拝じゃないなんて、いったい誰が決めたのですか。「エモい礼拝」の人たちが勝手に決めたことではありませんか。
というわけで次の日曜も、私はカトリックのミサに行ってこようかなと思っているわけです。「そんなの死んだ礼拝だ」と言われるかもしれませんが、それはそれでミサ・オブ・ザ・デッドだ! と開き直るだけです。
あ、すみません、やっぱりこれ書きたかっただけです(笑)。
カトリック教会のミサや集会に参加していますが、まあ感動はないですね。淡々としているというのが率直な印象ではないでしょうか。高山右近が福者に選ばれたときに大阪城ホーレでミサが行われましたが、このときは少し感動しましたね。
返信削除インターネットで正教会やプロテスタント教会の集会の様子が放映されているのを見ますが、伝統的な教会ほど感動とはほど遠い淡々と集まりのようですね。
跳んだりはねたり、パフォーマンスの高いプロテスタント教会の集会もインターネットで見ますが、参加者は疲れるのではないでしょうか。
どっちが良いかはよくわからないというのが実感ですね。
自分はカトリックのミサ、けっこう感動しながら見てますね。雰囲気とか奏楽とかが特に。ミサの内容にはあまり関係ないのですが 笑
削除新興宗教系プロテスタントの映画ジーザスキャンプで、学校に行かない女の子が「キリストに喜ばれる教会は、へイジーザス、ヒューヒューみたいなことをやっている教会で、ぼそぼそとやっている教会じゃない」みたいな発言をしていましたっけ。
返信削除コンサートのノリでこぶしを突き上げて派手に歌うのは見栄えはするでしょう。でもあんなことをやっていられるのは学生の間くらいじゃないですか?
新興宗教系プロテスタントをやっている中高年のイベントを見に行ったことがありますが、シミや皺の顔で手を挙げて歌うのはちょっと恥ずかしいと思いました。まあこれは好みの問題なのでいいとして、一番これはやめたほうがいいんじゃないかと思ったのは、タテノリぴょんぴょんでした。あの年代でこんなことをすれば、膝や股関節がやられるので心配です。
新興宗教系プロテスタントの人は「死んだ礼拝」と伝統宗教系プロテスタントをバカにしますが、年を取ってからのほうが人生長いのです。。。
「新興宗教系」という表現に違和感を覚えます。具体的にどの今日はが「新興宗教系」なのですか? いずれにせよそういう表現はご遠慮いただければと思います。
削除「今日は」でなく「教派」でした。
削除いずれにせよ私がここで対象にしているのはキリスト教であり、新興宗教ではありませんので、そういった表現は今後ご遠慮いただきたいと思います。
エモいかどうかというのは信仰の本質とは関係ないですよね。
返信削除あるキリスト教メディアに日本のクリスチャン界隈では著名な人が記事を書いていました。抜粋すると次のような内容です。
「ある人に伝道しようと自分の書いた記事が載っている小冊子を渡そうとしたら、日本のキリスト教には力がないと言われショックを受けた。そして、その人からある仏教系宗教団体の活気にあふれる数千人の集会の模様が書かれた新聞を渡された。 ・・・韓国を訪問したとき、現地のキリストの教会には活力があり、賛美に喜びがあり、神の言葉のメッセージと神への祈りに力があり、食事会は愛で満ちていた。教会員の皆さんは元気にあふれていた。そこには人々に福音を伝えようとする熱い使命感と強い実行力があった。私たちが日本で福音を伝えるためには、人々の霊魂の救済に対するもっと熱い情熱を持つ必要がある。」
「熱心で活気があるから・・・」、「愛で満ちていたから・・・」、「数千人が集まっているから・・・」、「キリスト教徒の人口比率が高い国だから・・・」 このような判断基準はとても表面的で短絡的だと思います。
その人それぞれの多様な信仰のあり方があっていいと思います。世界中で、寡黙で静かな人たちが良い証しとなり福音を伝えています。エモい系の声高に押し付ける人たちが拒絶されています。
このような幼稚な記事が影響力のあるメディアに載っていること自体が残念です。
見た目の勢いや力強さ、人の多さ、熱心さ、といったものに、どうしても流されやすいですよね。教会をリードする立場であれば特に、そういうわかりやすい「元気さ」がほしくなるのかもしれません。
削除でももちろんそれは信仰の本質ではありませんし、そういうものを求めない信仰者も沢山います。教会を指導する立場の人たちには、もうちょっとバランスのよい価値基準を持っていてほしいと私も思います。