キリスト教の中心的な教えの一つに、「悔い改め」と「罪の許し」があると思います。
犯した罪を悔い改めれば、許される。でも悔い改めない罪はそのまま残る。という奴ですね。礼拝で唱える「主の祈り」にも、「我らの罪を許したまえ」というフレーズがあります。クリスチャンには馴染みの文言でしょう。
人間は間違いを犯すものですし、悪いこともしてしまうものですから、「悔い改めれば許してもらえる」というのはグッドニュースだと思います。
ただこの教えの扱い方は、教会によってずいぶん違います。
たとえばカトリックでは「告解(ゆるしの秘跡)」という制度があります。いわゆる「懺悔」ですね。専用の個室で司祭に(一対一で)自らの罪を告白し、許しを得るというアレです。年に一回「共同回心式」というのもあって、人によってはそこで一年分の罪をまとめて許していただくみたいです。その場合はもちろんザックリした告白になると思いますが。
ではプロテスタントはどうかと言うと、教会によってピンキリですから、「これ」とはっきり言えないように思います。カトリックみたいなわかりやすい「形」もありません。
でもたぶん多くのプロテスタント教会では、個人の事情に応じて、あるいはカウンセリングの一環として、牧師に罪を告白する機会があるかと思います。年に一回とかの制度的なものでなくて。あくまで個人的なものとして、ですね。だから改まった形の「罪の告白」なんてしたことがないよ、というプロテスタントのクリスチャンは多いと思います。それが良いか悪いかは別にして。
あるいはちょっと厳しいプロテスタント教会になりますと、「日々罪を許されなければならない」ということで、毎日寝る前とかに「あの罪を許して下さい」「この罪を許して下さい」と祈ることが推奨されるかもしれません。もちろん信徒全員がそんなふうに毎晩牧師に告白するわけに行きませんから、「神様に対して」「祈りの中で」告白するわけですが。
その意味で、(あくまで私の理解ですが)カトリックが「人(司祭)」に対して罪を告白するのに対して、プロテスタントは「神」に対して告白することが多い、と言えそうです。
皆さんはいかがでしょうか。
ところで私が教会でよく聞いた「悔い改め」の一つに、こんなのがありました。
「知らずに犯した罪を許して下さい」
「気づかず犯した罪を許して下さい」
祈りの中でサラッとそう言うので、誰も何も言わないのですが、私はその台詞がなんだか気になりました。
これってつまり、「悪いことしちゃったかもしれないから、とりあえず謝っておくね。ごめん!」みたいなことじゃないでしょうか。仕事の引き継ぎの時に「なんか粗相があったらよろしく!」と言っておくのと同じと言うか。
なんか都合がいいなあ、いかにも日本的な言い方だなあ、と私は思うわけです。
あとこれは大問題だと思うのですが、ある教会では、信徒が一人一人講壇に立たされて、皆の前で罪の告白をさせられるそうです。実際に見たことはないのですが。
皆の前で「これこれの罪を犯しました」と話して、悔い改めて、それで初めて許してもらえる、と。ものすごく高いハードルじゃないでしょうか。でもその教会しか知らない人は、「そうしないと罪を許してもらえない=地獄行き」と考えるでしょう。だから恥ずかしいことや言いづらいことを、あれやこれやと言う羽目になるわけです。
でもそれって、ほとんど虐待だと私は思います。そういう教会は行かない方がいいと思いますが、皆さん大丈夫でしょうか。
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いずれにせよ、そういう問題アリなケースも含めて、罪の告白とは基本的に自発的なものでしょう。すなわち言うにしても言わされるにしても、何を言うかは自分で選ぶ、ということです。実際、どうしても言えないことは言わないのではないでしょうか。
「悔い改めの祈り」など聞いても、「愛のない私を許して下さい」とか「自己中心的な自分を許して下さい」とか、抽象的でザックリしたものが多くないでしょうか。つまり、本心からの悔い改めを人に聞かせようとは、ほとんど誰も思わないわけです。それが良いか悪いかの話ではなくて。
16世紀にカトリック教会が発行して、ルターの宗教改革のきっかけの一つともなった「贖宥状」ですが、これは考えようによっては罪の告白の代替案と言えるかもしれません。つまり面倒で嫌な告白をする代わりに、お金でカタをつけよう、みたいな。
「知らずに犯した罪を許して下さい」にしても、「贖宥状」にしても、人間にとって都合のいいことを、まあいろいろ考えるものです。どの時代も私たち人間はたくましく、そのたくましさは宗教さえも凌駕するのではないかな、と思った今日この頃です。
贖宥状ですが、免罪符ではありませんね。最近の世界史の教科書でやっと誤りが正されてきたようですが。僕はミサの中で罪の許しを願う祈りがありますので、それでよしとして、いままで告解はしたことがありません。
返信削除罪は許されるが、罰、償いはしなければなりません。贖宥状は、まあ懲役3年のところを執行猶予にしてあげるというようなもので、それはあかんと言って、ルターは批判したわけですね。
意識せずに罪を犯している場合もあるわけで、その場合も許してねと祈るわけですね。
償いの方は、自分で考えて行おうというわけですね。
人間にとって都合のいいことを、一言で言って聖伝というわけです。そういうようにいつの間にか言われているというわけです。聖書には書いてないけど・・たとえば日曜日が安息日とか、12月25日が聖誕祭だとか、ローマ司教である、教皇は一番弟子であるペテロが初代司教で教皇だから、他よりも偉いのだとか。
そういうことを言い出したら、天皇制は、聖伝ということになるわけで、万世一系の系統でご先祖は天照大神ということになるわけで、だから偉いのだということになっているわけで、きりがないですね。
クリスチャンは、イエスの十字架によって罪を赦された。にもかかわらずクリスチャンは聖人君子になるわけではないから、また罪を犯す。この罪をどうすべきか?という問題は昔からあります。
返信削除イエスの宣教や新約聖書の使信から言えば、人が「イエスを正しいと認め、イエスに従いたい」と思ったその時から、その人の罪は赦されたのだと思います。
それは、もう罪を犯すことはないということではないし、罪を赦されたのだから何をしてもよいということでもありません。
人が、その心から正しいと認めたイエスその人が、その人を内側から変えてゆくからです。ペテロのようにイエスを否認することもあるでしょう。パウロのように道を外すこともあるでしょう。最初のイエスの弟子たちのように、イエスを独り残して離散するということもあるでしょう。しかし、彼らの心に植えられたイエスを誰も殺すことはできない。彼らは再び立ちあがり、生まれかわり、再び集まります。
イエスに接し、またはイエスを伝え聞いた彼らが変わってゆく様子を見て、彼らは「これは聖霊(神の霊)によるものだ」と言いました。
人は誰しも罪を重ねる。しかし、イエスを正しいと認め、その跡に従いたいと思った人は、その心そのものが、その人を教えるのでしょう。もう聖職者たちに罪についてあれこれと言われる必要はありません。聖霊が、生けるキリストが彼らを教えるからです。
それゆえ、初期のクリスチャンたちの宣教というのはイエスの言行の宣教であって、倫理的な勧告や悔い改めの要請ではありませんでした。聖職者がどんなに騒いだところで、人は変わりません。人を変えることのできるのは、ただ宣べ伝えられたイエスのみ。
もちろん、人間同士のトラブルはあるでしょう。「君のこういうところはよくない」と指摘しなければならない時もあるでしょう。その時も、「預言者の霊は預言者に聞き従う。神は混乱の神ではなく、秩序の神である」とあるとうり、イエスに従いたいと思っている人が、賛成か反対かはともかく、他者の意見を無視したりナジったりすることはないでしょう。もし、誰の意見にも耳を貸さず、コミュニティから追い出される人がいても、彼の心に植えられているキリストのゆえに、彼も見捨てられているのではない。彼の人生航路の途上で、イエスは必ず彼に語りかけられるでしょう。
信仰か?律法か?という問いが、片方をとって片方を捨てるというと理解されているなら間違いでしょう。律法がなくとも、宣べ伝えられたイエスその人が、人を神の国にふさわしい人へと変えてゆく。イエスは生きている。人をイエスの弟子とさせるのは、牧師の弟子訓練ではなく、宣べ伝えられたイエスその人。教会の律法主義は、何の力もない偶像崇拝にすぎません。パウロの手紙には、山積する教会の問題にも関わらず、生きて支配するキリストに対する信頼がみられます。宗教指導者の権威に人々が服するのではなく、人々が自由のうちに、彼らに語りかける内なるキリストの声に教えられながら、互いに重荷を背負い、高めあうことを願ったのでした。