自分の教会が解散してすぐのことです。
ある教会の礼拝に出席して、私は「礼拝できない自分」に気づきました。
礼拝の場にいるけれど、賛美できない、祈れない、説教に集中できない、終始批判的な目で周囲を見ている、そんな自分がいたのです。
だから礼拝することが、当時は本当に苦痛でした。
理由は言わずもがな。カルト化教会で、さんざん「おかしな礼拝」をしてきた反動でしょう。カラオケ気分の賛美、独りよがりな祈り、泣き笑いのメッセージ、感動を煽る礼拝演出、自分たちこそ「霊的」だという自負心・・・、そういったものが、私の(教会の)長年の礼拝スタイルでした。
だからそれらの誤りを一つ一つ見つけて、間違いだったと認めることが、解散後の私のすべき第一歩でした。
自分がやってきたのは本物じゃなかった、いやむしろ嘘だった、という「自己否定」から始めたのです。
すると必然的に、「礼拝できない」という壁にぶち当たります。
たとえばルーテル教会の伝統的な礼拝に参加した時のことです。聖歌を歌っている自分が、まずとても「嘘っぽい」のです。それだけでなく説教を聞いて頷く自分も、牧師の祈りに耳を傾けて「アーメン」と言う自分も、礼拝が終わって牧師に礼を言う自分も、どれもこれもが耐えがたく「嘘っぽい」のでした。
その教会が「嘘っぽい」のでなく、私自身が「嘘っぽい」、という意味なのですが。
教会が変わっても、周囲の人々が変わっても、礼拝の形式が変わっても、礼拝している自分は変わりません。当然ですが。そしてその自分自身に、かつての教会での姿が見えてしまうのです。あまりに長くそこに居たせいか、「教会=自分」みたいになっていたのかもしれません。
これはなかなか驚愕の発見でした。これじゃ自分は一生礼拝できないんじゃないか?
実はそういう状態が長く続きました。正直言いますと、今もそこから完全に脱却できたとは言えません。今も昔歌った賛美(ヒルソングなど)を口ずさみますと、「これは単にカラオケ気分になっているだけじゃないか」と思ってしまいます。これは心からの賛美なのでなく、自分が気持ちいいだけなのではないか、と。
かと言って、じゃあ「カラオケ気分でない賛美」って何なの? と考えると、まるでわからないわけです。人は歌う以上、どうしたって自己陶酔感を味わうのではないでしょうか。そういうものが少しは含まれるのではないでしょうか。どんな人だって、1%くらいは。その1%をも捨て去った、完全に純粋な「捧げもの」としての賛美とは、いったい何なのか? 今もってわかりません。
というわけで、礼拝の場で「歌う」ことはできます。「説教を聞く」こともできます。「聖書を開く」こともできます。それらの行為だけ見れば、私は立派なクリスチャンかもしれません。でもそれをしている自分がどうにも「嘘っぽい」のです。礼拝の場に行けば行くほど、自分が「正しい礼拝者でない」と思い知るのです。まわりの誰が気づいていなくても、自分だけはそれをひしと感じているのです。
映画『ファイトクラブ』の主人公ジャックは、重度の不眠症です。四日も五日も眠れず、眠れてもごくわずかで、いつも頭がボーッとしています。薬も効きません。困ったジャックは医者に勧められるまま、「睾丸ガン患者の会」に参加してみます。ジャックはガンでなく、まったくの健康体なのですが。
さて患者会に参加したジャックは、話すことがないから黙っています。でも不眠症のせいで疲れきった顔をしているのですね。すると周りの(本物の)患者たちは、ジャックが相当重症なガンで絶望しているんだ、と思い込んでくれるわけです。それでいろいろ親切にしてくれます。抱きしめてくれて、泣いてくれます。ジャックは彼らの腕の中で、つられて泣いてしまいます。そして泣きに泣いて帰った夜、ジャックは久しぶりに、良く眠ることができるのでした。
以来ジャックはいろいろな患者会を探して、患者の振りをして潜り込むようになります。「患者会ウォッチャー」になったのです。ジャックは方々の患者会で患者たちに親切にされて、抱きしめられて、その腕の中で思いっきり泣いて、安眠する、という日々を繰り返すようになりました。
でもジャックは当然ながら、自分が「インチキ患者」だとわかっています。本物の患者たちに混じって、彼らの悲嘆を食い物にしている嘘つきだ、と。
このジャックの心境が、礼拝に参加した時の私の心境に、ちょっと似ているかもしれません。
周りの人たちが真剣に、敬虔な姿勢で礼拝に臨んでいて、私もそのような振りをして礼拝しているのですが、そのくせ自分の「嘘っぽさ」をひしひし感じている、という具合ですから。
では、「正しい礼拝」とは何なのでしょう。
聖書には、礼拝は「霊とまことによって」行うものだ、と書かれています(ヨハネによる福音書4章23節)。
「霊」の部分のことは、正直よくわかりません。でも「まこと」の部分でみてますと、自分にはそれが「ない」としか思えません。嘘っぱちな礼拝ばかりしてきたのですから。
だから「自分はまことの礼拝者ではない」と思ってしまうわけです。
さて繰り返しますが、「正しい礼拝」とは何なのでしょう。
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※当記事はメルマガ第38号からの抜粋です。
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